第33話 序章5の9 迷夢

「いやはや安藤さん・・・、あんたは近年稀に見る大虚おおうつけ者だね。

 クックック・・・、ここまでとなるといっそ清々しいな。」


 先ほどまで大人しく聞いていたのが嘘のように、彼は目尻に涙を浮かべ、大笑いしていた。

 それにつられ、安藤も力なく苦笑を浮かべる。


「そんなことは言われずとも、嫌と言う程分かってるよ。

 さっきも言っただろ。俺が物分かりの良い人間だったらこうして悩んでない、ってな。」


「まったく、せっかく気のいた言葉の一つでも贈ってやろうと思ったのに、これじゃあな・・・。」


 全ての枷から解放され、自由の身になりたいと夢見る自分。

 一方で、周囲の人間と共に生き、共に死ぬことを切望する自分も、そこには存在する。

 今までその境界線を、安藤はずっと歩いていた。

 どちらかへ傾く決心を己では下せずに。


 決断を恐れ、先へ先へと追い遣り続けてきた。

 だからこうして酒のさけに、皮算用かわざんようの妄想を垂れ流す。

 そんな浅ましい己に、安藤はたまらなく嫌気が差す。


「何のことはねえ。

 結局一番面倒なのは、安藤さん自身だったってことじゃねえか。」


 やれやれ・・・、といった調子で店主は告げた。


「だったら安藤さんが今まで語った政治がうんたらや、対外がうんたら、あんたの部下の事情うんたらも、どっち付かずの自分を誤魔化ごまかす為の方便だったんじゃねえのかい?」


「そんなことはッ!」


 思わずカウンターを強く叩き、勢いよく立ち上がった。

 椅子が倒れ、猪口も何本か倒れた。


「そんなことは・・・。」


 ”無い”、という言葉がどうしても出て来なかった。


 本当に無い、と言い切れるのか。

 己の何処かに、そうした打算的な考えがあったのかもしれないのではないか。


 安藤自身にも本心が分からなくなっていた。

 或いは、見栄みえの一つでも張って、”無い”、と言い切ってしまえば良かったのかもしれなかった。どうせ、ここにいるのは自分と店主だけなのだから。


 だがそれでも、そうする己の姿を許容することが安藤には出来なかった。

 そして倒れた椅子を直し、力無く座った。


    ※


「なあ、安藤さん。俺は別にあんたを否定してるわけでも、けなしてるわけでもないぜ。」


 店主は、俯いている安藤にそんな言葉をかけた。


「どういう意味だ。」


 顔を上げて、力無く反応する。


「別に悩んだり、落ち込んだり、我儘わがままを通したりしてもいいじゃねえか。だって人間なんだからよ。」


 ”人間”。

 その言葉に安藤は、何か感じ入るものが有った。


「誰も彼もが、矛盾をかかえて、後悔を抱えて、理想だの希望だの妄想だのを抱えて、それでも生きていくのが人間だろ?

 葛藤かっとうも、未練みれんも、夢もいだかずに生きていける人間なんていやしねえよ。」


 彼の言葉は自然と頭の中へ入って行き、ルフランを起こす。

 今度は安藤が聴きに徹する番だった。


「仮に、安藤さんが一切合切を放り捨てて、未だ見ぬ土地へと旅立ち、そこで仙人の如くに独りで静かに生涯を送ろうとしよう。

 逆にあんたの部下や同輩と共に過ごし、共に鍛え、そして戦場で皆と諸共に果てる、って未来でもいい。

 でも結果はは同じだ。

 どっちを選ぼうが、選ばなかった方の未来を想像せずにはいられなくなる。

 ”あっちを選択していれば・・・、”だの、”こっちを選択したら今頃は・・・、”だのといった後悔や妄想が、結局はまとうんだよ。

 特に今の安藤さんのように、葛藤が深く、重大な決断なら尚更な。」


 そこまで言って店主は、灰吹きに雁首がんくびを軽く叩きつけた。

 カン、っと子気味良い音と共に、灰殻が落ちる。

 そして火皿に煙草を詰め込み、再び吸い始めた。


「そりゃ迷いも、後悔も無い選択が出来るなら、それが一番なのかもしれないな。

 一切の躊躇ちゅうちょも無く即決し、一切の脇目も振らずにその道を邁進まいしんする。

 傍から見てりゃ、さぞかしそいつは聖人様か、超人様のように映るだろうよ。

 けどよ、安藤さん・・・。

 かつての部下だった者が、次々と討死にする姿に何の一瞥も関心もくれることなく、只管ひたすらに孤独で、只管に己だけを見て生きることが人間の生き方か?

 或いは自我を集団の中に埋め、意識を殺し、己を完全なる歯車であると定義し、そのことに何らの疑問も抱かず生きることが人間の生き方か?

 違うだろうよ。そんなのは人間じゃない。昆虫か機械のソレだ。」

 

 安藤は、目を見開いて驚いた。

 かつて秩父宮から受けた薫陶の焼き直しを。

 そしてその続きを頂いているかのような感覚だったのだ。


「だが、現に俺の部下が・・・、その家族が悩み苦しんでいる。

 そしてそれは由利本だけじゃないだろう。彼の以外にも東北の農村から来た者がまだまだいる。これまで声には出していなかったが、同じような事情をかかえているはずだ。

 それに、今の腐敗し切った政治、対支関係の方策など考えなければならないことが、山とある。

 俺はあいつ等の後顧の憂いを絶つためにも、それらの問題を解決しなければならないのだ。」


 安藤は絞り出すように言った。

 見えている問題が山ほどあるのに、それに手を拱いている現状が歯痒くて仕方がなかった。


「そう、そこなんだよ。」


 店主は、煙管で安藤を指した。


「あんたは色々ごちゃごちゃと考えて、色んなことに手を伸ばし過ぎだ。

 俺には、政治だの対外政策だの言われても、ピンと来ねえんだが、安藤さんの中には何か具体的な方針だのやり方ってのは浮かんでんのかい?」


「それは・・・、」


 と安藤は返答にきゅうした。

 それもそうだ。

 いくら政治に関心を持ち、意見や理想を持とうとも、それをどう実現すればいいかに関しては全くの門外漢もんがいかんも良い処である。


 そういったことに詳しいであろう北一輝の著書には、その理想とする政府の具体的な仕組みが記されてはいたが、そこに至るまでの過程が安藤には描けなかった。


 だからこそ、軍人が政治家の真似事をすべきでない、という自論を有しているのだ。


「だろう?所詮しょせんはそんなもんだ。

 俺達素人がいくら頭をり回したところで、政治なんてもんは分かりっこねえんだ。

 それなのに分かりもしねえものを勘定かんじょうに入れて考え込むから、益々物事が見えてこなくなる。」


 店主は指していた煙管を再び吸い始める。


「結局出来ることなんて、ソイツの得物が届く範囲でしかねえのさ。

 政治家だったら、ソイツの言葉の届く範囲がソイツの領域だ。海軍の大将なんかだったら、軍艦の艦砲射撃の射程距離がソレだ。」


 そして、安藤をちらりと見て、


「そんで安藤さんだったら、あんたの銃剣の届く範囲がソレだ。」


 そう言って店主は口角を釣り上げた。

 その顔に安藤は、ムッと憤慨する。


「だったら大将はどうなんだ。」


「俺かい?

 俺はコイツの届く範囲が、俺の出来ることだねえ。」


 特に気に留めた風も無く、ヒョイと包丁を取り上げ、それをクルクルと器用に手の中で回していた。


「なら後は簡単だ。自分の出来る範囲で、出来ることを必死でやればいいだけの話だ。

 安藤さんは、あんたの隊の中で出来ることをすればいいのさ。」


 そこまで言うと店主はまた煙管を咥えた。


「随分と簡単に言い切ってくれるな。」


「こういうのは簡単に考えて、簡単に言った方が良いんだよ。

 物事は単純シンプルであればある程良い。」


「相変わらず口の減らないやつだ。」


 安藤は呆れたように嘆息する。


(俺の出来る範囲で、出来ることか・・・。)


 店主の言葉を思い起こす。

 結局、愚痴るだけ愚痴った後に、店主の口車に乗せられただけのようにも感じたが、安藤は悪い気はしなかった。

 何となくだが、これからの身の振り方が定まったような気もするからだ。


「大将・・・、」


「何だよ?」


「今日はいろいろとありがとな。」


「改まって何だ、気色悪いな。

 それに礼には及ばねえよ。客の愚痴を聞くのも俺の仕事だ。」


 そう言うと彼は何かの下拵しとごしらえをすると、ソレを焼き始めた。

 賄いか何かなのだろうと、安藤はあたりを付けた。


    ※


 ふと安藤は、時計に目を遣ると、大分夜も更けた頃合いになっていた。


(そろそろここを出ないと終電を逃してしまうな。)


「大将、勘定を頼む。」


 そう言って店主に声を掛けた。

 会計を済まし、店を出ようとしたところで呼び止められた。


「ちょいと待ちな。

 安藤さん、こいつを持っていけ。」


 その言葉と共に、紐で結ばれて吊るされた小包が差し出された。


「これは?」


「俺からの手土産だ。焼き鳥が入ってる。

 明日の朝にでも温め直すだの焼き直すだのして、奥さんと一緒に食べてくれ。」


「改まって何だい、気色悪い。」


 ニヤリと笑って安藤はそう言うも、


「なぁに、安藤さんはうちのお得意さんだからな。こうして媚の一つ売っておくのも悪くないな、て思ってよ。」


 安藤の意趣返しは、あっけなく交わされてしまった。


「何かあったら、また何時でも来な。

 酒と料理を用意して待ってるよ。それが俺の出来ることだからな。」


「しょっちゅう店を閉めてるくせに、よく言う。」


「おや、そんなしょっちゅう足繁あししげくここに通ってくれてたのかい。

 そいつぁ知らなかったよ。

 そんなに俺を求めてくれているところ申し訳ないが、俺の方も中々に多忙な身だからなぁ。」


 店主は、わざとらしい口調でそう言った。

 

(本当、どこまでも口の減らない奴だ。)


 安藤は胸中で悪態を吐いていた。


「そうかい・・・、ならせめて前もって開ける日を教えてくれ。」


「あー・・・、まあ、任せとけ。」


「・・・、本当に任せて良いんだな。」


 また一つ、要らぬ心配が増えた。


「まあいいや。

 それじゃあ、大将。良い年を。」


「安藤さんもな。」


 そうして、二人は別れる。

 道路に積もった雪を踏み締めて、安藤は暗い夜道を進む。


 都電とでんの市ヶ谷駅から、路面電車へと乗り込み、幾つかの乗り換えを経て、上馬かみま引沢ひきさわで下車した。

 そして再び自宅へ向かって歩き出す。


 朝からずっと振り続いていた雪は、もう既に止んでしまったらしい。


    ◆


 序章5 終わり

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