第2話 決心、別れ

 目覚ましのベルがけたたましく鳴り響き、朝を告げる。時計の針を見ると午前七時を少し回ったところだった。

 起き上がるといつもより身体が軽く、眠気もスッキリと覚めていた。あれだけ長い夢を見ていたのだから、てっきり身体はダルイだろうと思っていたが、全くの正反対だった。

 伸びをして、欠伸を一つ吐いた。階下へ降りて洗面所に向かい、洗面台で顔を洗ってから寝癖をチェックした。

 先に起きて台所に立っていた母親に、おはようと言い、紅茶用のヤカンに火を掛けて、二階へ舞い戻る。学校の制服に手早く着替えて、また一階に戻り、紅茶のダージリンをいつもどおりに作った。そのうち一杯を居間にある仏壇に置いて、ミヤコにおはようと挨拶した。

 父親が起きてきて、横でミヤコに挨拶をした。


「父さん」

「ん? どうした?」

「俺の紅茶、あと五年は飲めるから安心しなよ」


 ミヤコには口止めされていたが、言ってしまっても構わないだろう。親父も、もういないミヤコを怒ったりはしまい。


「…ミヤコが言ったのか」

「うん」

「ふん。ホント、そういう仕様も無いことだけは言って逝くんだな、ミヤコは」


 そう言って、親父は悲しそうに笑った。



 学校では、夢の中のミヤコの事ばかり考えていた。教師も、俺が妹が死んでしまって落ち込んでいると思案しているのだろう。俺には問題や注意を飛ばしてはこなかった。

 そんな中俺は、ミヤコはどうして俺の夢に出てきたのだろう。と、ただ虚ろに考えていた。

 夢とは思えない夢。

 一言で表すのならそんな感じだった。ミヤコは俺の夢の中で、あまりにも鮮明に映りすぎた。在りえないくらいに、存在感を持って話しかけてきていた。理由は分からない。でも、夢にしては違和感があり過ぎた。

 一体俺はどうしてしまったのだろう? ミヤコが死んでしまって一週間が経っているというのに、ミヤコの死が認められないのだろうか? いや違う。確かにミヤコの死を認めたくはないが、俺が感じているのはそんな事ではない。

 俺が感じているのは、言うなれば矛盾のようなものだ。何か辻褄が合わない。何か納得がいかない。

 最初にそれを感じたのは、ミヤコを見つけたばかりの時だった。

 ミヤコが普通の元気そうな姿で俺の夢に現れた事か? いや違う。俺はミヤコが死んでしまったときの姿で会う事なんか望んでいない。俺はミヤコの姿には違和感なんかより、幸福感を持っていた。夢の中とはいえ、また会えたことに何の違和感も感じてはいなかった。

 俺が違和感を感じたのは、…会話だ。俺は都の喋りに関して、違和感を感じた。ミヤコを目の前にして、幸福感を感じて、抱き締めた。ミヤコは慌てふためいて暴れ回ったが、言葉を交わすとすぐに大人しくなった。

 ここまではいい。普段と変わらないミヤコだ。違和感はその後すぐの会話の中で感じたんだ。

 そう。抱き締めるなんてどうしたんだ。という台詞に俺が答えたすぐ後だ。

『論点はそこじゃない。…もう。やっぱちょっと変だよ。夢の中とはいえ、やって良い事と悪い事があるんだから』

 ここだ。ミヤコのこの台詞に違和感を感じた。


『夢の中とはいえ』


 ミヤコは、ミヤコ自身もこれが夢であると自覚していた。しかし、これは俺の夢の中のミヤコであるのだから、夢の中のミヤコがそれを自覚していても、何ら矛盾があるとは思えない。でも、何故か違和感を感じる。

 ミヤコは顔が熱くなって、俺が熱でもあるのかと心配した時に、こう言っていた。

『うるさい! バカァ! がぁあぁあぁあぁ、もう! 死にたい! 死にたい! 死にたい!』


『死にたい』


 これはおかしくないか?

 さっき、夢の中ではミヤコ自身がこれが俺の夢であると自覚していた。という事がわかっている。なのにミヤコは『死にたい』と言った。俺の夢であるならば、ミヤコは自身が死んでしまっていることを自覚しているはずだ。あまり自分からは冗談や嘘を言わない、言っても狙っていたりバレバレだったりするミヤコにとって、これはあまりにも自然すぎた。ミヤコは死んでいる事を自覚していないのか? でも、そんなピンポイントで、都合よく俺の中のミヤコは死んでいる事を忘れてしまうものなのか?

 まだ違和感はある。あの紅茶を飲みながらの他愛の無い雑談だ。ミヤコの話はどれも、ミヤコの生前のものばかりだった。それは死んでしまっているミヤコにとって、何ら不思議なことではない。でも、俺の記憶の中の存在であるならばそれはおかしい気がした。取り止めのない会話の一つ一つに、ミヤコは懇切丁寧に対応していた。しかし、その答えの中には俺が知らないような受け答えも入っていた。俺が聞いた事もないような話まで出てきていた。これはおかしい。ミヤコには――俺の夢の中のミヤコにはそんな話が出来るはずが無いんだ。

 だって、俺が知らないんだから。

 夢の中のミヤコは俺の想像意識の中で構成されている。ならば、俺の記憶の中を超えたことまでは話せないはずなんだ。これは大きな矛盾だ。

 そう思えば、あの会話もそうだ。

『違う違う。お兄ちゃんの紅茶が美味しいからだって。お父さん、お兄ちゃんの前じゃ言わないけど、私とお母さんの前で、お兄ちゃんの紅茶がないと一日が始まらないって言ってたもん』


『お父さん、お兄ちゃんの前じゃ言わないけど、私とお母さんの前で』


 俺が知らない、知り得る事のない情報だ。

 俺はそれを今日の朝、親父に確認した。そして親父はそれを認めた。

 ありえない、絶対的な矛盾だった。


   ◆◇◆


 その日は早めに眠った。ミヤコが、いつ俺の夢の中に現れるのかが分からなかったから、身支度をさっさと済ませ、十時頃に床に着いた。

 ミヤコは一時間後の、十一時を少し回った頃に現れた。


「お、今日も来たんだね。ていうか今日ダージリン入れてくれるって言ったのに、アッサムのミルクティーだったじゃん。嘘つきぃ」


 プンスカと、ミヤコが大して怒ってもいない事を露わにして怒った。

 俺は、そんな事はお構い無しにミヤコへ質問をした。


「ミヤコ」

「なに?」

「今日、何月何日だったっけ?」


 少し声が硬くなってしまったが、構わず詰め寄って聞く。


「え? …何でそんな事聞くの?」


 突然の事で戸惑ったようにミヤコが身構える。


「いいから答えろ」


 それでも尚俺は、ミヤコの肩を掴んで聞いた。


「え、えっと―――」


 ミヤコが言った日にちは、ミヤコが死ぬ前日だった。



 まとめると、これは俺の夢ではなく、俺とミヤコの夢という事だった。ミヤコからしてもこれは夢だったのだ。しかし、死んでしまっているミヤコに夢を見ることはできない。だが、俺の夢とミヤコの夢は時間軸がずれていて、ミヤコは事故に会う前日の夜から来ていた。

 確かに、ミヤコが死んでしまう前日に、ミルクティーを出して膨れっ面をしている事があった。

 何故今思い出したんだろう。どうして昨日夢を見ているうちにこの事が分からなかったのだろう。

 そう思いながら、ミヤコにミヤコ自身が死んでしまうこと、また、その経緯について説明した。


「私、女の子を庇って死んじゃったんだよね?」


 ミヤコがこっちに目の合わせずに聞いてきた。


「…あぁ」


 何故、その場に俺がいなかったのかと後悔する日もあった。掛け替えの無い存在を失って、胸にポッカリと開いてしまった穴が傷む日がないくらいに。


「んじゃ、別にいいよ」

「…え?」


 ミヤコは自分の死に臆せずに、そう言い放った。


「女の子庇って死んだんでしょ? それでその子が生きてるんだから、私は別にいいよ」


 真摯な目で、俺を真っ直ぐに見つめてそう言った。


「よくねぇだろ! お前が死んだら、一体何人の人が悲しむと思ってるんだ!」


 俺は怒鳴った。ミヤコがその事実を、あまりにも簡単に受け止めてしまった事にイラ立った。


「親父だって、母さんだって、クラスの奴らだって、俺だって悲しむんだぞ!!」

「その女の子が死んだって、私みたいに悲しんでくれる人が大勢いるはずだよ」


 荒れ狂う俺に対して、ミヤコはそれでも冷静に対処した。


「お兄ちゃん、私はね、命の価値が平等だなんて綺麗事を言ったりしない。お年寄りの人より、子供の方がずっとずっと重いんだと思う」

「………………」

「だって、まだまだ生きていけるでしょ。その子の人生はまだ始まったばかりなんだから。だからさ、同じ命だからって自分の命より軽いなんて事を私は思わない。私は、私の命よりもその女の子の方が、ずっとずっと重いってそう思う」

「でも――」

「でもじゃない。私は何としても、その女の子を守る。命を賭けて、女の子を救ってみせる」

「……ミヤコ」


 ミヤコの意志は固かった。俺の目を見つめ、決して逸らさなかった。ここまで筋を通してしまうと、ミヤコは決して折れはしないだろう。ミヤコの目には決意が映っていた。

 死んでほしくない、というのは決して我が侭ではないはずだ。生まれてきてからずっと見守ってきた。俺が、命を賭けて守ろうとしてきた存在だ。ミヤコが夢から覚めた時、その時の俺はミヤコが死んでしまうなんて、微塵も考えてはいないだろう。それが悔しくてやるせなくて堪らない。


「…うん。わかった。もう、何も言わねぇよ」


 でもこんな事をミヤコにぶつけても仕方がない。俺が何も出来なかったのは、俺の所為だ。俺は後悔するしかないんだ。


「…ありがとう。お兄ちゃん」


 都は小さく頷いた。その顔には決意が満ちていた。


「紅茶、入れてくるよ。何がいい?」


 ミヤコの側にいられる、顔を見ていられる時間は少ないのに、俺は少しミヤコから離れていたかった。


「ダージリンが飲みたい」


 ミヤコは笑顔でそう言った。

 台所へ向かい、昨日と同じ手法で紅茶を入れる。

 時計の針を見ると、午前三時を指していた。昨日、七時ちょうどに夢から覚めたからといって、今日もそうとは限らない。もしかしたら不意の事で、もっと早く目覚めてしまうかもしれない。あと少しの時間しか一緒にいられないのに、この残り時間はあまりにも短すぎる。

 紅茶を入れ終わったら、残りの時間はずっと喋り続けよう。ミヤコがこの世に未練を残さないように、後悔を残さないように。

 紅茶をカップに注ぐ。ベスト・ドロップに程近い方の紅茶は、全てミヤコの方に注いでやった。

 紅茶のセットを作り、居間へ向かう途中、またもや後ろから気配を感じた。

 後ろを振り向くが、やはり誰もいない。昨日もこの辺りで何かの気配を感じたが、いったい何なのだろう?探してみようかとも思ったが、今は時間が惜しかった。

 居間へ着くと、ミヤコは昨日と同じように女性用のファッション誌を読んでいた。今度は普通に服のページを読んでいたので、勢いよく閉じたりはしなかった。


「お、良い匂い」

「ほら、飲みな」


 ミヤコの前に、いつも通り紅茶と砂糖を置いてやる。


「うん」


 しかし、ミヤコは砂糖をあまり入れなかった。


「砂糖、それだけでいいのか?」

「ん。たまには本来の味を楽しもうと思ってね」


 そう言ってニッコリと笑う。


「いきなりそんな事しても舌に合わないぞ、この気取りめ」

「そんな事無いよ、このブルジョワめ」

「ははは」

「ふふふ」


 俺とミヤコは小さく笑い合った。ミヤコの豊かな表情を見てきたが、やはり似合うのは笑顔に尽きる。

 その後は、ぽつぽつとした会話だけが続いた。

 話したいことは沢山あるはずなのに、何故か殆ど出てくることはなかった。

 そしてあっという間に、時計の針が、午前七時まで残り三十分を切った。


「もうそろそろ終わりだね……」


 そう言ったのはミヤコだった。何が終わりなのかは聞くまでもない。


「……あぁ、そうだな」

「ねぇ、お兄ちゃん。ワガママ言ってもいい?」

「おう。何でも聞いてやる」


 これが最後になるだろう。どんな事でも聞くつもりだった。


「んじゃ、立って」


 言われた通りに立ち上がる。


「…ん」

「! お、おい…」


 ミヤコが抱きついてきた。俺の背中に手を回して、頭を俺の胸に押し付けてくる。


「ワガママだよ…聞いてくれるんでしょ?」


 顔を見せずにミヤコはそう言った。


「ま、まぁな」

「お兄ちゃん。私、死ぬの怖い」

「………………」


 ミヤコの体の震えが、直に俺に伝わってきた。


「でも、女の子を見捨てちゃうのはもっと怖い」

「………………」

「私、まだまだしたいことが沢山あった」

「………………」

「部活の試合にも出たかったし、友達とももっと仲良くなりたかった」

「………………」

「彼氏も作ろうかなって思ったけど、お兄ちゃんがいるからいらないって思って、告白も全部断ってきた。…変な意味じゃないよ?」

「………………」

「ねぇ、お兄ちゃん。私はおにいちゃんのことが大好きだよ。……お兄ちゃんは、私のこと好き?」

「……あぁ。大好きだ」


 好きだ。大好きだ。大大大好きだ。言葉で言い表せないくらい、大好きだ。


「ふふ。なんか告白みたいになっちゃったね。別にいいけど。嬉しいし」


 ミヤコの顔はずっと下がっていて、見ることはできなかった。そして、俺の腕はいつの間にか、ミヤコを抱きしめていた。


「私は、お兄ちゃんがお兄ちゃんでホントに良かったと思ってる」

「………………」

「お兄ちゃん。私のお兄ちゃんでいてくれて、ありがとう」

「……あぁ。……あぁ」


 涙が止まらなかった。いつの間にか溢れ返った涙で、目の前が霞んでいた。

 ミヤコを強く抱きしめる。触れている感じでわかる。ミヤコもまた、俺と同じように泣いていた。

 少しの間、そうして抱き合った。ミヤコの温もりを感じて、ミヤコの事を忘れないように。ミヤコは…ここにいる。



「ねぇ」

「何だ?」


 抱き合っていた状態から離れると、ミヤコがゆっくりと口を開いた。


「さっきから考えてたんだけど、死んじゃった私は、こんなこと、体験してたのかな?」

「? あぁ、多分そうだと思う。会話の所々に、俺が見てきたミヤコと同じ感じがする」


 よく分からない質問だった。何故そんな事を今更聞くのだろう。午前七時まではもうあまり時間は残っていないというのに。


「同じ感じかぁ。いや、何て言うかさ、私は私が死んじゃうこと知ってるんだから、何かと対処すれば私も女の子も死なないで済むんじゃないかなって、そう思ってさ」

「………………」


 あまりその発想はなかった。ミヤコが死ぬか、女の子が死ぬか。その二つに一つだと、心のどこかで考えていた。


「そしたら、みんなハッピーだよ。事故なんて無かった。誰も怪我する事なんて無かった。そうすれば万事解決」

「でもミヤコ、そんなに都合よくは……」


 いかないんじゃないのか。そう続ける事は躊躇われた。


「うん、分かってる。そんなこと、多分起こらない。奇跡なんて、そうそう起こるものじゃないよね。私は、こうやってお兄ちゃんと夢の中で一緒にいられた事が、これだけですごい奇跡だと思ってる。だってそうでしょ? こんなの、普通はありえないよ。」

「………………」


 確かにそうだった。おかしいとは思っていたが、言い換えればこれは奇跡だ。死んだはずのミヤコと、夢の中で過去と繋がっている。これだけで十分な奇跡だった。そして、奇跡は立て続けに起こったりはしない。恐らく、ミヤコにはもう奇跡は起こらない。そう考えただけで、胸の奥が痛んだ。


「そんな悲しそうな顔しないでよ。私は、私の役目をきちんと果たすよ。なにがあっても女の子を守り抜く」

「……あぁ」


 返事しか出来ない自分が、やるせなくてもどかしかった。

 俺がミヤコにしてやれる事は、もう何もない。


「でも、できる事はする。できる事はやらないと、奇跡も起こり様がないからね」

「無理はするな」


 どの口がそんな事を言うのだろう。俺は、そんな事言える立場じゃない。


「無理するよ。何言ってんの」


 ミヤコは小さく笑みを作る。時計の針はもう、七時間近となっていた。


「お兄ちゃん」

「…ん」

「最後にもう一回言うね」


 恐らく、これがミヤコの最後の言葉になるだろう。


「私は、私のお兄ちゃんがお兄ちゃんでホントに良かったと思ってる。私はすっっっごく、幸せだったよ」


 ミヤコは、俺が今まで見てきた中で、一番の笑顔を浮かべた。


   ◆◇◆


 目覚ましのベルがけたたましく鳴り響き、朝を告げる。時計の針を見ると午前七時を少し回ったところだった。

 歯痒くも、昨日と同じで何一つ変わっていない。


「………………」


 ミヤコは、夢の中のミヤコは行ってしまった。

 俺は、ミヤコが死ぬのを止める事は出来なかった。ミヤコを守ってやれもしなかった。

 俺は、無力だった。

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