第18話


 水木が小野川の宅にやって来たのは、九時五分前であった。家の外に車の停まる音が聞こえて暫くすると、チャイムが鳴り、階下で小野川の母親が水木と会話する声が聞こえてきた。それから間もなく、小野川の部屋の扉がノックされる。

「どうぞー」

 小野川が緊張感のない間延びした声で答えると、扉が静かに開けられた。

「やー。お久しぶり、諸橋くん」

 ほっそりとした色白の男が部屋に入ってきた。その男の姿や物腰は、明の記憶の中の水木のものとなんら変わりがなかった。彼は眼鏡の奥からにこやかな目で明を見つめている。

「どうもお久しぶりです」

 一方の明は、やはり奇妙な感覚でこの街の水木との邂逅を果たした。

「随分大変なことになってるね」

 明を見ながら水木が言う。明ははにかみながら、ただ「ええ」とだけ答えた。

 いまさらながらに明は気付いたが、目の前の水木もまた、〝この街〟の一部なのである。明のクラスメイトが彼を襲ったように、水木もまた、明を襲わないとも限らなかったのだ。安全な保障などどこにも無かったのである。今のところ、この水木が明に対して敵意を見せる様子は無いが、あっさりと水木と会うことを認めたのは、あまりにも軽率な行動であったのではないかと彼は思った。明と水木の関係は、小野川との間柄ほど気心が知れているわけではないのだ。

 明は、とりあえず目の前の水木の様子が穏やかなことに安堵していた。

「諸橋くん、今はなるべく動かない方がいいよ。そのうちみんなの関心もよそに移るだろ」

 水木は相変わらず落ち着いた様子である。明はただあいまいに頷いた。

「それなんですけどね……」

 小野川が横から口を出した。

「ちょっと水木さんにも聞いてもらいたいことがあるんですよ」

「ん、何が?」

「俺もさっき明から聞いたばかりで頭が混乱しているんですが、とにかくはっきりしていることから言いますね」

「あらたまって、なんですか?」

 水木は笑いながらもたたずまいを正した。小野川と明は順番にお互いの知っていることを語り始めた。

 全てを聞いた後、水木もやはり先ほどの小野川と同じように、深刻な顔をしていた。

「確かに、諸橋くん以外にこの街で誰かが標的になったという覚えがないな……」

 水木は腕組みをして考えこみ始めた。

「そうでしょう? やっぱり」

 小野川も自分と同じ感覚を持つ人間を得たことで、どこか安堵したような表情を見せた。彼らにとって、この問題は自分たちの認識や常識そのものに直結している。

「単に諸橋くんの話だけなら、こんな話は到底信じられないんだが、現に俺や小野川くんの感覚と照らし合わせると――」

「二つの上縞町が存在することになる?」

「ずいぶん簡単に言うね」

 水木は苦笑した。

「すぐにそう結論付けたくはないな」

「ただ、俺らがいずれも明以外の標的になったやつを知らないって、どう考えてもおかしいでしょう」

 これには水木も頷くほかなかった。

「二つの上縞町か……。いや、場合によっては、もっと……」

 水木は渋い顔をした。

「どういうことです?」

「まぁ、その問題は今はおいておこうよ」

 水木はからりと語調を変えた。

「それより諸橋くん」

 水木は明のほうに向き直った。

「諸橋くんは、この街にやってくる前に、何か人の目につくことをしなかったか? 上縞ワイド以外で」

「さぁ……。ここに来る直前は、いつも通りに学校に行って、水曜日にあの番組に出ただけですから。それ以外は特になにも」

「そうか。それじゃあ、諸橋くんに敵意を抱いている人間に、誰か心当たりはないか?」

 話が突然飛躍したので、小野川が驚いて口を挟んだ。

「明が標的になるように、誰かが仕向けたっていうことですか」

「可能性のあることを考えているだけだよ」

 水木が笑いながら弁明する。

 一方の明は、「敵意を抱いている人間」と聞いて、いつか井上からされた風早の話を思い出していた。風早は今でも、数年前のことで明を憎んでいるという。それに、さきほど自宅から出たときに見た風早の様子も、尋常ではなかった。

「誰か思い当たる奴でもいんのか?」

 小野川の問いかけに、明はぼそりと言った。

「風早が、俺のことをずっと毛嫌いしていると聞いたことはあるんだ。井上から」

 しかし明には、そのことが今の事態に直結しているとも思えなかった。風早が幾ら自分のことが嫌いだからといって、ここまで人を追い込めるほどのことが彼にできるとも思えない。

「風早か」

 一方の小野川は、妙に納得した顔で頷いていた。彼は風早亮という人間を徹底的に嫌っている。明は、風早一人に原因を押し付けようとしているようなその場の雰囲気を見てとり、慌ててつけ加えた。

「待った。風早が悪いと決まったわけじゃない。ただ、そういう話を聞いただけだ」

「それでも、その〝風早〟という人が、この機に諸橋くんに対して何かする可能性はあるんじゃないか?」

 水木のその言葉に、明は先ほど見た風早の行動を思い起こした。指摘は当たっている。彼はとりあえず風早を擁護することは諦め、黙り込んだ。

「とにかく、自分と敵対する人間が具体的に分かっているなら、なおさら隠れていた方がいい。彼に原因があるかないかは別として、今の街のターゲットは諸橋くんなんだから、その人がこの機に何かしてくる可能性は大きいだろう」

「ええ、そうですね……」

 明は力なく同意した。


 結局、その日は小野川が水木から勉強を教わることはなく、明と話をするだけで時間が過ぎていった。

 夜の十二時を回り、帰り際に水木が言った。

「俺も今日の話を俺なりに整理してみるよ。正直な話、今はだいぶ混乱しているからね」

 そう言った水木の表情は、入ってきたときとは別人のように青ざめ、疲れきっていた。彼は笑い泣きをした後のような顔でため息をつき、明を見る。

「そのうちにまた会おう」

 彼は明の肩をぽんと叩くと、電話番号を教えて去っていった。

 残された明と小野川は顔を見合わせた。

「明日から、明は俺のこの課題を昼間にでも片付けていてくれ」

 そう言って小野川は、机の上の数学と英語のワークブックを指差す。明は眉根を寄せた。

「ちょっと待て、いきなり何言ってんだ?」

「俺は学校から帰ってきたら、取り掛かりたいことがある。さっきの水木さんとの話で、思いついたことがあるんだ。それを実行に移す。お前は学校での遅れを自習でカバーできるし、一石二鳥だろ」

 後半の主張には賛同できないものの、明は小野川家に身を寄せている身分であり、現在表立って行動できるのは小野川だけである。彼には何か策もありそうな様子だ。そこで明は、しぶしぶ了承した。

「俺は早速、準備にかかるとするわ。お前はその辺で漫画でも読んでいるか、課題をやっといてくれ」

 そう言い残すと、小野川は携帯電話を取り出して階下へ降りていった。

 明は暫く考え込んだあと、ため息交じりに机に座り込んだ。

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