(9)湖底の禍

 潜水鐘が船上に引き上げられ、ルーリエがその下から這い出てくると、船上の男たちはワッと沸いた。見回してみると、かがり火に照らされた幾人かの表情がルーリエには確認できたが、その彼らは一様に安堵の表情を浮かべていた。それを見て、彼女もまた、戻ってきたのだと実感がわき、ほっと落ち着くのであった。


「シルフィスはどうした?」


 と、誰かが訊いた。彼女が潜水鐘から出てこないのを不審に思ったのだろう。

 実はシルフィスは、泥砂で汚れて気持ちが悪いからと、潜水鐘が完全に引き上げられる前に、湖に飛び込んでしまっていたのだ。ルーリエがそう答えようとすると、当のシルフィスが、船のへりから顔を出した。


「あたしはここにいるよ」と言って、水着姿の彼女がそのまま船に上がってくる。「少し下で汚れちゃって、先に飛び込んじゃった。ああ、さっぱりした」


 彼女の登場に、また男たちが沸く。タシュクがねぎらいの言葉とともに綺麗な一枚布を手渡し、シルフィスは「大成功だよ」と笑顔でそれを受け取った。

 その光景を眺めていたルーリエの手を誰かがとった。


「何とか無事であったようだな、ルーリエ」

「ハゼムさん! 凄かったんですよ、実は――」

「……ルーリエ、こちらへ来なさい」


 ルーリエの手を取ったのはハゼムだった。彼はそのまま彼女を助け起こし、光と熱を放つかがり火の方へとゆっくり導く。そのときルーリエは、自分自身の身体がいつの間にか冷え切っていることを初めて知った。


「ここで少し休んでいるがよい。明るくて暖かい場所ゆえ、貴嬢の気分も落ち着こう」

「ありがとうございます。こんなに体が冷えているとは思わなくて」

「水の中に潜ると、そうなるものだ。気をつけなさい」

「はい」


 ルーリエは、潜水鐘の搭乗者に用意されていた熱いお茶を飲みつつ、彼女らが潜水中の船上の様子をハゼムから聞いた。

 結局のところ、一番最後の緊急事態の切っ掛けは、送気用の発動機の不調によるものだったらしい。。それに連絡用の鉄線の断線もあいまって、強引な緊急浮上という事態に至ったとのことだった。しかし、それ以外には特に問題といった問題もなかったということで、この夜の潜水実験は成功裏に終わったのである。

 こうして実験船は一路、レ・ラーゴへの帰路に就いた。




 実験線が元の舟屋に帰り着いたのは未明のことだった。船は、帰りを待っていた他の男たちの手も借りて静かに手早く格納された。そして、事が露見しないように、工房の者は密かに自室へ戻り、それ以外の者も人目を避けて帰路に就いた。

 ハゼムとルーリエはすぐには駅亭へは帰れず、舟屋で休ませてもらった後、夜明けを待って駅亭へと向かった。次第に騒がしくなる市場通りを抜けて、駅亭にようやく帰り着いたのは他の荷背たちが起きだしてくるころで、その騒ぎを避けて二人はそれぞれの部屋へと戻った。二人とも、特にルーリエは慣れぬ仕事に疲れ果てて、着の身着のままで寝台に倒れ込んでしまったのは最早言うまでもない。

 さて、こうして睡魔に誘われるがまま朝寝を決め込んでいたハゼムだったが、彼をたたき起こすものがいた。それは駅亭の主人であった。


「……我輩は今ひどく疲れていてな、もう少し眠らせてもらいたいのだが、主人よ」

「旦那、ウチとしては休んでもらう分には構わないんだが、何分急な要件だという者が来ているんだ。あんまり旦那を呼ぶもんだから、起きちゃもらえねえかね」

「誰だね、それは」

「タシュクと名乗る男で」

「タシュクが?」


 ハゼムは飛び起き、身だしなみを急いで整えてから、駅亭の受付へと向かった。そこにはタシュクが、取り乱した様子で落ち着きなくうろうろと歩き回っていた。


「タシュク殿、一体どうしたのだ」

「ああ、ハゼムさん。ご無事でしたか」タシュクはハゼムを一目見るなり安堵の表情を浮かべた。

「無事とは?」ハゼムはタシュクの言葉の剣呑さを訝しんだ。

「どうか説明は後にさせてください。……ルーリエさんは、まだ起きてこられませんか」

「ルーリエはまだだが、先ほど主人に頼んで、女将に起こしに行ってもらっている。何分急な要件とのことだ。昨夜のことであれば、彼女もいたほうがよかろう」

「そうでしたか、助かります」


 と、そんな話をしている間に、ルーリエも受付へと現れた。まだ眠り足りないようで、寝ぼけ眼をこすっている。


「あ、タシュクさん、おはようございますぅ」

「ルーリエさん! いきなりですが、お体に特に変わりはありませんか」

「え? いいえ、特に何もありませんけど。まだ少し眠たいくらいで」

「ああ、良かった……」


 タシュクは力なく言い、その場で膝をつく。その様子に、ハゼムもルーリエもいっぺんに目が覚める。どうやらただ事ではないらしいと、ようやく察しがついたのだ。

 ハゼムはしゃがみ込み、タシュクの肩をゆすった。


「タシュク殿、本当にどうしたのだ? 貴殿の様子は昨夜までとまるで違う。一体何があったのか、説明がほしい」

「――実は、シルフィスが倒れました」

「何!?」ハゼムが驚愕の声を上げ、ルーリエもまた口を両手で覆った。

「叔母から、朝に連絡がありました。ひどい熱で、ほとんど意識がありません。まだ医者には診てもらっていませんが、おそらくは『湖底の禍』かと」


 後半はほとんど消え入りそうな声で、タシュクは口惜しそうに言った。


「今のところ、症状が出ているのはシルフィスだけです。船に乗り合わせたもので、同じような症状が出た者はいませんでした。それで、あとはハゼムさんとルーリエさんが心配になり、確かめに来た次第です。特にルーリエさんは、シルフィスとともに湖底まで潜っていますから」

「それで貴殿はどうするのだ、これから」

「もう一度シルフィスの家に向かいます。もう間もなく医者が来るはずですから」

「それでは、我輩達も一緒に行ってよいか」

「ハゼムさんたちが?」

「我輩に医学の心得はないが、これでも多くの狭界を旅してきた身である。もし似たような病に心当たりがあれば、治療に協力できるかもしれぬ」

「もしそうであれば助かります。是非、お願いします」


 そうして、ハゼムとルーリエはもう一度旅装を整えると、タシュクの先導でシルフィスのもとへと急ぐのだった。




 シルフィスの家に着くと、その前には一人の若い男が所在なさげにうろうろとしていた。その様子を怪しみながらも、彼は計画仲間の医者です、とタシュクはハゼムに耳打ちした。


「おい、どうしたんだ。シルフィスは?」

「すいません、タシュクさん。実は、師匠がどこから聞きつけたのか出張ってきまして、今は師匠がシルフィスさんを診ています」

「なんだと」


 タシュクは、まずいことになったな、と呟いた。

 ひとまずタシュクの案内でシルフィスの家に入る。すると、寝室の寝台の上で苦しそうな表情を浮かべながら眠っているシルフィスがいた。彼女を診る医者は白髪白髭の老人で、厳しい顔で彼女のはだけた肩のあたりを見ている。そのわきには、彼女の母親が心配そうな表情で両手を合わせ、祈るような面持ちで医者のことを見つめていた。

 そして、ハゼム達が部屋に入ってくるのに気が付くと、老医者はシルフィスの装束を直して振り向いた。


「誰だね、湖の掟を破った愚か者は?」


 半ば怒鳴るような唸り声で、医者は問うた。そしてハゼム達三人を威圧的にねめつける。


「自分です」


 一歩前に進み出たのはタシュクだった。


「網を使ったのか」」

「いいえ。ただ――」そこでタシュクは少し言いよどんだ。「湖底の砂を、引き上げました」

「湖底の砂を? どうしてそんなことを……。いや、待て。お前さん、名前は?」

「タシュクといいます。タシュク・クロヴィシト・カミュラン」

「カミュラン? というと、アドアーズの身内か」

「アドアーズは叔父にあたります」


 そこまで聞くと、医者は舌打ちし、大きく息を吐いた。


「まったく、あの男の一党は何かと面倒事を起こすね」

「それより先生、シルフィスはどうなんでしょうか?」


 タシュクが問う。その問いに、医者はジッとタシュクを睨み据えた。


「……どうもこうもないね。これはもう時間の問題さ」

「そんな!」


 悲鳴のような嘆きの声を上げたのは、シルフィスの母である。


「先生、何とかしてはいただけないでしょうか!」

「奥さん、貴女の娘さんの病は間違いなく『湖底の禍』だよ。それがどういう意味が、この街の住人なら言わずともわかるだろう」


 医者の非情な物言いに、シルフィスの母は静かに泣き出してしまった。それを一瞥して、医者は今度はハゼムとルーリエのことを不審そうな目で見やった。


「それで、あんたたちは何だい。この娘の身内には到底見えないが、病人の寝室に部外者は立ち入るべきじゃない」

「我輩は荷背の者である。医学の心得はないが、様々な世界を渡り、様々なものを見聞してきた。それゆえ、何か役に立てないものかと無理を言って参上した次第である」

「ふん、素人かい。そんなのが何人いたって役には立たないよ。これはこの地の風土病だからね。わしは自慢じゃないが、この街でも一番長いこと医者をやらせてもらっとるんだ。荷背ごときがでしゃばる間はないね」


 老医者は冷たく言い放った。しかし、ハゼムはそれを聞きとがめた。


「それはなんともな言いぐさではないか。いかに貴殿が長年患者を診てきたと言えども、病が最後には流行ったのはおよそ百年前と聞く。なのに、なぜはっきりと診断できるというのだ?」


 老医者は目を見開いて、ハゼムを見る。その目には怒りの色が見えた。


「この分からず屋め! だったらこれを見てみるがいい」


 そういって、老医者はシルフィスの前合わせの衣の肩の部分をはだけて見せた。


「この疱疹を見よ! 高熱に意識の混濁、そしてこの疱疹。伝承にいう『湖底の禍』の典型的な諸症状じゃ。それだけ分かれば、判断もつくわい」


 怒鳴り声をハゼムにぶつけ、老医者はそれでも怒りが収まらないのか、立ち上がって診療道具をしまい始めた。その背中に向かって、ハゼムはふと思いついた疑問を投げてみた。それは根拠のある思い付きではなく、ある種の直感だった。


「貴殿、もしや過去に同じ病気の者を診たことがあるのではないか」


 老医者はハゼムを睨みつけた。しかし何も答えず、ただ「後のことは若い弟子に任す」とだけ言い残して、その場を去っていったのだった。

 残された者たちは重い沈黙に包まれた。ただ、シルフィスの母のすすり泣く声のみが部屋には響いていた。その沈黙の中で、ハゼムはある考えを巡らしていた。


「そこの若い医者殿」

「は、はい」


 ハゼムが口を開き、沈黙を破る。


「ひとつ訊きたい。街で『湖底の禍』が起きたらどうせよと言われている?」

「領主様にご報告するようにと言われています。この件は私の患者ですので、この後報告を上げることになると思いますが」

「その報告、少し待ってくれ。……それと、もうひとつ。あの先ほどの御仁、この町で一番長いこと医者をやっているということであったが、彼が城館に呼ばれることはあったか」

「城館にはご領主様の侍医がいますので。ただ――」その若い医者は何か思い出したようだった。「確か、前のご領主であるアイン様の急病時、呼ばれたことがあったと思います」


 ハゼムは少し考え、タシュクに向き直った。


「出来るだけ早くにご領主にお会いたい。どうすればよい」

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