4 欲望

 車止めにタイヤが当たった感触が伝わってきたので、田辺克之たなべかつゆきは、右足をアクセルペダルからブレーキへ移した。シフトレバーをパーキングに入れて、ハンドブレーキを引く。


 運転席のドアを開けて躰を車外に出した瞬間、腰のあたりに鈍い痛みが走った。ここのところ、椅子にずっと座りっぱなしで仕事をする毎日が続いている。まだかばって歩くほどの痛みでないが、デザイン会社で長く働いている経験上、ここで無理をするとしばらく鈍痛が続いて、仕事に影響が出ることはわかっていた。もう五十三歳と、デザイナーとしても若くはない。かつてのように、何冊もの書籍の誌面デザインを担当している訳ではないのだから、もう少し躰をいたわらなければならないのだ。


 今夜も、あの子に湿布を貼らせなくては。そう考えた田辺だったが、すぐにあることを思い出して舌打ちをした。今日は妻の理栄子と娘の優美は外出していて、深夜まで帰ってこないのだ。明日は朝早いので、おそらく就寝まで自分一人だろう。


 田辺は自宅の駐車場から出ると、門扉の方へと移動した。玄関扉の手前には申し訳程度の庭があったが、手入れが行き届かず、雑草が生い茂っている。彼は玄関まで歩く途中で一度立ち止まり、高さ二メートルほどの金柑の木を見上げた。もう夜の八時を少し過ぎた頃なのであたりは真っ暗だったが、街灯のわずかな光でも、小ぶりな枝に小さな白い花びらが付いているのがわかる。家を買ったときに、田辺の前妻が庭木として植えたものだ。前妻との思い出のなかで、唯一田辺が気に入っているのが、この金柑の木だった。


 玄関扉の鍵を開けて家のなかに入ると、田辺は居間に寄って電灯を付けた。家の主人が帰ってきたというのに、誰も迎えに出てこない上に、電気も付いていない。妻と娘が今晩外出することを許可したのは確かに自分だったが、実際誰もいない家に帰宅してみると腹立たしいことこの上なかった。


 だいたい、あの男が気に入らない。理栄子が前の夫との間に生んだ子供。もう二十三歳になるということで、もちろん自立しているから一緒に住むことなどないが、一ヶ月に一度は、自分の母と妹に会うようにしているらしい。実害がないのでほっといているが、優美の躰を調べられると面倒なことになるなと、田辺は考えていた。


 今年で八歳になる優美も、実は理栄子の連れ子である。田辺が理栄子と結婚したのが三年前で、優美は当時五歳になったばかりだったが、もうその頃から母親に似て、美しい顔立ちをしていた。田辺はもともと成人した女性にほとんど性欲を感じなかったので、この優美の整った顔立ちこそ、理栄子との結婚を決めた理由であった。


 田辺は、自分のことを典型的な幼児性愛者だと自覚していた。三十代ぐらいまでは高校生でも十分範囲内だったが、年を経るごとに好みの女の年齢は下がるものらしく、最近では十歳前後から中学生ぐらいまでの女の子でないと性欲が湧かない。前の女房と別れたきっかけも、妻に対してまったく女を感じなかったということもあったが、直接の原因は隠し持っていた幼児ポルノのビデオや写真を彼女に見られたからである。一方的に別れを切り出して彼女は出て行ってしまったが、まったく興味が持てない女と一緒に暮らすのにいい加減苦痛を感じていた田辺は、むしろせいせいした気持ちだった。性に対して、他人と違う嗜好を持つ者にとっては、妻など邪魔な存在でしかない。


 台所に行くと、ダイニングテーブルの上に、彼のために作られた食事が置いてあるのを見つけた。魚の煮付けとほうれん草のおひたし。おそらく米も炊いてあって、保温になっているのだろう。食事の横には、「今日は遅くなります」と書かれた、理栄子からのメモがあった。


 田辺はメモを読んでからそれを鼻で笑うと、食事には手を付けず、食器棚の下からシングルモルトのウイスキーの瓶を取り出した。同時に、彼がいつも使っているクリスタルのグラスを一つ出す。氷は、冷凍庫からウイスキーを飲むためにストックしてあるロックアイスを出した。


 グラスにぎりぎり入るサイズの氷を選んで入れ、そこにウイスキーをなみなみと注ぐ。今夜は食事は摂らず、これだけを流し込んで寝ようと、会社から自宅までの車中で決めていたのだ。


 優美がいない今日に限って、己のなかの欲望が暴れ回っている。会社で仕事をしているときからすでにその欲望が高まる予感はあったが、会社を出るときには、欲望の象徴である自分自身が痛いほど屹立しているのがわかった。こうなってしまうと、なかなか自分を抑えるのは難しい。いつもなら、優美が寝てしまったあとに彼女のベッドに行き、こっそりと服を脱がしてから、まず全身を愛撫する。もちろん起こさないように優しく、ソフトにだ。それから徐々に高めていき、いずれは彼女が完全に自分のものとなる日を思い描いてから、優美の躰に向かって放出する。


 一度だけ、田辺の自慰の最中に優美が起きてしまったことがある。そのときは、目をつぶっていろと一言恫喝するだけで事なきを得た。彼女は田辺の声を訊くとすぐに黙って目をつぶり、田辺が部屋を去るまで微動だにしなかった。


 日頃から、田辺は優美が何かをしでかすと、激しく叱責してから縫い針で彼女の腕や尻を刺した。そうすることで、優美は田辺に絶対に反抗することの無い、完全なる性のペットに仕上がるはずだからだ。針を刺したとき、優美は子供特有の甲高い叫び声を上げたが、それもまた田辺の性的興奮を刺激する音なのである。ときには、その叫び声が訊きたくて、ついついやり過ぎてしまうことがあるぐらいだ。自分はなんて罪深いんだろうと思うときもあるが、優美を見ていると高まる性欲にどうしても負けてしまう。結局、罪深いまま自分はこのまま生きていくんだと思い、また同じことを繰り返すのだ。


 理栄子は、この田辺の行為には、いまのところ何も云わない。彼女は前の夫に相当な暴力を受けていたらしく、また同じようなことになるのを極力避けているのだろうと、田辺は考えていた。優美に縫い針を使うことに対しても、最初にこれはしつけだからと厳しく宣言したら、彼女は納得した素振りさえ見せたのだ。田辺が見ていないところで優美に何と云っているのかはわからないが、いまの生活を崩さないで、何とか穏やかに生きていきたいと思っている理栄子にとっては、田辺の機嫌を損ねないことは最大の関心事なのだと思う。


 田辺は、ダイニングテーブルの椅子に座って、クリスタルグラスに口をつけた。シングルモルトの芳香が立ち昇ってきて、彼の鼻腔を刺激する。一気にグラス半分ほどを喉に流し込んでから、残りを少しずつ舌で味わう。田辺にとってはいつもの飲み方だ。


 とにかく優美も八歳になった。最近の優美の仕草や言動は、少女ではなく女を感じさせるものになってきている。そろそろ準備し始めるときかもしれないと、ウイスキーの甘美な液体を舌で転がしながら田辺は考えた。彼の計画では、優美が初潮を迎えたらいまの関係からもう一歩先に進むことになっている。普通、女性が初潮を迎える時期は早くて八歳、遅くても十二歳ごろだから、優美はもうその時期にさしかかっているのだ。もしかしたら今年中には、当初の予定通り、彼女との新たな関係を開始できるかもしれない。


 田辺は、優美が中学を卒業する頃に還暦を迎えるが、それまでの数年間は、己の歪んだ性欲を思う存分発散させると心に決めていた。これまでの人生で自分が抑え込んできたものを一気に放出させることができれば、もう自分の人生にも悔いはないとさえ考えていた。


 グラスのなかに残っていた琥珀色の液体を、田辺は一気に喉に流し込んだ。すると、どこかで空気が動いたような気配を感じて、田辺の動きが一瞬止まる。同時に床が鳴ったような音も聞こえた気がした。


 田辺はグラスを持ったまま立ち上がり、後ろを振り向いた。部屋には自分が一人いるだけ。しばし聞き耳を立ててみたが、他の部屋に人がいる気配などしない。疲れているなと、人ごとのように呟いてから椅子にもう一度座る。また腰に鈍い痛みが走り、田辺は顔をしかめた。痛みが去るのを待ってから、シングルモルトの瓶を取って二杯目をグラスに注ぐ。


 あと少し、もうちょっと我慢すれば、優美の躰を自分のものにできる毎日がやってくる。好きなときに裸にして、むさぼるように抱き、泣き叫ぶ声を味わいながら、思う存分放出することができるのだ。そうすれば、長い間抑え込んできた欲望の殻からも解放されて、いまよりも遙かに充実した毎日が送れるはずである。


 どうやら、ウイスキーのアルコール分が脳に届いたらしく、田辺はわずかに酔いを感じた。その瞬間、また背後から床の鳴る音が聞こえた。今度は近い。


 田辺が素早く振り向こうとした瞬間、首の後ろに冷たい感触を感じた。いきなり、頭のなかで火花が散ったような映像が見え、躰中の筋肉に力が入った。どこかで鳴った甲高い音は、グラスを取り落とした音か。田辺は、脳裏に優美の真っ白い肌だけを思い描いた。やがてそれも、かき消されるように闇のなかに消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る