第16話

 法道は考え込む。

 なぜこの人は長い人生で、なぜこの人は短い人生だったのだろう?

 なぜこの人の人生はここで終わり、自分はまだ続いているのだろう?


 この疑問文を当事者からの質問に変えると

「どうしてうちの人はこんなに短い人生だったのでしょう?」

 という言葉になる。

 

 そしてそれは、いつかは自分が誰かから問いかけられるものとなるかもしれない。

 そんな質問に、相手が納得してくれる答えを法道は見つけられない。



 健康に気を配れば今より長生きできたかも。

 周りに注意したら怪我も防ぐことができたかも。


 それも答えだろうが、質問者はそれを望んでいるだろうか?



 その質問をする意図はどこにあるか。

 質問をしてくる人の願いは何なのか。



 単に、長く生きていてほしかったというだけではない。

 長く生きてもらったら、その人と何をしたい?


 一緒に同じ経験をして、一緒に同じ時間を過ごして、一緒に思いを分かち合うことを願ってるんじゃないだろうか?


 法道はそんな考えに行きつく。

 そしてさらに己に問いかける。


 その願いを叶えることができなかった。もっとそのような時間を過ごしたかったからそんな質問が生まれたんじゃないだろうか?


 ある種の後悔だ。


 しかし過ぎてしまったことはしょうがない。取り返しがつかないことなのだ。

 これは法道ばかりじゃない。住職にだって、どんな僧侶だって、亡くなった人を呼び戻すことは無理なのだ。


 その人にとっては残酷だが、諦めるしかない。この世でその人との毎日を過ごすことはもうできないのだ。


 そして誰かをその人の代わりにすることもできない。諦めてもらうしかない。




 けれども



 ほかに別の大切な人を見つけたらどうだろう?

 この世での別れの時は、どんな人にも必ずやってくる。

 別れの悲しみは必ずやってくる。


 その度ごとにそんな辛い悲しい思いをしなければならないのか?

 この世界は、そんな悲しみばかりでいっぱいなのか?


 いや違う。


 その後悔を何とかすればいいのではないか?


 前にも結論を出したはずだ。そこから始まる物語があると。

 満足しながら人生を終えた人も過去にはいた。


 人生の目的を定め、命果てる前に達成したり、命と引き換えるほどの価値のある願いを叶えたりしていた。


 しかしそこまでの切なる思いは、普通の生活の中で持つことはほとんどない。

 それでも後悔の思いを持つということは、何かの願いを持っていた証し。



 ならば、別れの悲しみを越えるほどの、願いを叶えた喜びの数を増やせばどうだろう?

 一つのことに目がいくと、そこから別の視点に移動することが難しくなる。だから見るべきことを変える必要があるのではなかろうか。



 

 また一つの結論に法道はたどり着く。


 その役割を僧侶なら担うことができるのではないだろうか? と。


 


 過去を振り返って後悔しそうになっても、当時の本人たちにとってそれが悔いのない選択であるならば、それは充実した時を過ごすことができたと言えるのではないだろうか。


 それで後悔することがあるなら、それは高望みかあるいはない物ねだりになるだろう。




 でも今回の枕経、亡くなったのは生まれて間もない子供。

 何もわからないうちに、この世で生を終えてしまった人生。

 自分では何もしてあげられない。せいぜい手を合わせて冥福を祈るのみ。


 

 そしてそれは、人の力を越えた生死の話。こうでありたいと望んでも、人の力じゃどうしようもない。それで悲しい思いをしている人のための仏様のはず。

 

 会えなくなった両親の代わりになってくれる存在。

 遺された者にとっては、無念の思いを託せる存在。

 我が子を失って、積もる悲しみも託せる存在。


 遺された者にはこの世で生きる時間があるのだから、その悲しみを今後に活かせる毎日を過ごすために、悲しみに暮れるばかりの思いは仏様に託す。

 ときどき失った子供のことを思いやる。そのための年回忌。

 それでいいじゃないか。



 

 法道は二つの答えを出した。


 この世で命が在る限り、常に最善を尽くし、全力を尽くす。

 いつも全力なら疲れるばかり。ならば疲れをとるために全力で休む。全力で遊ぶ。全力で勉強し、全力で働く。

 もっとこうしておけばよかった などと思わないように、いつも悔いのないように。なるべく悔いを少なくするように。


 別れの時は悲しいけれど、本人が満足ならばそれで十分じゃないか。

 そう思えるようになったなら遺された人たちも、悲しみを乗り越えるための苦労を少なくできるのではないだろうか。


 

 人の力に負えないことは、すべて仏様にすがる。頼む。

 望まない結果になってしまったのなら、最善を尽くし全力を尽くしたのなら責められることは何もない。

 苦しいときだけの仏様頼み、結構じゃないか。苦しみから救ってくれるのが仏様なら、頼み事の内容は苦しい思いから解放されることばかりになる。

 でも、そのためにも普段から仏様とのつながりを保つ努力はする方が、頼みごとをするときに心苦しく感じることは少なくなるだろう。




 どうして長く生きられなかったんですか?


 その答えにこの二つの答えは正しいかどうかはわからない。だが法道には、その質問の本質の応えはそれ以外は出せなかった。

 ただ、再度暗くなった自分の周りを、自分の導き出したその答えで、いくらかでも明るくなることを願った。

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