3 親の資格

 エレベーターが止まったことを知らせるわずかな振動が、徳島の足に伝わってきた。電子音が鳴り、自動ドアが左右に開くと、明らかに地上とは違う高所特有の生暖かい風が、エレベーター内に入ってくる。


 我が家があるのは八階だったが、どうもこの高さがまだ慣れてこない。できれば二階ぐらいの部屋にしたかったのだが、高いところに住むのが夢だったと、部屋選びのときに洋子に一蹴されたのだ。


 小さなエレベーターホールからマンションの外通路を歩き、自分の家の前に立つ。腕時計を見るとすでに十一時を少し回っていた。ポケットから取り出した鍵で鉄製の扉を開け、灯りの点いていない室内に、疲れた躰を滑り込ませる。徳島はまず居間の蛍光灯のスイッチを入れてから、留守番電話の着信を確認した。電話のランプは点滅ではなくうっすらと点灯しているのみ。何のメッセージも記録されていないということだ。


 妻の洋子が、置き手紙一つ残して三鷹の実家に帰ってしまってから、ちょうど一週間が過ぎた。さすがに灯りの点いていない暗い我が家に帰って来るのも少しは慣れたが、侘びしさのような感覚はいまだに拭いきれていない。このまま、いつまで連絡がないのか。やはり宮部が云うように、こちらから電話でもして、適当に謝ってしまう方がいいのだろうか。


 いや、それはできないと、この一週間何度も反芻した答えを今日も呟いてみる。もし適当に謝ったとしても、それはやはり自分の本心ではないし、洋子は絶対に納得しないはずだ、と思う。それこそ修復しがたい傷になってしまうかもしれない。


 徳島は、冷蔵庫から缶ビールを一缶取り出して、居間のソファに身を沈めた。着替えなどはせずに、とりあえずネクタイだけをはずして背もたれに引っかける。テレビをつけ、チャンネルはいつものニュース番組にした。


 テレビの画面に、新宿のアルタ前らしき映像が映し出された。昨日、都内で起きた爆弾騒ぎの続報のようである。新宿のアルタビルにほど近い場所にある郵便ポストの下に、家庭用ゲーム機の箱が置かれていた。これを見つけた若者が、なかから時計のような音が聞こえたため警察に通報し、警視庁の爆発物処理班が駆けつけて処理にあたったという事件である。テレビのなかで若いキャスターが、爆弾らしきものは無事に撤去され、現在は警察で分析が行われていると伝えていた。


 徳島は、リモコンをテレビに向けて、音を少し下げた。


 二週間ほど前、仕事から帰ってきた直後に、洋子から妊娠したらしいと告げられた。結婚してから二年目なので、普通に考えれば子供ができたっておかしくはない。徳島自身、洋子との間に子供が生まれれば、自分の大事な家族、守るべき家庭ができて、それまでの人生とはまったく違う生き方ができるかもしれないと期待さえしていたし、妻と子供を可愛がりながら年を重ねていく毎日をイメージすることさえできた。しかし、子供ができたという言葉を洋子から訊いたその瞬間、徳島のなかでどうしようもなく消しがたいある疑問が沸き起こり、冷静でいられなくなるほど彼の心を乱し始めたのだ。


 まだ幼い頃、徳島は父親を亡くしている。後に母親から訊いた話ではどうやら交通事故だったらしいが、物心つく前の出来事だったので、彼自身にはまったく記憶がない。その後、母親は幼かった徳島を連れて仕事を転々とし、安アパートで彼を育てた。母がどんな仕事をしていたかはもうあまり覚えてはいないが、わずかな記憶によれば、スナックのような酒を出す飲食店で働いていたように思う。いつも昼過ぎまで寝ていて、深夜に酒臭い息で帰ってくる。幼い頃から、母親とはそういうものだと思っていた。


 しかし、徳島が小学校に入った頃、突然母が壊れ始めた。


 ある日の下校途中、彼は友達に誘われて公園で遊んでいた。ちょうど逆上がりを学校で練習していた徳島は、公園の鉄棒でさらに練習を積もうと、躍起になって鉄棒と格闘した。あと少し上達すれば、尻が鉄棒の上まで上がり、腹でぐるっと一回転できるはずだ。徳島は逆上がりを成功させたときの興奮を想像しながら、公園での練習に夢中になった。


 一時間ほど練習してからその日の成果に満足した徳島は、急いで帰宅の途についた。この時間ならまだ母は仕事には行っていないはずだし、今日の成果を報告したら、もしかしたら一緒に喜んでくれるかもしれない。しかし彼が帰宅すると、母は徳島の汚れたシャツに気づいて烈火のごとく怒り始めた。洗ったばかりなのに、何故こんなに汚すのかと、彼女はひどく彼を叱った。徳島は申し訳ない気持ちでいっぱいになって謝り続ける。お母さん、ごめんなさい、ごめんなさい、もうしませんから。いつもの母なら、その言葉で叱るのを止めたはずだが、何故かこの日は違った。彼の必死に謝る言葉が彼女の神経をより刺激したようで、さらに怒りの勢いが増し、やがて平手打ちとなって徳島の頬に突き刺さったのだ。徳島は、その後、何度も何度も母の平手打ちを頬に受けた。幼い頃の記憶なのに、徳島はこの日の母の形相や、自分を叩く手の平の感触まで、いまでもすべて思い出せる。あの日の母の手の平は、幼かった徳島の躰だけでなく、心までも深く傷つけたのだ。


 その日以来、母は自分に手を上げることが多くなっていったように思う。初めは平手で叩いていた母だったが、やがてプラスチックの定規を使うようになり、ときには、深夜に帰ってきたときなど、寝ている彼をいきなり無造作に蹴り飛ばしたりすることもあった。徳島は子供心に、母が酒に酔っているときや、何故か疲れて見えるときは、極力話しかけないように注意した。しかし、子供らしくないともいえるそうした息子の態度が、逆に母の逆鱗に触れてしまうこともしばしばあり、そこから一年間で虐待はどんどんエスカレートしていった。


 徳島は、缶ビールを半分ほど一気に流し込んだ。炭酸の心地よい刺激が、一日の疲れを多少は紛らわせてくれる。彼はほんの少しぼんやりとしてきた頭で、調布駅にほど近いクラブの控え室で、ずっと一人で母を待ち続けていたという保坂真一の話を思い出した。息子からの愛情に見合う分だけの慈しみを、実の親である保坂夫妻が真一に与えていたとは到底思えない。それができていなかったからこそ、虐待の事実を知った何者かに制裁のようなやり方で殺されてしまったということも確かにあり得る。しかし徳島は、それ以上に、保坂武彦と香織の二人が、親として真一を愛していたかどうかを、どうしても知りたかった。


 ひとしきり息子を殴った後、一人で泣いていた母を、徳島はよく思い出す。あれは、感情が制御できなくなってしまったから泣いていたのか、それとも愛する子供に手を上げてしまった故の、後悔の涙だったのだろうか。徳島は、二十年近く経ったいまでも、まだその答えを見つけられないでいた。


 親が、子供を傷つける。しつけの限度をはるかに踏み越えて、命を脅かすほど痛めつける。徳島は、かつての被害者としてその辛さを骨の随まで理解していたが、同時に、そうやって親から虐待されて育ったような自分が、今度は自らが親になったとき、果たして普通に子供を慈しんでやれる存在になれるのか、たまらなく不安に思うのだ。子供の頃に、親の愛を満足に学べなかった自分が、本当に次の世代に愛情を伝達できるのか。洋子が、遂に子供ができたと、にっこり笑って打ち明けてくれた瞬間、自分のなかで急激に沸き上がってきた疑問が、それだった。


 俺は、親になっていい存在なのか。


 こう思ってしまった日の夜、徳島は自分の子供に激しく暴力を振るう夢を見た。まだ小さい我が子の頭を叩き、腹を蹴って、顔を殴る。激しく泣きじゃくる子供のその声で、徳島の神経はより一層暴力的になり、振り上げる手にさらに力がこもる。そして虐待を加え続けているうちに、やがて毎日の捜査で疲れていた心が妙に癒えていくような気持ちになり、徐々に解放感のようなものが己を満たす。おそらく、あの夢のなかの自分は笑みさえ浮かべていたはずだ。しかし、そうして我が子に手を上げ続けていた刹那、口と目から血を流した我が子の顔が目に入る。そこには、かつて母に痛めつけられていた自分自身の顔があったのだ。俺は、我が子を殺し、同時に自分も殺している。


 あとで洋子に訊いた話では、徳島は悲鳴を上げて飛び起きたそうだ。よほど手に力を入れたらしく、拳の内側には爪の跡がつき、寝間着は汗でぐっしょりと濡れていた。


 それから一週間、同じ夢を何度か見た徳島は、洋子に今回の妊娠を考えさせてくれと切り出した。もちろん、できた子供を本気であきらめようというような意味ではなかったし、徳島としても、これからもっと前向きに子供のことが考えられるように、ほんの少しでいいから、自分のなかで冷静に考える時間が欲しかっただけだった。


 しかし洋子はそう受け取ってくれなかった。徳島の言葉を訊いた洋子は、自分の夫が子供を望んでいないかもしれないということに、ショックを隠さなかった。彼女は徳島をなじり、徳島も感情的にそれに応えてしまった。結婚して以来初めて声を荒げて口論をし、妻を泣かせ、自分で取った行動に激しい罪悪感を覚えた。


 そして数日後、しばらく実家に帰りますと、短い文章が綴られた手紙を残して洋子は家からいなくなった。


 すべて自分が招いたことなのだ、と徳島は思う。愛する妻が去り、これから生まれてくる子供が愛せるかどうかを毎日考え、そして自分のなかの家族に対する愛情を、毎晩こうして酒を呑みながら疑う。朝になれば、また機械のように出かける準備をして、意気揚々と捜査現場へと向かうが、結局ここに帰ってくればまた同じことの繰り返しなのだ。


 徳島は、躰に回り始めた微量のアルコールを意識しながら、濁ってきた目で居間から窓の外を見た。ここのところ、四六時中カーテンも閉めていないので、ベランダの向こうに漆黒の夏の夜が見える。


 吸い込まれるような夜の闇の中に、一瞬だけ何かが横切ったように見えた。ゆっくりとした翼のような動きだけ、捉えることができたのだ。


「こんな夜に、鳥か」と、一人呟く。


 誰からも見えることなく、ただ夜の闇のなかを飛翔する鳥。それを一瞬捉えたように思えた徳島は、ソファから立ち上がって窓の方に近づき、鍵を開けてから窓をスライドさせて全開にした。新鮮な空気が一気に室内に入り、数日以上室内に沈殿していた淀んだ空気を勢いよく追い出す。風は生暖かかったが、徳島には心地よく感じられた。


 鳥はもう行ってしまったか、と徳島は思う。闇のなかを飛ぶ鳥が、目的地まで惑わず、まっすぐ行けるといいな、と彼は思った。

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