(13)別れの夕べ

「そんな、そんなことはできません! 自分に彼らを裏切れというのですか」


 タシュクは顔を上げ、うめくように言った。たとえかつての師匠であるアドアーズの頼みであったとしても、それは聞けない提案であるに相違なかった。なんとなれば、彼自身が彼ら同志中の中の一番手であり、そのまとめ役であるからだ。彼がそれまでの行いを否定してしまえば、それはアドアーズのかつての仕事も否定してしまうことにつながる。それはタシュク自身にとって多大な苦痛であることはもちろん、アドアーズを慕う多くの者たちの心まで傷つけてしまう。

 だからこそ、タシュクは必死に抗弁した。


「『禍』の治療法は見つかったのでしょう? そうでなければ今頃、シルフィスは『禍』によって死んでいたのですから」

「見つかったといえるのは、あくまで対症療法だけです。きっと湖の底にはこの虫が何万何億と生息していることでしょう。これでは『禍』を完全に克服できたとはとても言えません。ましてや、そのような状況でいたずらに治療薬ができたなどと吹聴すれば、街の人々は大いに混乱してしまう。そんなことは避けなければなりません」

「それでは、アドアーズさんに街へ戻ってもらえはしないのですか。先日、ハゼムさんより伺いました。アドアーズさんは、先のご領主イアン様への贖罪として治療法の研究に専念されたのだと。もう治療法が完成したのであれば、街へお戻りになってもかまわないのでは?」

「治療法はまだ未完成です。シルフィスの件も、実際は危ない橋を渡る様なものでした。それに、私が目指すものはあくまでも『禍』の根本的な解決であって、治療法はその通過点に過ぎない。これは今も昔も変わっていない、私の軸です。それが終わらない以上、私はまだ帰ることができません」


 タシュクは言葉に詰まり、うつむいた。そして、


「自分には、これまでついてきてくれた同志を裏切るような真似はとてもできません」


 と、それだけ呟くように言った。


「いいですか、タシュク。領主様は『禍』を『禍』のまま、禁忌を禁忌のままに残すことを欲されています。それが何故かわかりますか」


 タシュクはうつむいたまま首を横に振った。

 それを見て、アドアーズは切々と説くようにタシュクに話しかけた。


「領主様は、人々が恐怖を忘れることこそを、何よりも恐れておられるのです。なぜならば、恐怖が収まってしまえば、後に湧いて出てくるのは人々の欲望だから。それは例えば今回のようにシルフィスひとりではない、多くの人々に死の危険を招きます」


 アドアーズは手元のガラス容器に目を落とす。その中の恐ろしい虫は、今は鋭い両顎を広げたまま死んでいる。

 彼は語りをつづけた。


「治療法など、結局のところ焼け石に水なのです。しかし、それを理解しようとしない者も出てくることでしょう。……私は古い記録類を探っていく中で、それを散々思い知らされました。かつて度々『湖底の禍』の禁忌が破られてきたとき。それは恐怖を忘れた人々の中に欲深き者が現れ、全ての魚を総ざらいにしてしまおうと考えたときだったのだと」


 アドアーズは虫の入ったガラス容器を懐にしまい込み、タシュクの両肩に手をかけた。


「タシュク。これであなたは仲間から憎まれることになるかもしれない。しかし、あなたにばかり負担は押し付けません。私のことも、街の人々に対して、領主様についた変心者として扱ってもらって構いませんから。だからどうか、私の頼みを聞き入れてはくれませんか」


 それでもタシュクは、容易に首を縦に振ろうとはしなかった。


「タシュク殿。これは、あくまで局外者としての忠告であるが」うつむいた姿勢のまま、ハゼムは口を開いた。「これはご領主とアドアーズ殿が貴殿を助けようとして打った芝居だ。今は何事も時期尚早、隠忍自重すべきという心遣いだ」

「しかし」タシュクの声は、かすれていた。

「貴殿の仲間を生かすも殺すも、あのご領主の御心次第なのだ。シルフィス嬢の命が助かったのも、結局はご領主のご決断によるものだ、それを十分心に留め置かれよ」


 しばらくの間、タシュクはうつむいたままだった。その間、ハゼムもアドアーズも声はかけなかった。ただただ、彼の言葉を待った。

 そしてようやく彼が顔を上げた時、その表情に最早迷いはなかった。


「――分かりました。その罰、お受けいたします」


 小広間に響き渡る声で、彼はそう言った。




「タシュク殿」

「はい、何でしょう」


 小広間より退き、城館の門を出た後の帰路。並んで歩く二人の打ち、先に口を開いたのはハゼムだった。


「貴殿には辛い役目を引き受ける決断をさせてしまった。申し訳ない」

「……いいえ。最後は自分で決めたことです。それに、いつかはこんな時が来るのではないかとも思っていましたから。どこかで止まらなければならないときがいつか、と」


 タシュクはどこかすっきりした顔つきで前を向いている。そのことが、彼の言葉に嘘がないことを示していた。


「これからは、別の意味で忙しくなるであろうな」

「ええ、シルフィスが倒れてからの事態の収拾をしなければなりません。あのことで皆には大きな心配をかけました。――それに、実験の中止も。ここまで来て残念ですが、やむをえません」


 ただ、とタシュクは続ける。


「領主様とアドアーズさんは自分への罰に、あることを付け加えませんでした。ハゼムさんは気が付いておられましたか? あの方々は皆を抑えよとは言われましたが、自分が何かする分については何も言われなかったことを」

「タシュク殿は、それがわざとであると? 自分は暗黙の裡に見逃されたと?」

「少なくとも自分はそう受け取りました」


 タシュクは自信をもってそう言ってみせる、

 だが、ハゼムとしては、そこに領主やアドアーズとタシュクとの間に思惑の齟齬があるように思えてならなかった。領主もアドアーズも、湖の禁忌に関する秘密は彼らだけで秘めておくつもりだったはずだ。今回はやむなく、タシュクにも明かさねばならぬこととなったが、依然として領主らの立場に変わりない。それが証拠に、あの小広間はやはり人払いがされた空間だったのである。

 タシュクが同志らを抑え、それと並行して何かするとすれば。それはきっと潜水鐘で持ち帰った泥砂の研究だ。あれにはおそらく、アドアーズが見せた毒虫が何匹も潜んでいるはずである。その研究、すなわち毒虫による魚の汚染を防ぐ方法、ないしは毒虫そのものを駆除しきる方法を、きっと彼は探し出そうとするはずだ。

 彼は、昔も今も、アドアーズの弟子なのだから。その精神には通底する一本の軸がある。


「そうか。我輩はあえて止めはせぬ。その立場にはないのでな。しかし、十分に用心することだ」

「ええ、ありがとうございます」


 しかしながら、最早ハゼムに彼を止める事はできなかった。

 いずれ両者の齟齬が顕在化するとしても、これ以上は彼らの問題であるがためだ。結局のところ局外者であるハゼム自身が、このことに深入りすべきではない。


「――それでは我輩は、これからすぐに出立の準備をせねばならぬ。今夕より遅れてしまっては、ご領主の警吏のご厄介になるからな。街を離れる際には、一度工房へ挨拶に立ち寄ろうと思うが、よろしいか」


 駅亭のそばへ差し掛かった時、ハゼムはそう言って一旦の別れを告げた。彼には、これからやらなければならぬことが山とある。背荷の清算に、『青金』のメルティンへの送り届け、更には新たな背荷としてレ・ラーゴの地産品の仕入れまで。とても悠長にしている時間はない。


「はい。きっとシルフィスと待っています。ごゆるりとお越しください」


 タシュクはそう答え、二人はやがて別れた。




 ハゼムと、彼からの連絡を受けて後から加わったルーリエが、何やかやと出立の準備をしている間に、時刻はすっかり夕暮れが押し迫る頃となっていた。遅れた理由は大体、メルティンへの『青金』の引き渡しでだいぶ時間を食ったことにあった。ハゼムが最初に領主を訪れたあの日、オルクスから散々に言い立てられたことで機嫌を悪くしていたメルティンが、嫌味たらしく説明の時間の引き延ばしを図ったのである。それを何とか切り抜けて、市場でこの日は多めに残っていた品をかき集めるように仕入れてしまった頃には、そのような時間になってしまったのだ。

 ハゼムとルーリエは駅亭を引き払うと、急いでタシュクらの待つ工房へと向かった。

 タシュクとシルフィスの二人は夕暮れの中、工房の前で待っていた。


「お二人とも、遅れてすみません!」

「いえいえ。今日は朝の件で元々お休みをいただいていましたから、構いませんよ」


 ルーリエが謝ると、そう言ってタシュクは首を横に振る。


「もう行かれるのですね」

「うむ。まもなく約束の時間であるからな。シルフィス嬢はその後、身体の方はいかがか」

「はい、おかげさまで。すっかり良くなりました」

「うむ。それはよいことだ。しかし、まだ無理は禁物である」

「ええ、気を付けます。――それと、タシュク」

「ああ」


 シルフィスに促され、タシュクが一歩進み出る。その手には底の浅い木箱があり、その中に並べて収められているのは、二組の魚鱗細工が施された首飾りであった。


「ハゼムさん、これを」

「これは見事な細工の首飾りだが、良いのか」

「はい。これは以前、シルフィスが獲ってきた珍しい魚の鱗で作った特別なものです。二人分のお礼としてお受け取り下さい」

「でも、これって結構お高いものなんじゃ」

「値段のことはこの際なし、です。なんて言ったって、命を救ってもらったんですから」

「ハゼムさん、どうしましょう?」


 どうしようかと迷う目で、ルーリエがハゼムの方を見る。

 ハゼムは諦めたように笑みを浮かべた。


「せっかくのご厚意だ。無下にするわけにもいくまい」

「分かりました。それでは、頂戴します」


 二人は礼を言って、それぞれひとつずつ首飾りを受け取った。

 ルーリエはシルフィスに促されるまま、それを首元にかける。夕暮れの橙色の陽光に、彼女の胸元の首飾りはきらりときらめいた。


「ルーリエさん、似合ってます!」

「あ、ありがとうございます」

「――それでは、そろそろ出よう。貴殿らには、色々と貴重な経験をさせてもらった。恩に着る。身体には気を付けて過ごすのだぞ」

「シルフィスさん、タシュクさん。どうかお元気で」

「お二人こそ、お元気でいてくださいね」

「行路の無事を祈っています。お元気で」


 ひとしきり別れの言葉を交わしあうと、ハゼムは荷馬車を出発させた。

 荷馬車の後ろに乗ったルーリエが、シルフィスと互いに手を振りあっていた。それはいつまでもいつまでも、互いの姿が見えなくなるまで続いた、

 この迷宮世界で、再び彼らと相まみえることはない。

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