(8)

 クリスティナが髪を切った。

 レグルスの記憶にある限り、彼女の髪はいつも長かった。栗色のお下げが小柄な背中で跳ねるのは何とはなしに心躍る光景だったのに、と残念に思う。

 ルネの往診に来たクリスティナの、束ねられないほど短くなった髪を眺めていると、何よ、と睨まれてしまった。

 剣の稽古をしている、などと言うと、またクリスティナは激怒するだろう。レグルスがルネを助けてタレスに戻ってきてからというもの、彼女とはぎこちないままだ。

 ルネの包帯はまだ完全に外れないが、身体はだいぶん自由が利くようになり、金属製の義手の慣らしを始めている。逃がし屋をしているときは目立つため使っておらず、ずいぶん久しぶりだとルネは目を細めて笑った。

 長剣と一体となった義手は長大でずしりと重く、最初は重心を定めることにさえ難儀していたが、相棒として長くつきあってきただけのことはあり、一度こつを掴むと、まるで身体の一部であるかのように義手は滑らかに動くようになった。

 よく食べよく眠り、フレイと触れ合っているおかげか、ルネは急速に回復している。彼女のことをあまり良く思っていないらしいクリスティナでさえ驚くほどの強靭さで、痩せ衰えた身体にも筋肉が戻り始めていた。

「……クリスティナと、何かあったんですか?」

 唐突な質問に、レグルスは首を傾げる。

「別に何も。どうして?」

「何となく……様子が変だったから。焦ってるというか、心ここにあらずというか。突然髪を切ったのも、理由があるのかなって思ったんです。クリスティナはレグルスと仲がいいですから、何かご存知かなって」

「いや、おれは何も聞いてないけど」

 そう言われると、レグルスも気になる。市街へ下りたついでに診療所を覗いてみたが、往診に出ているとかで留守だった。フレイに玩具のひとつでも買ってやろうかと市をぶらついていると、買い出しの帰りらしいカーヴィンに出会った。

「久しぶり、カーヴィン」

「やあ、レグルス。ちょうどいい、ジェフラさまのお耳に入れておきたいことがあるんだ」

 道端へ移動し、周囲に誰もいないことを確かめてから、カーヴィンは低い声で言った。

「一昨日、イルナシオンから逃げてきたって男が教会にやってきたんだ。ずいぶんくたびれた様子で、聞けばルーナシル側の国境から逃げ出してきたっていう。特に不審なところはないんだが、えらく体格が良くてな。もしかすると騎士なんじゃないかって思ってる」

「……ジェスティンの部下ってことか?」

「もちろん、本当に逃げ出してきた騎士かもしれない。真面目に働いているし、外部と接触してる気配もないから、今のところは様子見なんだが……念のため、伝えてくれるか」

「わかった。何か変わったことがあればすぐ知らせてくれ」

 カーヴィンと別れて、すぐさま引き返す。気のせいであってくれればよいが、と思案しつつ丘を上っていると、背後から蹄の音が近づいてきた。道を譲ろうと草地に踏み込むと、見覚えのある赤毛が馬上に翻るのが見えた。

「ヴァーチュア! 戻ったのか」

「元気そうで何よりよ、レグルス。……ちょっと急ぎの報告があってね。力が有り余ってるなら、急いで来て」

 どのようにして国境を越えてきたのか、ヴァーチュアはさほど疲れた様子も見せずに早口でそれだけ告げると、振り返りもしないで馬の腹を蹴った。その背を見送って、レグルスも坂道を駆け足で上る。すれ違う使用人たちが何事かと目を丸くするが、構っていられない。

 クスレフを経由して戻ってきたヴァーチュアが報せたのは、イルナシオン人によって抜け穴が使用されたらしい、ということだった。

 逃がし屋が摘発され、ソル・ソレラ使節団も入国を拒否された今、ジェフラの密偵はイルナシオン国内で息を潜めており、レグルスがルネを救出して抜け道を使った以外は、誰もアヴェンダに戻ってきていないはずだった。

「岸壁を上ったところの地面が荒らされていたの。動物によるものではなさそうよ」

 ジュライの組織した見回り班が異常に気づいたが、その後の足跡を追うことはできなかった。いつ荒らされたのかも明確ではないという。

「イルナシオンの誰かが自力で抜け道を見つけたというよりは、ジェスティン配下の者が入国したと考えるべきでしょう」

 レグルスも続けた。

「一昨日、ソル・ソレラ教会にイルナシオンからの難民を名乗る男がやって来たそうです。カーヴィンの見立てでは、騎士ではないかということでした。不審な動きはないそうですが、お耳に入れておくようにと」

 二人の報告を聞いたジェフラは、大きくため息をついた。

「ついに来たな。……ルネを屋敷へ。窮屈だろうが、外出は控えてもらう。ルネの存在だけは知られてはならん。念のため、フレイもだ」

「抜け穴を塞ぎますか? 崖の手がかりを崩せば、時間稼ぎにはなると思いますが」

「そうだな。そうしてくれ。イルナシオンには、ジェスティンの動向をしっかり見張るようにと」

 炎の揺らめきを思わせる仕草で一礼し、ヴァーチュアが去る。

 ダリスタン領のあらゆる街、町村が警戒心を高めていたが、十日ほどしてジェフラに届いた鳩便は「烏、巣立ち戻らず」、ロズルノーからジェスティンの姿が消えたと報せてきた。

 一気に屋敷中が色めき立ち、慌ただしくなった。使用人たちは伝言や手紙を携えて各地へ使いに走り、マリアンはフレイと子ども部屋に籠った。ジェフラはアヴェンダ国王や他の領主、サリュヴァン、ルーナシルを説得するために屋敷を空け、クスレフにはヴァーチュアを密偵たちの束ねとして留める代わりにジュライを呼び戻した。レグルスは私兵たちからもたらされる情報を集約し、ジュライとジェフラに報告する一方で、一般兵と共に領内を巡回して不審者の警戒に努めた。

 誰もが少なからず不安を抱え、動揺し、それらを慌ただしさに紛らせていた。

 だから、週に一度、雨の日も風の日もルネをに来ていたクリスティナが、体調が優れないと往診を休んだことに疑問を抱いた者は誰もおらず、ルネが義手と共に消えたことにも、その日の夕方になるまで誰も気づかなかった。



 ルネの不在を真っ先に察したのは、フレイだった。

 火がついたように泣いて、マリアンがいくら宥めようとしても身体を反り返らせて嫌がり、顔中をぐしゃぐしゃにして泣き続けた。どこか具合が悪いのではと案じたマリアンがルネと診療所に報せようとして、ルネが屋敷のどこにもいないことがわかったのだ。

 皆が血相を変えて屋敷中を探し回るうちに陽が落ち、夜が訪れた。

 使用人のうちで一番背の高いカタリナがレグルスを呼び止め、ルネに使用人のお仕着せを貸したこと、陽が落ちるまでに戻らなければレグルスにこのことを告げるよう言われたことを話している最中、カーヴィンが息せき切って走り込んできて、ルネが教会の馬で北東へ向かったと荒い息の合間に報告した。

「北東? 何でまた……」

「ジェスティンがクリスを連れて逃げたのを追ってるんだ!」

 最後まで聞かず、レグルスはばね仕掛けのように飛び出して厩に向かい、愛馬を駆って丘を下った。




 ダリスタン領は西風にはためく三角旗の形をしている。

 西端は国境線であるユラ川沿いに南北に広く、東に行くほどに南北幅は狭まる。クスレフ、タレスなど主要な都市は西部に集中しており、東部は広大な農地で、ダリスタン領民の生活を支えていた。

 タレスは領内の各地へ向かう街道の出発地点だが、アヴェンダ国王の直轄地である南方へ向かう道に比べ、北、東へ向かう街道はやや寂れている。ジェスティンが北東に向かったというなら、人気のない方角を目指したということだろう。

 北東へ向かう街道はほとんど一本道で、田畑の間を縫うように走っていた。領境の手前には森林地帯が広がり、にわかに見通しが悪くなる。領境を越えられるのも厄介だが、森林地帯に逃げ込まれるのも同じくらい困る。急ぎすぎるあまり、レグルスは灯りのことをすっかり失念していたのだ。今は月明かりがあるからいいものの、森の中を灯りなしで進むのは危険だ。近くの村に立ち寄って、灯りを借りた方がいいだろうか。

 迷いが兆した時、道の先に小さく人影が見えた。徒歩で、こちらに向かってくる。近づくにつれ、それはすっかりやつれた様子のクリスティナだとわかり、レグルスは慌てて馬の足を止めた。

 彼女も馬上にあるのがレグルスだとわかったのだろう、その場にへなへなとくずおれた。

「クリス! 大丈夫なのか!」

 クリスティナは靴をはいておらず、どれほどの距離を歩いてきたのか、白い足は土と埃、細かな傷で覆われていた。

「大丈夫……私は、大丈夫。でも、ルネが……」

 水さえ持ってこなかった不手際を悔やむも、遅い。クリスティナは途切れ途切れにこれまでのことを語った。

「もう一月も前になるけど……ルネの往診を終えて街に戻ったら、突然声をかけられて、屋敷の関係者かって訊かれたの。私がジェフラさまのお屋敷に出入りしてることは、タレスの人ならみんな知ってるわ。だからすぐ、よそ者だってわかったのよ。違うって言ったんだけど、短剣で脅されて家に居座られて」

「どうしてすぐに言わなかったんだ」

「だって、そいつ、デュケイにそっくりだったの。ジェスティンだって名乗ったけど、名乗らなくったってすぐにわかったわ! 私の髪を切って、誰かにばらしたらもっとひどい目に遭わせるって……る、ルネみたいなことをされたらって思うと、怖くて……」

 一月前というと、レグルスがルネを連れてタレスに戻って間もない頃だ。逃がし屋たちの抜け穴が見つかるかどうかと悠長なことを言っている場合ではなかった。ジェスティンはとうに、ダリスタン領に侵入していたのだ。

 力の限りにしがみついてくるクリスティナの背を撫でて宥めながら、レグルスは歯噛みした。

「でも、ルネのことは絶対隠さなきゃって思ったから……お屋敷へは診療所から交替で往診に行ってるんだって、適当なことを言ったの。ジェスティンは日中は私の家にいてあまり出歩かなかったし、ばれなかったと思う」

「一か月もずっと、ジェスティンと暮らしてたのか……? 何もされなかったか? 本当に大丈夫なんだな?」

「好きで一緒にいたんじゃないわ!」

 クリスティナは叫び、堰を切ったように泣きだした。

「そう……そうだな、ごめん。おれが悪かった。クリスは頑張ったよ。よく秘密を守ってくれた。怖かっただろう」

「こ、怖かったけど……毎日ちゃんと帰って、食事を作って、街の様子を伝えれば何もされなかったわ。でも、だんだんジェフラさまが警戒を強めていって……いつジェスティンのことがばれるかって気が気じゃなかった。ルネにも最近変だって言われるようになったし……それで、街の警戒態勢が厳しくなってるってジェスティンに教えたの。もしかしたら出て行ってくれるかもしれないし……でも、お前がしっかりしないから不審がられたんだろうって、めちゃくちゃに殴られたわ」

 見る限り、クリスの顔や首など、外から見える部分に傷はない。服を着ていればわからないような、胸や腹を痛めつけたに違いなかった。

「痛かったし、泣き腫らしてすごい顔になって……とても今日の往診は無理だから、具合が悪いって嘘をついたの。目の腫れや体の痛みがましになるまで何とかごまかさなきゃって思ってたら、夕方頃にルネがうちに来たのよ。びっくりしたわ」

 変装のつもりなのか、使用人のお仕着せに鋼鉄の義手、右手にも剣といういでたちで現れたルネは、ジェスティンを見つけるや斬りかかった。だが、狭い室内のこと、義手も剣も思うように振るえず、しばらくもみ合う格好になり、結局はクリスティナを人質に取ったジェスティンに逃亡を許してしまったのだという。

 ジェスティンは馬を盗み、この街道を辿って逃げたが、いくらクリスティナが小柄だといっても、大人二人を乗せた馬には早く限界が来る。後を追うルネに距離を詰められ、ついには馬を捨てて森の中に逃げ込んだのだそうだ。

「ルネは真っ先に私を逃がしてくれて……今もたぶん、ジェスティンと……。私、早く知らせなくちゃって、思って……」

「この先にいるのか」

 クリスティナは森の入り口に目印を残し、ここまで徒歩で戻ってきたという。ジェスティンがどれほどの使い手なのかは知らぬが、それでもイルナシオンでは高位の騎士だったという。本調子ではないルネでは相手になるまい。

「クリス、屋敷に戻ってジュライに今の話をしてくれ。おれはジェスティンを捕える。念のため、増援をもらえると助かるって、伝えてほしい」

 レグルスはクリスティナを立たせて馬の背に押し上げようとしたが、意外にもクリスティナは抵抗した。

「私だけ逃げるわけにはいかないわ。ルネは私を助けてくれたのに……まだ回復しきってないのに馬を駆って、私を逃がすためにずいぶんな怪我をしたの。道具がなくても止血くらいできるわ。お願い、連れていって」

 ルネと折り合いが悪かったはずのクリスティナの熱意にレグルスは驚き、しばし考えた。

 レグルスは単騎、飛びだしてきてしまったが、カーヴィンの報告はジュライも聞いている。すぐに兵が組織され、北東方面の捜索がはじまるだろう。こちらには集落も少なく、森林地帯まで辿り着くまで時間はかかるまい。ジェスティンの名が出ていたから、兵もそれなりの武装をしているはず。改めてクリスティナを報せに走らせずとも、増援はそう遠からずやってくることだろう。

 レグルスは頷いて再度愛馬に跨り、クリスティナに手を差し出した。

「わかった。一緒に行こう。絶対前には出るなよ」

「有難う、レグルス」

 冷えきったクリスティナの腕を掴んで馬上に引き上げ、レグルスは駆ける。

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