第三部

(1)

 クスレフの兵から届けられた手紙を一読してすぐに、ジェフラはレグルスに手紙を放り投げ、腕組みしたままうろうろと落ち着きなく室内を行き来した。

 レグルスは短い手紙を三度読み返し、ため息をつく。

「どう思う」

 珍しく、ジェフラは動揺を隠せずにいる。

「罠か否かということですか」

「まあ、そうだ」

「罠ということはないと思いますが」

「では、おまえが迎えに行け」

 願ってもない話だった。レグルスは一礼してジェフラの執務室を辞し、取るものも取りあえず馬を駆って、クスレフに向かった。

 ――ルネ・カンディード。

 手紙の最後にあった署名は、ジェフラが待ち望んだ隣国の騎士のものだった。




 西の隣国イルナシオンで内乱が勃発し、国交が途絶えてから半年。季節は秋になっていたが、イルナシオンの混乱は収束する気配がなかった。

 アヴェンダ国の西に位置し、イルナシオンとの国境の関を有するダリスタン領主ジェフラは隣国の荒廃と、ゼクサリウス王を弑逆し、新王を名乗ったラグナシャス王弟の暴虐に頭を痛めていた。

 周辺国との和平を進める王のやり方に反発し、ラグナシャスは軍備の増強と独立不羈を訴え、誇り高き騎士の国、強きイルナシオンたれと拳を振り上げた。

 イルナシオンの騎士団と言えば古くから勇猛果敢、清廉にして倫を知るとアヴェンダでも高名で、ダリスタン領でも兵の訓練や大規模な強盗団騒ぎが起きた時などに助力を乞うている。

 かねてよりアヴェンダはイルナシオンとは比較的友好的な国交を続けており、中でもダリスタン領はその玄関口とあって、両国の文化が入り混じり、豊かに発展していた。武力をもって睨み合うよりは、互いに折れるべきところは折れて相互の利益を追求するのが外交であり、領土の発展は民のためにもなるというのが代々の領主の考えで、ジェフラもその考えに強く賛同していた。

 よって、和平路線が騎士の誇りに反するというラグナシャスの主張とは相容れず、王弟派と呼ばれる武闘派の台頭が聞こえてきた頃からジェフラは渋い顔をしていたが、王弟派が王派の重鎮たちを容赦なく処刑し、反旗を翻したとあっては、強硬な態度に改めざるを得なかった。

 それでも、ジェフラは何度も対話を試みたのだ。国外脱出を求めて国境に続々と集まる民の願いを聞き入れてほしいとか、他国を蔑ろにするようでは国として立ち行かなくなるとか、そちらがそのような態度では国交を続けるわけにはいかないとか。

 使者は手ぶらで戻ってきたか、あるいは帰らないこともあった。ジェフラは苦渋の決断として、自領の混乱を避け、民の安全を守るためにクスレフや国境近くに兵を配し、レグルスら私兵を用いて、命からがら逃げ出してきたイルナシオン難民を受け入れていた。

 現在、関を越えてイルナシオンへの移動を許されているのは、ソル・ソレラ教の使節団と厳しい審査の末に許可証を発行された商人のみである。審査に通らなかった小規模の行商人たちからは不満の声が上がったが、ジェフラが少ないながらも補助金を出したことに加え、ラグナシャスが暴虐の限りを尽くしているというイルナシオンの現状が明らかになるにつれ、誰も好んでイルナシオンへ向かおうとはしなくなった。

 ジェフラはソル・ソレラ教会に属する数人を私兵として雇っており、危険を承知でイルナシオンに留まっている密偵からの情報は彼らを通じてジェフラのもとへ届けられた。

 ルネの手紙もイルナシオンに放った密偵からクスレフの兵に渡ったものであり、それによるとルネは密偵たちが使うクスレフの隠れ家に滞在しているという。

 長大な国境のこと、抜け道は随所に存在し、関を通らずとも国を行き来する方法はいくつかある。だがルネは真珠騎士であり、顔も名前も広く知られていることだろう。隻腕を支える長大な金属製の義手も目立つ。どうやって国境を越えてきたのだろう。レグルスは昨年、一度会ったきりの女騎士を思った。

 ジェフラとの婚姻を目前にして、花嫁一行が襲撃され暗殺されるという衝撃的な事件は、イルナシオンの崩壊を如実に物語っていた。調査班として王都からやって来た真珠騎士ルネは、不手際を詫び、ジェフラの迅速な措置と怪我人の救助に篤く礼を述べた。

 彼女といい事件で重傷を負った金剛騎士デュケイといい、素晴らしい人材を多く抱えながら、無為無策のゼクサリウス王への怒りをジェフラは隠そうともしなかったが、それは領主という地位にありながらこれまで独身を貫いてきた彼が、ようやく結婚を承知したシャルロッテを失った反動であることは疑いようもなかった。

 ルネとデュケイが帰国してからも、ジェフラは密偵を通じて彼女らとの接触を続けた。内乱の気配が濃密になってからは亡命を勧めることさえしたが、丁重な感謝と断りの手紙が届いては、ジェフラにはなすすべがなかった。

 続いてデュケイから指輪を送ってくれと依頼があった時には珍しく激昂し、取り乱してレグルスに「あの二人を攫って来い」などと口走る始末だった。誰に贈るのかはともかく、真面目な堅物のデュケイが貴金属の手配を依頼するなど、死ぬ覚悟なのだとしか思えなかったのだ。

 内乱が勃発し、王を護るべくデュケイは奮闘したが、捕えられて処刑された。ゼクサリウス王と王妃もまた、朽ちるまで王宮の門前に吊られたという。

 ゼクサリウス王の二人の王女はソル・ソレラ教会へ逃げ延びたと聞くが、第一王位継承権保持者であるミリスディン王子の行方は杳として知れなかった。王についた騎士のほとんどすべてが内乱の際に命を落とし、あるいは処刑されるか獄中死したが、真珠騎士ルネの生死もまた確認されておらず、ジェフラはレグルスらを頻繁にクスレフに派遣しては動向を探っていた。

 待ちわびていたにも関わらず、当のルネからの手紙を見て激しく動揺した主の興奮はレグルスにもよくわかる。レグルス自身もルネの生存をどう受け止めてよいのか、態度を決めかねているからだ。

 ルネが生きていたこと、それは嬉しい。だが、空白の半年のうちに何があったというのだろう。生きていたなら、もっと早くに連絡が欲しかった。ジェフラがルネを案じていたのを知らぬわけではあるまいし。

 レグルスは、一度会ったきりのルネに近しいものを感じていた。主の側近くに在る武人としての連帯感だろうか。落ち着いて話す機会もなかったが、機巧(からくり)と呼ばれる金属製の義手のこと、イルナシオンの騎士制度のことなど、訊いてみたいことはたくさんあった。

 そのルネをクスレフから領主のお膝元であるタレスまで案内せよと仰せつかったはいいものの、舞い上がって急ぎすぎるあまりにくたびれた普段着のまま出てきてしまったことに、遅まきながらレグルスは気がついた。仮にも客人たる隣国の騎士を出迎える格好ではない。髪だって中途半端に伸びたままだ、と振動で跳ねる砂色の髪を無意味に押さえつけた。

 クスレフまで休まず馬を飛ばし、適当な馬宿に愛馬を預けてから、逸る気持ちを抑えて市街を歩きまわった。尾行の気配はなかったが、イルナシオンの間者がいないとも限らない。できる限りの安全対策を講じるのが、レグルスの務めだった。

 迷った末に古着屋に飛び込んでくたびれていないシャツを買い、店番の娘に頼み込んで、毛先に鋏を入れてもらった後、隠れ家へ向かった。

「待ってたわ、レグルス。……髪を切ったの?」

「ああ、少しだけね」

 ジェフラの私兵の一人、ヴァーチュアに招き入れられ、レグルスは後ろ手に扉を閉めて施錠した。まるで炎のようなヴァーチュアの赤毛はいつ見ても眩しく、もう夏の気配も遠ざかったというのに両肩がむき出しになった扇情的な格好をしているとあっては、どこに視点を定めてよいやら、レグルスはいつも困る。

「ルネはどうだ」

「眠ってる。かなり弱っていてね……ああ、命に別状はないから、安心して。ただ、すぐにでもジェフラさまの元へ遣りたいのよ。馬車は手配できそう?」

「それは、何とでもなるけど……馬じゃだめなのか」

 見ればわかるわ、とヴァーチュアは言って顎をしゃくり、ついてくるよう促した。






 レグルスがルネを伴ってジェフラの執務室に入ると、二人の到着を待ち焦がれていたらしい白銀髪の領主は満面に喜びを浮かべ、そして次の瞬間には驚愕に目を見開いた。

「ルネ」

「無沙汰をいたしました。お目通りをお許しいただいたこと、感謝いたします」

 ルネは床に片膝をついて、深々と頭を下げる。ジェフラが返す言葉を見つけられないでいるうちに、レグルスはルネの腕を引いて、強引に立たせた。

「……正直、驚いたぞ、ルネ」

 ジェフラの飾らない言葉に、ルネが微かに笑む。金を紡いだ糸のようであった髪はヴァーチュアに負けず劣らずの赤毛に変わり、左腕には遠目にも作り物であるとわかる粗悪な義手をはめていた。

 そして、何よりも、その腹。

「誰の子か、訊いても良いか」

 ルネは黙って、右手を差し出した。その指に光るのは、デュケイの依頼でジェフラが用意した指輪だ。ジェフラが、無言のまま頷く。

 かつて、細く引き締まっていた腹は隠しようもなくまるく膨らみ、詰め物でない証拠に、無意識にだろうが、ルネは時折愛おしげにその腹を撫でるのだった。腹周りに余裕のある、ゆったりとした格好はヴァーチュアが見繕ったものだが、ルネがヴァーチュアと接触した時には、晒し布で腹を締め上げ、ズボンを穿いて男装していたというから、絶句するしかなかった。

 クスレフの医者の見立てでは、腹の子に異常はないが、何せ母体の消耗が激しすぎる、精のつくものをたんと食べて養生せよとのことで、この半年の過酷な生活が窺い知れようというものだった。そのような状況でも子が流れずにいたのは、ルネの執念か、それとも。

「生きて会うことができて嬉しい。話したいことも訊きたいことも山ほどあるが、まずは休んでくれ。部屋を用意しよう。レグルス、クリスに連絡を。それから、お母上はどうしておられる? ルネの世話を頼みたいのだが」

「否やはありませんでしょう。呼べばすぐ飛んできますよ」

「では、頼む」

 ひたすらに恐縮するルネを強引に長椅子に押し込め、レグルスは丘を下って街の診療所へ走った。クリスティナは往診中で不在だったが、言伝を頼んですぐに屋敷に引き返した。その時にはもう、ルネは別室に移った後だったから、相変わらず使用人たちは仕事が早い。

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