(5)2つの名

「まず、キミには言ったことがあっただろうか。私には二つの姓があると」

「いいえ、初耳です」リダは困惑を隠さず、思わず前のめりになる。「キュリオーネ・テッセルカン。教授との本にも共著者名として記してある、それが貴女の姓名でしょう?」

「じゃあ、教授には打ち明けて、ついキミにも伝えたつもりになっていたんだろう」悪かったね、と彼女は笑う。「それも別に間違っているわけではないんだけどね。ただ、テッセルカンの姓は、私が旅に出る前に得たもの、つまりは『記述者』としての筆名なんだ。私たちにはそういう変わった慣習があるものでね。もう一方の名は、キュリオーネ・イシェリカ・クレイウォル、という。それが私の本来の姓名なのだよ」

「クレイウォル、というと」


 自身でも口ずさむと同時に、リダはその名を幾度も目にしたことを思い出す。

 しかし偶然ではなかろうか、と彼は思った。だが、キュリオーネがさも愉快そうな笑みをたたえて自分を見ているのに気がつくと、もはや確信せざるを得なかった。


「校正要員として、何度もあの本を読み込まされたキミだ。流石にピンときただろう」

「ハゼム・クレイウォル、別名『欠地伯』。荷背に身をやつしながらも、先祖が失った領地への帰還を夢見て、迷宮をさすらい続けたという自称貴族の男ですね」

「そう。お恥ずかしながら、彼は私の遠いご先祖様なのさ」


 彼女は、自嘲するように目を細めて薄く笑う。どうかな、一緒に笑ってくれるかい、とでも言いたげな視線をリダに投げかけてくる。

 しかしながら、彼女のその笑みには幾許かの親愛の情が見え隠れしているように彼には感じられてならなかった。キュリオーネの視線に応える彼の表情はそれゆえに、曖昧なものとなってしまった。

 キュリオーネはそんなリダの心中を知ってか知らずか、ひとり語りを続けた。


「まだ研究書の構想を練っていた頃に、教授から提案されたんだ。『多くの荷背のなかでも、一風変わった者達について紙幅を割きたい』とね。最初はその意図がよくわからなかったんだけれども、それでも彼があんまり熱心に言うものだから、一応了承したんだ。あとになって、彼のパトロン、資金援助してくれる好事家達からの要望だったと知ったんだけどね」

「そういうところがありますからね、あの教授は」

「でも、教授の立場もわからないではない。老い先短い身で、自身の集大成とも言える仕事だしね。つまらないイザコザで、機会を逃したくはなかったはずだ。私みたいな流れ者にも頭を下げるくらいだし」


 そういう必要な妥協ができるところにはいつも感心するんだ、と彼女は言う。

 これにはリダも同感であった。内向きと外向きの顔があまりに違いすぎるという点に目を瞑れば、ではあるが。


「私は他の章とともに、旅する奇人変人についても執筆を任せられた。ただ、手持ちの資料と頭の中の知識だけでは、どうにも物足りない感じがした。そうしたら、教授の紹介があって、この文書収集館でも文献や史料を漁らせてもらえることになった。おかげで、共同研究と私個人としての仕事、貴重な時間をそのどちらにも十分使うことができたよ。――もちろん、キミにもかなり手助けしてもらったからね」

「そのついでに、僕も気兼ねなく文書館へ入れるようになりましたから。こちらこそ感謝していますよ」

「フフ、それは良かった」リダのそれは決してお世辞ではなかったが、彼女は見るからに機嫌を良くした様だった。「それでね、私はふと思ったんだ。こうした便宜を図ってくれた教授に、何か恩返しはできないものか、と。そうしたら、まさに御誂え向きのモノが手元にあるわけだよ。教授が、ひいてはその支援者の方々が求める奇妙な旅人の1人にして、キミがさっき言った通りの『旅する自称貴族』。すなわち、我が偉大なるご先祖様、ハゼム・クレイウォル卿についての資料が、ね」


 そう言って、キュリオーネは机の上に載っていた紙束を取り上げた。

 紙束は丁寧に綴じられた一冊の厚い手記だった。表紙にはキュリオーネの筆跡で、「欠地伯考」のかすれた題名がある。だが、リダにとっては見覚えがない、全く初めて目にする資料である。彼が読んだ自称伯爵に関する記述、その底本となったのはどうやら彼女手製のこの資料らしい。

 リダはそれに目を奪われていたが、キュリオーネは更に続ける。


「私も人の子なのでね。もちろん『記述者』としての矜持はあるけれど、それとともに自分の血筋に対しても幾ばくかの誇りというか、執着はあったんだ。だから、『記述』のための旅をしながらも、頭の片隅にはずっとそれがあった。何か手がかりはないかと、片手間ながらに探し求めていたんだ。そのささやかな成果が、この手記だよ。しかし、1項目にあてる資料としては十分過ぎる量でもある。そう思って、個別項目を立てる人物候補の筆頭に彼を挙げて、教授にお目通しを願ったんだ。そうしたら案の定、是非この自称貴族について書いてくれと言われたよ。で、その時に白状したんだ。実は私がこの人物の末裔に当たるのだとね」

「それで、教授は何と?」

「『素晴らしい巡り合わせだ!』とおっしゃったよ。より一層の興味を持たれたようだった。私のこの手記も、熱心に目を通されていたしね」


 何ならキミも読んでみるかい? と、物欲しげな視線を察したキュリオーネは、その手記をリダに差し出した。

 寄越されたそれを彼は恭しく受け取ると、気がせくように、ランプの薄い明かりの下でパラパラとめくる。見るところこの手記は、クレイウォル卿の辿った足跡、すなわち訪れた狭界についての概要を2ないし3ページずつ、ものによっては図表入りでまとめたものらしい。

 その道の学生たるリダにとり、それは教授でなくともじっくりと時間をとって読み込みたくなる代物だった。とはいえ、今は時間がそれを許さない。彼はじっと我慢し、ひとまずは手記を閉じることとした。


「なるほど、実に興味深い手記です。教授も喜ばれるわけだ」

「ま、貸してあげるから、後でゆっくりと読んでくれて構わない」彼女はあっけらかんとして、手記を返そうとするリダの手を押し戻す。「ともかく。こういうわけで、私には2つの姓がある。ただ、私の『記述者』としての公式の名は、あくまでもキュリオーネ・テッセルカンであって、共同研究にもその立場で携わった。だから、クレイウォルという、極めて個人的な名は使う必要がなかったんだよ」

「2つの姓とは、そういうことですか。――しかし、わざわざこんな話をされるということは。そのクレイウォルの名が、あなたの心変わりに関係あると?」

「その通り。まあ、キミも私と2年を過ごしたんだ。私の人となりとこれまでの話の流れ、何よりこの部屋の有り様を見れば、むしろ分からないはずがないだろう」


 2人を取り囲む文書の山に、キュリオーネはうっとりと愛おしげな視線をやる。そんな彼女の横顔を目で追ううち、リダは彼女が今まで見せてもくれなかった資料を気安く自分に貸し付けた理由に薄々感づき始めた。

 そして、信じられない面持ちで、彼も改めて周囲を見回す。


「……まさか、これらが全部、クレイウォル卿の未発見史料だとでも? ですが、そんなまさか」

「そのまさか、さ。あれは丁度、研究書の初版本が無事に刷り上がった日だったよ。アンネラット女史が、使いを私の下宿まで急ぎやってくれたんだ。そして、伝えてくれた。ここに山と積まれた日誌群、つまりは我が偉大なるご先祖様クレイウォル卿の記録の存在を。どうやら、以前から何度かに分けて持ち込まれていたようなんだけれど、手違いで日誌史料ではなく、雑書として分類されていたらしくてね。地下書庫の定期整理の折に、ようやく間違いが分かって『発掘』されたというわけさ」


 当時の興奮が蘇ったように、彼女の語りには段々と熱がこもってくる。灯火の揺らめきによる錯覚かも知れないが、彼女の目には、恍惚の色さえ浮かんでいるようにもリダには見えた。


「私は、とるものもとりあえず、ここに駆けつけて現物を確認させてもらった。すると、一目で本物だと分かったよ。その時の感動といったらもう、とても言い表すことなんてできない。と同時に、今こそ密かな決意を遂げる時なのだと悟ったんだ。もしも仮に、ひとたび彼を「知る」という機会に恵まれたならば。――つまり、今回のような、人生に2度ともない幸運に接したならば、私はひとまず『記述者』としての使命を脇において、それに専念しよう、と。知りたがりだからこそ『記述者』になれるが、このような些細な幸運にまで恵まれれば、観念せざるをえないだろう」


 キュリオーネはそこまでいっぺんに言い切ると、はたと一度大きく息を吐いた。暗がりにもわかるほどに上気した頬を、手でパタパタと仰ぐ。

 彼女のそんな姿に、リダは彼女なりの小さな嘘を見出していた。

 本当に、彼女は先祖の研究を片手間くらいのつもりでやっていたのだろうか。その程度の熱意にはとても見えないのだ。彼女は密かな決意と言ったが、きっとそれは宿願に近かったのではないか。知ることに貪欲な『記述者』としての本能と、ある種特別な血筋を引く者としての自意識との、複雑に混じり合った大いなる宿願に。

 思えば、あの研究書に先祖の存在を差し込んだのも、彼女のそんな感情の表れだったのかもしれない。その存在が忘れ去られてしまわぬように、誰かに覚えておいてもらえるように。世代を超え、いつまでもいつまでも、と。

 しかし、そんなことをわざわざキュリオーネに指摘するのは、いかにも無粋に思えた。彼女自身、それを理解しているのだろう。だからこそ、先祖に言及する時、彼女はわざとらしく持って回った言い方をしているではないか。

 だからこそ。

 荷背の中にも、そんな風に考える人がいるんですね、と。リダは特にあたりざわりのない感想を述べるにとどめたのだった。


「私が特殊なだけさ。あるいは、貴族を自称するような奇特な人物の子孫なのだからかもしれないけれどね」

「まあ、何はともあれ。貴女がここに残った目的は、理解できました。無為な理由でないと伝えれば、教授も少しは機嫌を直すと思います」


 キュリオーネもすっかり元の調子に戻り、リダも話を締める。互いに本音をしまいこみつつ、詰問は終了する。

 いつのまにか、世間は夕食どきを迎える頃となっていた。窓を閉め切っているのに、心なしか香ばしいソースの匂いも漂ってくるような気さえするようだ。

 これにて、リダもようやく任務完了、お役御免となる。あとは帰りの挨拶をして、この場を後にするだけ。

 そのはずだった。

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