第10話 序章3の5 夢現

 刃が肉を貫く鈍い音。

 間違いなく奴の短刀は、振り下ろされた。

 だが、いつまでたっても短刀が突き刺さる痛みが来ない。


 いや、もはや身体中を踏まれ過ぎて、痛覚が麻痺しているんだろう。

 己の視界も真っ黒に染まり、何も見えない。

 とうとう視覚すらも失ってしまったのか・・・。

 

(ごめんなさい、茜。

 約束・・・、守れそうにないや。一緒に故郷に、家族の元に帰って幸せになろうって言ったのに・・・。)


 千春の頭の中に、様々な思いが浮かび上がっては、次々と消えていく。


(これが・・・、走馬灯。)


 ケハッと血を吐く音が聞こえ、顔を濡らす。


(ああ、もう、自分で吐いた感覚も無くなってしまったの。

 このまま、いろんな感覚が、機能が失われていくのか。

 もう死ぬんだな、私・・・。)


 千春が死の底へと沈んでいくその間際、


「おねえ・・・ちゃん・・・。」


「え、」


 その声に、死の水底から引っ張り上げられた。

 沈降ちんこうしていく意識が、急速に覚醒すると共に視覚も聴覚も痛覚も一瞬で舞い戻ってくる。

 気が付くと、誰かが千春の上に覆い被さっていた。


「ああ?」


 男は怪訝な顔をする。


(何者かがクソガキを庇いやがった。

 いや、それとは少し違うか。

 なんせ、そいつの背中には、こうして深々と得物が突き立ってんだからよ。)

 

「だい、じょう・・ぶ・・・?おねえ、ちゃん・・・。」


 よく聞きなれた声。

 あの日、あの馬車の中で、あの時に、守り抜くと自身に誓いを立てた子の声。


 その声を聞いた瞬間、身の毛が逆立った。呼吸も乱れ動悸が激しくなっていく。


 ああ・・・、


「茜・・・。」


 どうして、


「どうして・・・、」


 ここにいるの・・・。


「どうして・・・、」


 戻ってきてしまったの・・・。


「どうして・・・、」


 私なんかを・・・。


 思うように言葉を紡げない。

 もちろん全身を覆う激しい痛みが、身体の自由を奪っているのもある。

 だがそれ以上に、この状況が・・・、茜がこの場にいる状況が全く理解することが出来ず、千春は惑乱していたのだ。

 僅かに声として出てくるものは、単純な疑問の言葉だけだった。

 だがそれでも、


「だって、おねえちゃん・・・だから。

 わたしの、お姉ちゃんだから。」


 それでも茜は、千春の意図を察していた。


「まえに、言った、よね・・・。しまいは・・・、ささえ、あう・・・、もの、だって・・・、」


 必死に絞り出すその言葉は、絶え絶えで、弱々しく、今にも消え入りそうな程にかすれたものだった。

 眼前の茜の口元からは血が垂れていた。

 茜の腹部からは、短刀の切っ先が短く突き出していた。

 その切っ先から血が雫となって滴っている。


「姉妹は・・・、いつも、いっしょに・・・いる、もの・・・だって、グウゥッ!」


 茜が激痛に呻く。


「勝手にしゃしゃって、勝手に語り出してんじゃねェよ、ボケが。」


 男は、引き抜いたドスを再び茜の背中へ突き立てた。それは茜の身体を貫通し、腹部の別の箇所からその顔をのぞかせていた。

 それでも、茜は構わず言葉を紡いだ。


「いつ・・も、わたし、ばっか・・・り、たすけ、られてた・・・から・・・。ぐぅ!」


「黙れよ。」


「こんど、は・・・、わ・・たし、が・・・、うぁ!」


「黙れっつってんだろ、ガキ。」


「おねえ、ちゃん・・・を、たす、ける・・・ば、ん、ギイッ!」


 男は茜の態度が気に食わないのか、何度もその背中を貫いていく。

 茜の口からは血があふれ出し、その下にいる千春へと降り注ぐ。

 その小さい腹部には、幾つもの赤黒い穴が開いていた。

 その光景に、千春の中にあるものがガラガラと音を立てて崩れていくような、決定的な支えとなるモノが崩壊していく感覚に襲われた。


「やめて!お願い、やめて!これ以上茜を傷つけないでッ!茜も、もういいから、そこをどいて!お願いだから、もうわかったから、これ以上しゃべらないでッ!」


 千春は力の限り叫んだ。

 声を出すたびに全身を激痛が駆け巡る。

 だがそれでも叫ばずにはいられない、心の底から必死で懇願こんがんし続けずにはいられなかった。


 しかし、その悲痛の懇願も虚しく、茜は猶、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。


「ねえ、おねえちゃん・・・、ぜっ・・・たい、いっしょ、に、かえ・・・ろう、ね・・・。」

 

(やめて、やめて!もう無理をしないで。

 私は大丈夫だから早く、早くそこを・・・。お願いだから。)


「わた、したち・・・、ほんと、の・・・しまい、じゃ、ない・・・けど、かえっ・・ても、おねえ、ちゃん・・・、て、よん・・・で、いい・・ッ!グ、ギィイイイ、」


 苦悶の声と共に大量の血が口から漏れ出す。

 腹部からも今まで以上の勢いで血が零れ落ちてきた。

 業を煮やした男が、茜の身体を貫く短刀の柄を捻って、その傷口を抉り回したのだった。


「お、ねえ・・・ちゃん、て・・・よ・・・んで・・・、いい・・・か、な・・・。」


 最後の力を振り絞り、言葉を発した茜は、身体を支えていた腕が力無く崩れ落ちると、その小さな身体が千春の上へ落ちてきた。

 茜から滑り抜けた短刀からは血と僅かの肉がこびり付いていた。

 千春の腹部には暖かく粘ついた液体が広がっていき、それとは対照的に茜の身体からは徐々に熱が抜けていった。


「ねえ、茜、ウソでしょ。起きて、起きてよ。一緒に帰るんでしょ!」


 千春は呼びかけ、その身体を揺するが、抱きかかえるその少女からは、何の言葉も返ってこない。


「お願い、返事をしてよ!私をからかってるだけなんでしょう?好きなだけお姉ちゃん、て呼んで良いから、目を開けて!お願いだから、目を、目を開けてよおおおおおおおおおおおおおお!」


 千春の絶叫が響き渡る。


「ハッ、くっだらねェ。

 愚にも付かねェことをベラベラ、ベラベラとよォ。」


 男は、目の前の、茜を抱きかかえて泣きながら必死で呼びかける千春の様子を一笑に付した。


「どうせテメエも、すぐにその後を追うんだろうがよ。」


 そう言い、ドスを握り直し、その少女に近寄ろうとした時、


「があああああああッ!」


 突如、男の背後から絶叫とも、呻きとも分からぬ声が聞こえた。

 足首に強烈な締め付けを感じた次の瞬間には、強い力によって男の足はすくわれていた。

 

「ぐわあああああああああああああッ!」


 咄嗟に左手で受け身を取ろうとしたが、その手は千春によってガラス瓶が埋め込まれており、まともに機能しなかった。

 結果、十分な受け身を取ることが出来ず、身体は地面に叩き付けられ、左腕も受け身の失敗により折れてしまった。


「ぐうううう、こんのイカレ野郎が!まだくたばってなかったのか。」


 全身を伝う痛みに悶えながらも、その原因の方へ憎悪の視線を向ける。

 そこには、あれだけ踏み付け、頭蓋を砕いてやったにも関わらず、掴んだ足へ爪を突き立て、そのぎらぎらと光る赤い目を男に向けていた。

  髪も襤褸ボロ外套がいとうも血で汚れ、割れた頭からは今も血がこぼれ出していたが、その怪力は依然健在であった。


「さっきから、人の邪魔ばかりしやがって!

 いいぜェ、そんなに死にたきゃ、先ずはテメエからだ。

 キッチリ止め差して、二度とその気持ちワリい目を向けらんねェよう抉り出して、バラしてブチけて壁の染みにしてやるよ。」

 

 男は手始めにソレの顔面へ蹴りを叩き込むと、改めてソレに向き直り、獰猛に笑った。


    ※


 千春の全身には、無数の殴打痕おうだこんが浮かび上がっていた。

 耐えがたい激痛が身体の芯から蝕んでいく。

 それでも気力を振り絞り、満身創痍の身体に鞭を打ち千春は、その両手に茜の身体を抱えて、元来た道をるように走った。

 地面を踏みしめる反動だけで、身体が引き裂かれそうになり、意識も飛び懸ける。

 茜の小さな体を抱えるその腕も痺れ、感覚を無くしていく。

 それでも立ち止まる訳には、倒れ伏す訳にはいかなかった。こうしてもたついている間にも、茜の身体からは刻々と体温が失われている。

 ”何としても茜を救い出す。”

 その意志だけが、とうに限界を過ぎた千春の身体を突き動かしていた。

 長い長い道のりを走り抜けると、ようやく路地の先に光が差し込んでいるのが見えた。


 やっとだ。

 やっと表の世界へ戻ることができる。


 千春は一気に路地を駆け抜け、闇の世界から抜け出した。

 まばゆく、溢れんばかりの光が千春の網膜いっぱいに殺到し、視界を真っ白に染め上げる。

 それでも、千春には明順応の時間さえ惜しく、何も見えないまま通りへと飛び出し、力の限りに叫び、呼びかける。


「お願いします。誰か、誰か助けてください。お願いします!」


「せめて、病院の場所まででも良いので、助けてください。お願いします!」


 何度も何度も、叫び続けた。

 しかし、一向に千春の呼び掛けに応じる者が現れなかった。

 次第に、千春の視界がうっすらと、その像を形作っていく。

 表通りは、二人が路地へ入って行ったときのままと変わらず、今猶、大勢の人が行き交っていた。しかし、その誰もが千春達に気が付いていなかった。


 いや、千春があれだけ叫んで呼びかけたのだ。誰も気付かないはずがない。

 本当は、多くの者が二人に気付いているのだ。

 だがしかし、千春と茜のほとんはだかに近い身形みなり、全身を覆う傷跡、血で汚れた身体。

 二人の尋常ならざる様子に、誰もが二人の身に何が起こったのかは、瞬時に理解することはできた。

 だが同時に誰もが、面倒ごとに巻き込まれることを嫌がっていた。


 ”自分が助けなくても、きっと他の誰かが助けてくれるだろう。”


 道行く人の誰もが、そんな考えを持っていた結果、結局、皆がこの二人を無視して過ぎ去って行く、という状況が生じていた。


「どうして、誰も助けてくれないの・・・?」


 消え入りそうな声と共に不安が零れる。

 それでも、すぐに気持ちを切り替え、道行く人へ縋った。


「どうか、助けて・・・、キャッ!」


 歩く人の足にぶつかり、跳ね飛ばされる。相手は突き飛ばされた千春に一瞥すらくれない。


「お願いします、助けてください!」


 別の通行人のコートのすそへしがみ付く。


「・・・。」


 鬱陶しそうに顔の向きも変えず千春を流し見ると、コート強く引いて振り払い、再び歩き出した。


「どうか、近くのお医者様の場所を教えてくださるだけでも良いので・・・。」


 また別の者へと声をかける。


「あー、いま僕は急いでてね。悪いけど他の人に当たってくれないかな。」


 彼もまた千春の身なりを見ると、顔をしかめ、そそくさと速足で去って行った。


(どうして、どうして誰も私達を助けてくれないの。)


 千春は焦燥に駆られる。

 この時、この瞬間にも腕の中の茜からは、刻々と生気が失われていた。

 

「誰でもいいから、助けてよおおおおおおおおお!」


 必死の叫声も虚しく、繁華街の強盛きょうせいに呑み込まれていった。


「お、ねえ・・・ちゃん・・・。」


 胸元から微かな囁きが聞こえた。

 思わず、目を向けると茜の口が小さく動いていた。その目は僅かにしか開かれておらず、その焦点も定まっていなかった。

 弱々しく震える幼く小さなその手をギュッと握り締める。


「茜!大丈夫、今すぐお医者様に連れてってあげるから。もう少しの我慢よ!」


 茜の意識を繋ぎ留めるべく、懸命に声をかけ続ける。

 ここで再び意識が途絶えたら、二度と戻って来ないだろうという確信が千春にはあった。


「すぐに診て、治してもらえば。そしたらすぐに元気になるから!」


「そして、また一緒に暮らそう。今度はもっといいお店で、優しい人たちと一緒に楽しく働いて・・・、」


「そして・・・、そして、その日が来たら、その人達に笑顔と、ちょっとの涙で私達の門出を見送ってもらうの。」

 

 必死にまくし立てる。


「そしてッ!」


「うん、あかね、も・・・そん、な、く・・・らしが、した・・・かっ・・・た、な・・・。」


 茜の囁きが、千春の言葉を遮った。


「でも・・・ね、もう、ダメ・・・なん、だよ。」


 儚く、吹く風に容易たやすく消し飛ばされそうな声がそう告げた。


「あかね、にも・・・、もう、わか・・・るん、だ。」


「ダメ!そんなこと言わないで!一緒に故郷に帰るって約束したでしょう。

 一緒に帰って、そして、私のお父さんとお母さんに私の新しい妹だよって、茜を紹介するの・・・。」


 千春は、茜の言葉を強く否定した。 


「初めは、小雛がやきもちを妬くかもしれないけど・・・、でもきっと二人は仲良くなれるわ。」


「うん。」


「そして、そして・・・、茜のお父さんにも、お母さんにも、私が新しい姉ですって言うの。」


「う、ん。」


「あなたの両親なら、きっと優しく笑って受け入れてくれるわ。」


 千春の目からは涙が溢れる。


「お互いの家は、少し離れているかもしれないけど、毎日、私と茜と小雛の三人で一緒に遊ぶの・・・。

 そして、そして・・・、そしてッ!」


 感情が止め処無く溢れ、上手く言葉が出て来なかった。


「そしてみんなで、ずっと一緒に、幸せに暮らすの!」


「・・・ん。・・・う、ん。」


 その目はもう、閉じ切っていた。


「みん、な・・・で、しあ・・・わせ、に、なり・・た、かっ・・・た、なぁ・・・。」


 ああ、ダメ。

 目を閉じてはダメ。

 せっかくここまで、二人で頑張ってきたんだか。


「ああ・・・あう・・・。」


 ダメ、お願い・・・。私を置いていかないで!

 私を独りにしないで・・・。


「うう、うう・・・。」


 際限なく流れ出る涙に、千春の呂律が回らなくなる。

 溢れ出る様々な思いが喉の奥から零れるが、それが言葉として発せられることは無い。

 唯々ただただ嗚咽おえつとなって漏れるだけだった。


「わ・・・た、し・・、ね・・・。おねえ・・・ちゃ・・ん・・が・・・、おね・・え、ちゃ・・ん、で・・・、ほん・・・と、に、よかっ・・・た・・・。」


 そんなことない!まるで情け無く、愚かで、何一つ姉らしいことの出来ない、ダメな姉だった。

 私こそ、茜が本当の妹みたいで、何時も心が救われて・・・。

 だからこそ、あの地獄の日々にも、耐え抜くことができて・・・。


「あぁ・・・、あか、ね・・・、なん・・だか、すご・・・く、ねむ・・く、な・・って、きちゃ・・・た・・・。」


 ダメ、寝てしまってはダメ!

 もう二度と起きられなくなってしまう。


「ダメ、寝てはダメよ!今日は特別に夜更かししていいから、お姉ちゃんが許すから。

 だから、眠ってはダメェッ!」


「ふふ・・・、や・・・った、あ・・。

 じゃあ・・・、あか・・ね、ず・・・っと、おき・・て、る・・・ね・・・。」


「ええ、もっと一緒にたくさんお話をしましょう!家に帰ってからやりたいことや、好きな男の子とか、将来の夢とか、いっぱい、いっぱい話そう!だから・・・」


 決死の思いで、茜を繋ぎ留めているか細い糸を手繰り寄せる。

 茜が眠りの底へと沈んでいかないように。


「そ・・・れ、じゃ・・あ、ね・・・。あか・・ね・・の・・・、ゆ、め・・は、ね・・・、」


 途切れ途切れに浮かぶその言葉が、茜と千春とを結ぶ糸となっていた。

 今にも千切れそうな細く脆い糸だった。

 茜は、その糸を一言一言、紡いでいく。


「おね・・・え、・・・ちゃ・・ん・・が、・・・し、あ・・わ・・・せ・・に・・・、な・・る、こ・・・と・・、な・・ん・・・だ・・・。」


 瞬間、糸が切れた。

 茜の手が、千春の手の中を滑り落ちた。


 千春が取りこぼすまいと手繰り寄せた糸が、茜がその願いを言い終えると同時に、無情にも千切れてしまった。


「茜、ねえ茜!わかったから、あなたの夢は今度こそ絶対に、絶対に叶えるから!だから、ねえ・・・、」


 必死にその身体を揺さぶり起こそうとする。

 しかし、その手にはハッキリと沈んでいく感触が感じられた。

 ほんの少し前に千春自身があの路地裏で身を以って体感した、死の底へ埋もれていく感触が、目の前の茜の身体からも伝わってきた。


「お願い、私を独りにしないでよ!もっともっと、お姉ちゃんらしくなるから。

 だから、ねえお願い、戻ってきて!

 目を・・・開けて・・・。目を、開けてよおおおおおおおおおおおおッ!」


 千春の叫びが、雨の夜に響き渡った。

 

 だがその叫びも、すぐに大通りの喧騒に中に飲み込まれてしまった。


    ※


 そして誰も、千春の絶望に気を止める者はいない。

 それは、自らの平穏な日常の中に、決してあってはならない異物。

 だから視界に入れない。

 そうすれば、ソレは存在できない。

 そうすれば、ソレは己の平穏に入ってくることは無い。

 そうすれば、己の平穏を守れる。


 誰も彼もが、ある意味では必死だった。

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