2 邂逅

「おまえ、やっぱりお役所にはもう戻らない気か」


 上條は、真向かいのソファに座っている高遠守に云った。守は力強く頷き、上條の目をまっすぐと見た。昔からこういう目に弱いなと思う。上條はため息をついてから、キッチンに向かって声をかけた。


「おい、ビール持ってきてくれ。発泡酒じゃねえぞ。ちゃんとしたビールだ」

「まだ呑むの? 昨晩もお友達とずいぶんと呑んだんでしょ?」キッチンから珠子が答える。

「いいから持ってこい」


 珠子が缶ビールを三本とグラスを一つ持ってきた。上條は缶ビールを受け取ると、珠子が置いたグラスになみなみと注いだ。


「正直、お役所から脱走したやつがここにいるってのは、迷惑なんだぜ。おまえ、自分が人様に迷惑かけてるってことに気がついてるのか」


 珠子が鋭い目つきで上條を見ている。上條は、左手だけを少しだけ上げて珠子を制した。黙ってろのサインである。


「ごめんなさい」

「謝るのはいい。問題はおまえがこの先どうするかだ。出て行くにしたって行くところはないし、行き先もわからない。もちろん警察やお役所には帰りたくない。お前は一体どうしたいんだ?」

「鞄を見つければ、行くところがわかります。もっと探してみないと」

「あのな、守。おまえ、もうずいぶん探したんだろ? 一人で探し回って見つからなかったからここにいるんじゃないか」

「だから、仕方なくここに」

「しばらくいさせてくれってか。都合がいいやつだな。子供だからって、甘えてばかりいられないんだぜ」

「でも、行くところがないから」

「そうだな。しかしそれがわかってて児童相談所から逃げ出したんだろ。それとも何か。根拠も無いのに、必ず鞄が見つかるって信じてたのか。困っているところを見せれば、周りの大人がすぐに助けてくれるとでも思ったか」


 守は、下を向いたまま黙っていた。拳を握りしめてはいたが、涙は流していない。


「悔しいか、守。お前はまだ子供だ。結局、一人ではまだ何もできないのさ」

「でも」守が顔を上げて上條を見た。

「でも?」

「それでも、やっぱり母さんのところに行きたいんだ」

「だから、そういうときはどうするんだよ。お前、男だろ」


 守は目に涙を溜めていたようだが、それが落ちないように必死に堪えているようだった。やがて彼は、ソファから立ち上がって床の上に座った。手を床について、上條に頭を下げる。


「お願いします。鞄を探すのを、手伝ってください」守は、絞り出すような声で云った。


 珠子が、上條の肩に手を置いて力を入れてきた。


「もういい。頭を上げて、ソファに座れ」上條はそう云うと、先ほど注いだビールを一気にあおった。

「俺は、おまえの家族じゃないし、無論友達でもない。わかるな」


 上條の言葉に、守は小さく頷く。


「だが、力にはなってやる。本当に困っているのを示した奴には、助けを受ける資格がある。珠子、守にも飲み物持ってきてやれ」

「あ、ありがとう、ございます」

「良かったね、守ちゃん」


 珠子は、守に言葉をかけたあとキッチンに向かった。その際、上條にだけ若干険悪な表情を見せているのが目に入る。やれやれ、と思う。こういうことを女にうまく説明するのは本当に難しい。


 高遠守がマンションにやってきたと、珠子から連絡が入ったのが二日ほど前だった。どうやらその数日前からマンションにいたらしく、珠子は上條に相談するのをためらっていたようである。


 守は、児童相談所から抜け出して、自分一人で母親の元に行こうとしていた。しかし、事件の日に母親の居場所を書いたメモを鞄ごと紛失してしまったため、まずは鞄を探そうと思ったらしい。児童相談所を抜け出して、一晩歩き回って探したようだが発見できず、仕方なく珠子を頼ってマンションまでやって来たようだ。


 上條は、珠子から話を訊いた翌日に徳島と会っている。そこで徳島に鞄のことを訊いてみたが、いまだ発見されていないとのことだった。紛失した日からだいぶ日数が経っているにも関わらず、依然警察にも届けられていないとなると、見つけるのはかなり困難と云っていいだろう。


 守はまだ疲れやすいらしく、うとうとし始めたので、珠子が守のために片付けたという和室に連れて行った。実際、例の事件の日からしっかり躰を休めてはいないはずだ。まずは少し体力を戻させる方がいいだろうと上條は思った。

 珠子が帰ってきた。


「さっきのあれ。冷たすぎない?」

「あのなあ」

「わかるけど。でも男ってさ、面倒くさいよね」


 上條は、空になっていたグラスにビールを注いだ。


「おまえもグラス持ってこい。一緒に呑もう」

「守ちゃん、小学校の五年生だよ。まだ子供なのに土下座までさせて」

「正直、あそこまでするとは思わなかったが。でもな、あいつはこれから一人で生きていかなきゃならん。心も躰も傷だらけで、きっと大人も信用してはいないだろう」

「それはそうだけど」

「男が一人でやってくなら、必要な強さってものがあるんだよ。これからは、生きるために甘えたことは云ってられないだろ。特にあいつには親がいないから」

「でも、お母さんがいるって」

「ああ、そうだな」


 上條は、その先を珠子には云わなかった。いずれ確認しなければならないことだが、上條は守の母親にはあまり期待できないと考えている。虐待するような男に、我が子を預けて姿を消した女なのだ。

 珠子が自分のグラスを持ってきたので、上條はビールを注いでやった。


「おまえ、何を考えてる」

「うん、何で不幸な子供がいるんだろうって。やっぱり考えちゃって」

「守を見たからか?」

「そうかも。だって、あんなに傷ついてる子供は見たことがないんだもん。子供にあんなにひどいことをする親がいるなんて、話には訊いてても、実際に見るまでは信じられなかった」

「確かに、ひどい傷だからな」

「ほら、あたしんちって、早くに父が亡くなったでしょ。だから母さんが必死になって働いて、あたしを育ててくれた。大変だったと思うんだけど、あたしにはいつも笑顔ばっかり見せてさ。いろいろ心配させたし迷惑もかけたから、いまでも頭あがんない。そんな母さんと一度だけ大喧嘩して、もう出て行く、二度と会わないって、云っちゃったことあるんだ」


 珠子はビールの入ったグラスに口を付けて、一口だけ呑んだ。


「そうしたら、母さんがその場でわんわん泣いて、大変だった。出て行ったら、もう珠子と会えないって、大粒の涙を流して泣いたんだ。あたし、その母さんの涙を見てたら、自分も泣けてきちゃって、結局二人して泣いてたよ。会えない会えないって云って。目の前にお互いがいるし、出て行く予定もないのにね」


 彼女はグラスをテーブルに置いて、ソファに深く座った。泣いているように一瞬思えたが、涙は流していないようだ。


「親の愛って無償なんだなって、あのとき思った。自分も子供ができたら、あのとき気づいた愛情を今度は自分の子供に渡してやりたいなって思ったよ。だからね、守ちゃんを見てると悲しくて仕方がないの。愛情をもらえなかった子供を見るのは、本当に辛いわ」


 上條は、新しいビールを開けると、グラスに注がずにそのまま呑んだ。いまはもう、会うことができない父と母、そして弟の顔を思い出す。もう何年も思い出していなかったのに、と上條は思った。彼らは、自分を愛していたのか。愛していたなら、何故一緒に逝かせてくれなかったのか。


 開けたばかりの缶ビールを一気に呑みきった上條は、珠子の肩を引き寄せてから、しっかりと抱きしめた。今晩は無性に珠子が欲しくなっている。心のなかにぽっかりと空いてしまった空間を埋めるには、珠子の暖かさがどうしても必要だった。

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