一話 黒ムシと春告げの梅 ④


「木を、守ってもらいたいの」

「…………」

 保はそのとき、これ以上ないほど怪訝な顔をしていたろうなと、のちに思った。

 彼女はそれを予想していたのだろう。軽く肩をすくめて苦笑しながら、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。

 つられて保も、カフェオレを飲んだ。いつの間にか残り少なくなっていたグラスはとけかかった氷が底にたまり、ストローがずずっと音を立てた。薄まったカフェオレは水っぽくて少しぬるく、ぼんやりとした味が口の中に広がった。

 何か相槌めいたものを打ったほうがいいかなと保が考えたとき、思案顔をしていた彼女が先に口を開く。

「……ちょっと…ううん、たぶん、ものすごく変な話を、するわ」

 そう前置きをして、香澄は言葉を選びながら話しはじめた。

 彼女の父方の祖母が半年前に病気で入院をして、近々退院することになった。三年前に祖父が亡くなってからずっと一人暮らしをしていたのだが、高齢の病み上がりでは色々と不安もあるということで、親族会議の結果、退院を機に香澄の実家で一緒に暮らすことに決まったのだという。

 香澄の父には、兄がふたりと姉がひとりおり、本来は長男か長女が母親を引き取って面倒を見るべきだろうと誰もが考えた。

 しかし、祖母自身が香澄の家を希望した。

 理由は、祖父と暮らした家に近いところに香澄の家族が住んでいるから。

 ほかの子供たちはみな遠方に住んでいて、住み慣れた町を離れなければならなくなる。香澄の祖母はそれを嫌がったのだ。

「あ、誤解のないように言っておくけど、伯父や伯母が祖母を引き取りたくないと思っていたわけじゃないのよ? みんなうちがうちがって言ってて、私のうちで一緒に暮らすことに決まってからは、それぞれにできる限りのことをするって言ってくれてるし」

「そうですか」

 それは、とても幸せなおばあさんだなと保は思った。子供たちが全員母親と一緒に暮らしたいと言っていて、本人の希望をちゃんと聞き入れて、きょうだいたちは協力態勢をきちんと取ろうとしている。

 祖父や草次郎の知人の話など、ときたま保の耳にも入る。あまり幸せではない話が極稀にあったりする。

 うちはじいちゃんが柱だから、何するんでもじいちゃんの意見が一番強いし、みんなそれに従うんだよな。

 そんなことを考えながら、保は首を傾げた。

「ええと、それが木と何の関係が…?」

 彼女の祖母と、木の話にいったい何の関係があるのか。

 訝る保に彼女は深刻な面持ちで頷いた。

「問題は、祖母がずっと住んでいた家のことなのよ」

 香澄の家の近くにある、祖父母が暮らしていた家。香澄の父や、そのきょうだいたちが生まれて育った家だ。

 そこは香澄の祖父が生まれた家だった。二階建ての古い日本家屋で、そこそこ広い庭があり、物置には昔のアルバムや思い出の品がしまわれている。

 二階に上がる階段は急で手すりもなく、昔の造りなので風通しがいい代わりに冬はとても寒い。

「祖母が病気になったのはそのせいなの。風邪をこじらせて、肺炎を起こしちゃって、一時は命も危なくて……」

 本当に危なかったのだろう。香澄の頬から少し血の気が引いたのが見て取れた。

 家は相当古く、だいぶ傷んでいる。いっそこの機会に思い切って改築。もしくは、完全に取り壊して駐車場などにしたらどうか。

「そう、伯父が言い出して。父の一番上のお兄さんで、修伯父さんていうんだけど」

 長男の提案を受けたきょうだいたちは、話し合った結果、家を取り壊して駐車場を作り、その収入を母の生活費などに充てることで合意した。そして、きょうだいたちの意見を聞いた母親は、古い家を無人にしておくのは物騒でもあり、誰かに貸すことも難しいなら、それでいいと応じた。

 思い出の品はきょうだいたちで分け、取り壊しなどにかかる費用も全員で出し合う。解体工事は五月の連休が過ぎてから。

 保は頭の中で今日の日付を思い出す。もう五月も半ばだ。

「解体はどれくらい進んだんですか?」

 連休明けにはじまったのなら、外壁を崩し終わって、柱だけになっている頃か。それとも、瓦を下ろすほうが先なのか。

「それが……ちょっと、色々あって。予定は一応、来週の月曜日から」

 保の何気ない問いに、奥歯に物が挟まったような言い方をして息をつくと、香澄はティーカップを見下ろした。からになったカップの内側は、うっすら残った紅茶で極々薄い茶色になっている。

 なんとなく、保は居心地の悪さを覚えた。何か、香澄の様子がおかしいような。

 木の話は、どこへいったんだ?

 怪訝に思う保の前で、彼女は目を泳がせて、言葉を探しているように見えた。

「……連休の前に、祖母と一緒に、家を見に行ったの」

 大事なものは全部運び出して、荷物のほとんどなくなった家のあちこちを、祖母の和江はゆっくりと見て回り、柱や壁の傷に懐かしそうに、愛おしそうに触れては、ぽつぽつと昔の話をしてくれた。

 そして、庭に下りた和江は、ちょうど真ん中あたりに植えられている梅の木の前で、しばらく黙っていた。

「すごく大きくて、立派な梅の木よ。春には綺麗な白梅が咲くの」

「へぇ」

 やっと木が出てきた。

 相槌を打つ保から、香澄の視線が逸れた。彼女の目が遠くを見る。記憶をたどっているのだ。

 その梅は、祖父母が結婚した頃に植えられたものだと、子供の頃に香澄は聞いた。

 実った青梅の収穫を手伝いに来た香澄に、祖母が話してくれたのだ。

 おじいさんがね、どこからか小さな梅の木を持ってきて、ここに植えながらこう言ったの。

 ──ねぇ、和江さん。僕はね、梅の花が一番好きなんだ

 厳しい冬の終わりを一番に告げてくれる花は、僕は梅だと思っている。花を咲かせて、たくさんの実をつけてくれる。きっとこの先、大変なこともあるだろうけど、冬のあとには必ず春が来るように、そのあとに必ず良いことがやってくるよ。

 だからね、和江さん。僕たちは、この木を見るたびにそれを思い出していこう。これからずっと一緒に、共白髪になるまで、毎年この梅の花を並んで見よう……。

 決して華美ではないが、誠実な夫の言葉に、新妻ははにかみながら嬉しそうに頷いた。

 そして、その言葉通り、夫がこの世を去るまでの間、毎年毎年、梅の花が満開になると縁側に並んで座ってそれを眺めた。

 夫が鬼籍に入ってからは、在りし日の写真を持って、花を見た。けれども。

 ──今年は見られなかったわねぇ…

 呟きながら梅の幹に触れていた祖母の背は、香澄にはなんだかとても小さく見えた。

「……あの梅は、祖母にとって、私たちが思っている以上に大事なものなのよ」

 香澄の言葉に、保は頷いた。きっとそうだろう。そんなに大事にされて、梅も幸せに違いない。

 そして、木をそんなに大事にする人なんだから、そのおばあさんは絶対にとても良い人だ。たぶん。庭師の血がそう告げている。気がする。

「……ん?」

 ふと、保は目をしばたたかせた。

 待て。香澄はさっき、木を守ってほしいと言っていなかったか。

「あれ? 家を取り壊して駐車場にするなら、梅は……」

「伐られることになっちゃったの」

「ええっ」

 そんな思い出の木を、どうしてまた。

 信じられない思いの保に、香澄は理由を説明した。

 庭のすみに植えられているのだったら残しておける。だが、あの木はちょうど庭の真ん中にあって、このままでは取り壊し工事にも支障が出るだろう。それに、大きくなりすぎているので、香澄の家にも親戚の家にも、植え替えられるだけの場所がない。伐るしかない。

 渋る和江を説得したのは長男の修と長女の多恵子だった。そして、工事がはじまる前に梅を伐り、根を掘り起こして庭をあけることになった。

 専門の職人に依頼をしたのは次男の祐次。香澄の父である健三郎は、お前はお母さんが過ごしやすいように気を配れときょうだいたちに命じられ、解体工事にまつわる作業にはタッチしていない。

 だから和江は香澄とともに、梅の木に最後の別れを告げに行ったのだ。入院していたために今年の花は見られなかったけれど、せめてもう一度梅に触れて、直接別れを言うために。

「それで、俺に、いや、僕に」

 とっさに言い直したが、かえってわざとらしくて格好が悪いなと気づいて、保は軽く落ち込んだ。

「その梅を、うちでどうにかできるかってことですよね? とりあえずうちの人たちに訊いてみますけど、確かなことはなんとも……」

「そうじゃないの」

 保をさえぎった香澄は、テーブルの上で両手をぎゅっと握り合わせた。

「そうじゃないの……。ごめんなさい、なんて言っていいかわからないんだけど、もうあの木は絶対に伐られちゃうことになってて」

 香澄の目があちこちを泳ぐ。

 彼女の様子を見た保は、ふっと空気が変わったのを感じた。

 あれ、これはなんかちょっと、まずい話の気がするぞ。

 意味もなく視線を走らせて気づく。

 さっきまでいたはずのほかの客がいつの間にかいない。自分と香澄だけしかいない。

「先輩、あの…」

 止めようとしたが、もう遅い。

「本当は、連休中に伐られるはずだったの。でも、伐ろうとするたびに、職人さんが怪我をしたり、伯父さんや伯母さんの家で悪いことが起こったりしてて」

 合わせた両手に額を押しつけるようにして、青ざめた香澄は振り絞るように言った。

「昨夜夢を見て…。お祖父ちゃんが出てきて、梅の前で怖い顔で、言うのよ」

 背筋がぞくっとした保の耳に、香澄のうめくような声が突き刺さる。

「あの木を守らないと……」

 空気がひやりとしている。さっきまでこんなに重くなかった。

「お祖母ちゃんを、連れに行くって…!」

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