第8話 序章3の3 転落

 ・・・・ブウウウ――――――ンンン――――――ンン・・・。


 羽虫が飛行するような低く唸る音が、狭い路地の中にこだまする。

 暗闇に目が慣れていくにつれ、千春と茜に視界には、次第に路地の様相がぼんやりと浮かび上がってきた。

 両側の壁や二人の頭上に、大小合わせて何本もの配管や導管が走り、所々の壁から幾つもの排気孔が付き出していた。

 そしてその排気孔からは、生暖かい空気ともに換気扇の駆動音が漏れ出している。 

 頭上を覆う配管のおかげか不完全ながらも雨水を防いでおり、また、路地の中は表通りと比べて幾分か暖かかった。おそらくは排気孔から流れる空気や配管が発する熱気が狭い空間に籠り、路地の中をを暖めていると思われた。


 だが路地裏の様相は、千春が考えていた以上に劣悪なものだった。

 周囲にはゴミや汚物が散乱し、そのどれもが悪臭を発していた。路地へ流れ込む空気が元より油臭かったことに加え、その生暖かい温度により、腐敗の進行が早められていた。

 そして当然、こうした不衛生な環境を好む害虫害獣といった類のモノも、この空間を格好の住処としていた。時折、異様に大きな鼠が前を横切るたびに、二人は声に成らぬ悲鳴を上げ、身を竦ませた。


 どれほどの時間が経ったのか。

 どのくらい歩いているのか。

 二人には、それを確かめる術は無い。

 二人に出来ることは、只ひたすらに前へ、前へと進むことだけだった。


 そして薄暗い魔窟の中で、もはや何個目になるかも分からない曲がり角へと差し掛かる。

 その角を越えた先に伸びる通路に目をやると、道の真ん中に大きな物体が鎮座していた。

 二人がこれまでに遭遇してきた虫獣やゴミの塊とは明らかに様子を異にするものであった。

 その正体を確かめるべく、千春は恐る恐るそれに近付いて行った。

 一歩ずつ前へ進むごとに、ソレを覆う闇のとばりは薄らいでいき、いよいよその曖昧だった輪郭が確か、明瞭な形を持つに至る所まで進んだ時、思わず千春は息を飲み、足を止めた。

 どうやらそれは人間のようだった。


 薄汚れ、ところどころがほつれている襤褸ボロ布を纏った人間だった。

 この人間の背丈ほどに伸び切った頭髪が、その頭部があると思しき箇所を中心に四方八方に乱れ散らかり、周囲の闇と同化していた。

 その人間はうつ伏せに倒れており、その異様に長い頭髪によって、その顔を覗うことができなかった。

 年齢は勿論もちろん、男なのか女なのかすらも判別が付かない。

 唯一分かるのは、地面の上でうねる髪と襤褸布の隙間から、所々覗かせる細く皮だけになった四肢や、骨の浮き出た身体を見る限り、十分に栄養が摂れていないであろうことだった。

 更に、この横たわる者には片足が存在していなかった。

 股関節の辺りから先の失われた足には包帯が巻かれており、それが赤黒く変色していた。

 おそらく生来からの片端者かたわものではなく、後年にその脚を失ったとなったのだろうと、千春は推測した。

 この路地裏に入って以降、これまで不思議と二人は人間と出会でくわすことはなかった。

 ここに来て初めての遭遇だった。


「そのひと、しんでるの・・・?」


「いや、多分気を失ってるだけだと思う・・・。」


 確信は持てなかったが、千春が見た限りではそう思えた。


 そこに横たわる者を不気味に思うと同時に、少し同情する気持ちもあった。

 この者も私達と同じように並々ならぬ事情があってここに流れ着いたのだろう。そして、誰の助けも得られぬまま、こうして地べたに横たわり朽ちていくのかもしれない、と・・・。

 千春はそう思いつつも、今の自分達に彼を助ける余裕も力も無いことは、彼女自身が一番理解していた。


 「とにかく、先を急ぎましょう。」


 気が変わる前に、この場を早く立ち去るべく、千春は茜にそう促し、再び歩みを進めた。

 二人は壁際に近寄り、横たわる者の脇を擦り抜けようとした。

 だが元々の道幅が狭く、その上で更にこの人間が横たわっている為に、足の踏み場がほとんど無くなっていた。

 壁に背を付け、彼を踏まないように慎重に一歩ずつ動かしていった。

 途中、何度か当たりそうになった場面もあったが、四苦八苦しながら何とか彼を踏むことなく、二人は横を擦り抜けることができた。


 そして二人は壁から背を離して、改めて進もうとした。

 その時だった。


「きゃあ!」


 茜が悲鳴を上げた。

 千春は即座に後ろへ振り返ると、地面に倒れ込み、必死で足を動かしている茜の姿があった。

 足の先に目を向けると、不自然なほどに細く、骨の浮き出た手が茜の足に絡み付いていた。

 そしてその魔手の先には、地面を這うあの片端者の影があった。


「いやあ、たすけてたすけて、お姉ちゃん!やめて、はなして、はなしてなはしてえ!」


 茜は恐怖で取り乱し、その手を何とか振り解こうと死に物狂いでもがいていた。

 千春も茜の足元に屈み込んで、その拘束を解くべく手を伸ばす。

 しかし、枯れ枝のような見た目に反して、その握力は尋常でない程に強力だった。

 その指はガッチリと茜の足首に食い込んでおり、千春がいくら力を込めて引き剥がそうとしてもビクともしなかった。


「いたいいたい、いたいいぃぃぃ!!」

 

 血が滲むほどの力で掴まれた茜は、悲痛な叫びを上げた。

 何度も何度もその万力のような手を足蹴にするが、それでもいましめが緩むことはない。


「う・・うあぁ、がががあ・・あぅ・・・、」


 幽鬼の如く、言葉にならない呻き声を漏らすソレは緩やかに首を擡げ、その顔を二人に向けた。

 おどろおどろしく振り乱れた髪の合い間から見えるその目は、異様なほどに爛々とぎらつき、この暗い空間も相俟ってより一層、存在感を放っていた。

 千春と茜はより激しく抵抗した。

 あのぎらつく目に睨まれた瞬間、直観的にこの人間が正常でないことを理解する。

 またその異常性と危険性を悟った。

 千春は脇に落ちていた棒切れを掴み取り、目の前の細い腕を力の限りに打ち据えた。


「うぅ・・・、」


 ソレは低い唸り声を出し、その締め上げる指も一瞬緩んだが、すぐに握りなおされた。

 それでも初めて得た手応えに千春は、その一縷の希望に縋るかのように、ソレの腕を殴打した。


「ぐ、が、があぁぁ!」


 千春のしつこい妨害に苛立ちを感じたのか、吠えながら、もう片方の腕を乱雑に振り回した。

 咄嗟に千春は距離を取ろうとするが、握りしめていた棒をソレに掴まれ、引き寄せられたことで体勢を崩されてしまった。

 千春に生じたその隙を、ソレの魔手は逃さず、千春の手首へと絡み付いた。


「くうぅッ、」


 手首に走った鋭い痛みに、千春は顔をしかめた。

 その縛めを解くべく棒で殴り付けるが、痛みに乱されて上手く力が入らなかった。


「うぅ、く、か、かか、かかか・・・、」


 カタカタと骨を鳴らしているかのような乾いた音が、その幽鬼の喉から漏れていた。

 その音には明らかに喜悦が籠っていた。


「このッ!」


 千春はその不快な音を黙らせるべく、暗闇の中で煌々とぎらつく目に狙いを定め、棒を思いっ切り突き出した。


「ぎいいイィィィィッ!!」


 ソレは激痛に絶叫を上げ、のたうち回った。ギリギリと千春と茜を締め上げ、二人の手足に食い込んでいたその指も力を失い、剥がれた。

 千春は直ぐに茜の元に駆け寄り、


「早くッ!今のうちに逃げましょう。」


 急いで茜を支え起こそうとした。

 しかし、千春が立ち上がろうとしたその時に、足首を再び鋭い痛みが駆け抜けた。

 そしてそれを確かめる間も無く、その直後に物凄い力で足を引かれ、地面に引き倒された。


「ぃ、つぅ・・・、」


「おねえちゃん!」


 茜の叫んだ。

 千春がいまだに痛む足の方へ目を向けると、そこには片目の狂人がいた。片方の目は潰れ、眼窩からは血が漏れ出し路地へと滴り落ちていた。

 もう片方の目は、赤くギラギラと闇の中で強烈に燃え盛っていた。

 その目からは、これ以上なく明瞭に怒気が放出されていた。

 今にも千春を嬲り殺し、八つ裂きにせんばかりの憎悪と憤怒と殺意の坩堝と化した目がそこには在った。

 強大で純粋な殺意をむけられ、千春は芯から震えるほどの恐怖に襲われたが、何とか棒切れを握り直し、片目の幽鬼へと構えた。 

 片目の者も、縊り殺し引き裂こうとより一段とその殺意を滾らせ、滲み漏らす。

 千春の足首を締め上げる五指の一本一本に更に力を込めた。


「ぐうぅぅ・・・、」


 千春の足に、骨が軋む様な痛覚が走った。

 そして彼女の細く華奢きゃしゃな足を千切るべく、もう片方の腕を伸ばし掴もうとした。


 その時だった。


「ギャーギャーうるせえんだよ。このイカレが。てめえはもうすっこんでろよ。」


 ゴッ、という鈍い音が路地に響いた。

 片端の幽鬼の頭が地面にめり込んでいた。

 その割れた頭蓋からは滲み零れた血が、路地へと広がって行く。

 それと同時に、あれだけ千春の足を締め付けていた指からは、急速に力が失われていった。

 既にそのぎらつく眼は、見えなくなっていた。

 背後から現れた何者かが、片端者の頭を踏み砕いたようだった。

 目の前の脅威が無力化したことに、千春はにわかに安堵を取り戻していった。だが、


「探した探した探したよん、お嬢ちゃん達。逃げたりしちゃあ、ダメだろ。おじさんも旦那もすっごく心配したよ。」


 この場にそぐわない、ひどく軽い調子の声だった。

 心配したと言いながらも、彼がそんなことを微塵も思っていないのは、誰が聞いても明らかだった。

 瞬間、千春と茜は、胸を鷲掴みにされたような絶望に襲われた。


 忘れもしない。

 いや、可能ならば今この瞬間にでも払拭してしまいたい。


 それは、あの妓楼屋ぎろうやで。

 あの地獄のような空間で何度も聞きた声。

 身の毛もよだつ程におぞまましく、そして吐き気を催す程に下卑た声だった。

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