(2)

 懐かしいカンディード家の門扉は、昔と少しも変わっていなかった。ここを訪れるのはいつぶりだろう。剣の師アーソと奥方のソアラ、二人の髪がすっかり白くなっていたことにひどく、胸が痛んだ。

「よく来てくれた、ディーク」

「さあ、かけて。すぐお茶を淹れますからね」

 かつて、銀戦車と異名を取ったイルナシオン一の金剛騎士アーソも、巌のような体格は変わらぬものの、肩や腕は在りし日よりずいぶん細くなっている。ソアラの朗らかな笑みは透けそうに淡い。

 ルネとは首都に戻るたびに会って話をしていたが、アーソとソアラに会うのはかなり久しぶりだ。デュケイは深く頭を下げた。

「無沙汰をいたしました。お変わりありませんか」

「はっはっは、そう固くなるな。ずいぶん活躍しておるそうじゃないか。わしらはご覧の通り、枯れゆくばかりだがな。いや、立派になった。見違えたぞ、ディーク」

 快活な笑み、豪快な抱擁。以前と変わらぬ親愛の情は心が震えるほどに有難いが、背に感じるアーソの手は明らかに厚みを失くしており、かの銀戦車アーソといえども老いからは逃れられぬのだと、頭を殴られたような衝撃を受けた。

 幼くして父を亡くし、祖父母の顔を知らぬデュケイは、壮年の男性が老いてゆく姿を目の当たりにしたことがない。もちろん、町中で老人は幾人も目にするが、一人の男性の変化を、衰えゆく姿を追ったことがないだけに、そして、国内に武勇を轟かせたアーソの老いであるがゆえに、物寂しく思うのかもしれなかった。

「……ときに、ディーク。ゼクスさまからお声がけがあっただろう。受けるのかね」

「もうご存知でしたか。お耳が早い」

 なに、とアーソは笑った。困ったように眉尻が下がっている。こんな好々爺めいた表情も、どうしてか胸を締めつけるような寂しさをもたらした。

「わしにもお声がけくださったのだよ。将軍職――金剛騎士団長としての再聘はできぬが、将軍たちの顧問というような立場で、騎士職に戻ってもらえんかとな」

「そうだったんですか? わたし、なにも……」

 ルネが目を丸くしていることからして、アーソは誰にも告げていなかったのだろう。もっとも、何年も前に金剛騎士位を返還して隠居したアーソに復職を願うなど、現職の将軍たちがいい顔をするまい。金剛騎士団長として、最強の名を永く掲げたアーソとて、引き際というものがある。王太子たっての願いとあれど、筋の通らぬ話であった。

「丁重にお断りしたがな。ゼクスさまはお優しすぎるきらいがある。父王の在位が長いだけに、不安に思われているのだろう。ラグナさまが少々過激でいらっしゃるから、気苦労も多かろうしな」

 第二王子ラグナシャスの名が出たことで、弟のことが頭をよぎった。活発なジェスティンはラグナシャス王子とは気が合って、知り合ってすぐから身分差を越えて親しくつきあっていた。何度母やデュケイがわきまえるよう説得したか知れぬが、ジェスティンはきかなかったし、ラグナシャス王子もジェスティンのことを友人だと思っているようだった。

 デュケイとシャルロッテのようなものだろう、と思い込むことにしたが、ラグナシャス王子もジェスティンも気性が荒く、二人を近くに置くことは王子にとって良からぬ影響があるのではと危惧したが、互いに好敵手だと思っているのか、文武両道に励み、時折のやんちゃも若気の至りと見なされ、目を覆うほど悲惨なことにはなっていないようだった。

 そのジェスティンも緑騎士から黒騎士へと昇格したらしい。デュケイが銀騎士団へ移籍してからのことで、思えば血を分けた弟とも家を出て以来ほとんど顔を合わせていない。銀騎士となってからは王都に戻るのも年に数回、わずか数日のみという生活をしていたから仕方ないと言えばそうだが、薄情なことだと苦く反省する。

 母の葬儀の際には共に飲み明かしたジェスティンが、今どこで暮らしているのかすら、デュケイは知らないのだ。実家にいるのか、それともどこかに下宿しているのか。この休暇の間に一度会わねばなるまい。

「現にゼクスさまの心の優しさを軟弱だと批判する騎士も多い。ラグナさまがうまくゼクスさまを補佐なされば、均衡のとれたよい国になるのだがな。文武どちらに傾いても、国はひずむものだ。ディーク、ルネ、思うところはあるだろうが、ゼクスさまのお役に立ちなさい。あの方が次の王、それは覆らぬのだからな」

 語り終え、アーソはソアラの運んだ茶を啜った。上品な小花柄の陶器はデュケイも見覚えがある。アーソの手にある茶器が昔に比べて大きく見えることに気づき、何となく見てはならないものを目にした気がして、慌てて紅茶を口に含んだ。

「では、父さまはディークに飾り物の騎士たれと仰るのですか。金剛騎士も名誉職と考えている者が多いというではありませんか」

「ルネ、だからおまえも真珠騎士になるのだ。実力の備わったおまえたちが励んでおれば、心ある者は必ず行いを改める。王の剣たる上級騎士、鈍ることのないよういっそう努力しなさい。ゼクスさまが即位されれば、新風が吹くかもしれん。機を逃さず、イルナシオンの騎士として王のお側にありなさい」

 国を憂うアーソの気持ちは、デュケイにもわかる。だが国を憂うのはもっと国の中央に住まう人々で、デュケイ自身が何らかの関わりを持つとは少しも実感がわかなかった。

 平和を唱え、武力闘争を嫌うゼクサリウス王子を頼りなく思うと同時に、イルナシオンという国が新たな方向に舵を切る契機になるかもしれないというのは納得がいく。また、デュケイ自身が金剛騎士となることで綱紀を正していくこともできるかもしれなかった。金剛騎士といえば、アーソがそうであったように、国中でもっとも武に優れた者に授けられる騎士位だ。デュケイが勤勉であれば、続く世代にイルナシオン騎士の誇りのほんのひとかけらでも伝えていくことができるかもしれない。アーソに憧れたかつての少年たちがそうであるように、真の騎士たらんとする者を育めるかもしれない。

「わかりました」

 デュケイとルネは揃って頭を下げた。

 この国はもうだめだと訳知り顔で嘆いている暇があるのなら、渦中に飛びこんで騎士の務めを果たすべし、そう説かれている気がした。

 そう、この国は沈んだわけではない。国の根幹をなす騎士制度が揺らぎ、極めて困難な局面に立たされてはいるが、諸外国との摩擦もかつてに比べればずっと和らいでいる。近隣諸国が武力ではなく外交によって国家間の問題を解決しようと徐々に方向を転換している今、ゼクサリウス王子の穏やかさはイルナシオンを新たな地平へと導くかもしれない。となれば、武力を担う存在として国家と共にあった騎士もまた、生き方を変えねばならぬだろう。

「それで、ディーク。休暇はいつまでだい? 金剛騎士になるつもりなら当然、天剣舞会は観戦していくんだろう。団長のバレンはちょっと面白い剣を使うぞ」

「一緒に見に行きませんか? 敵情視察のつもりで」

「敵情って……ルネ」

「だって来年はディークも天剣舞会に出るんでしょう。今のうちから相手の癖を知っておくのも、手だと思いますけど」

 しれっとしているルネを咎めるでもなく、アーソもにやにや笑っている。デュケイは焦った。

「あのですね、天剣舞会っていうのは金剛騎士たちが団長を選出するための剣技会ですよ。出場するのは金剛騎士だけで……つまり、凄腕の騎士たちばかりってことじゃないですか。仮に俺が来年、金剛騎士になって出場したとして、勝ち目があると思ってるんですか?」

「勝ち目とかそういうことじゃないんですよ、ディーク。ああ、屋台も楽しみですね。来年はもっと楽しめそうですけど」

 ルネはどこまでも白々しい。アーソもソアラも、人の悪い表情からして同じように思っているらしかった。

 こうなれば、何を言っても無駄だ。大げさに肩をすくめ、せいぜい精進しますよ、と投げやりに嘆息した。

 笑いがはじけ、蝋燭の灯りが踊る。長旅の疲れも忘れ、デュケイは夜更けまでお茶とお喋りを楽しんだ。

 この時間がいつまでも続くといい。心の奥にたたずむ冷めた視線には気づかぬふりをしながら。




 翌朝、カンディード家の客間の寝台で目を覚ましたデュケイは、誘われるような気配を感じて窓を開けた。

 かつて剣術の稽古をつけてもらった裏庭の一角で、義手をはめたルネが一心不乱に剣を振っている。飛び散る汗が朝陽にきらめくさまをしばらく眺めていた。

 白騎士として飾りたてられるばかりの、退屈な日々。彼女が語ったもどかしさが動きから切れや鋭さを奪っている。あの日――ゼクサリウス王子を庇って片腕を失いつつも、的確に暗殺者の心の臓を貫いたかつての凄みや気迫は、確かに薄らいでいた。

 鈍った、と思う。だからこそルネはその鬱屈を、もどかしさを断ち切ろうとしている。ゼクサリウス新王の世に相応しき騎士たらんと、生まれ変わろうとしている。

 だが、まだまだ温い。

 デュケイは階下に降り、お早いですねと驚く侍女に水をもらって顔を洗い、髭をあたった。そのまま裏口から庭に出ると、ルネが驚いたように動きを止めた。

「おはようございます、ディーク。……もしかして、起こしてしまいましたか」

「ルネ」

 刃を潰した訓練用の剣をとる。それだけでルネは察したようだった。滴る汗を拭い、構える。

 デュケイは二、三度剣を振って感覚を確かめ、無雑作に打ち込んだ。同じく訓練用の剣で受け流したルネが勢いを殺しきれずよろめき、はっとしたように息を飲むのがわかった。

「ルネ。気を抜くな。以前のきみは、こんなではなかった。どこにいても、どんな肩書きであっても、どんな環境でも、騎士たらんとしていた」

 今はどうだ、とは言わない。言わずとも、澄み渡る高空の眼に炎が灯り、見る間に闘志が全身にみなぎった。

 ふっ、と短い呼気とともにルネが動く。動きを妨げていた薄い膜が一枚はがれたかのような、それまでとは明らかに違うしなやかさで、義手の剣が一直線に伸びてきた。右肩を引いてかわし、ほんの一瞬待ってから引き戻す。踏み込んできたルネの右の剣に絡めるようにして軸をずらし、戸惑うように揺れた青の視線を遮って小さな動きで右へ左へと小刻みに剣撃を繰り出した。

 威嚇するような義手の長い突きから、右手の剣へとつなぐ動きは、ルネが最も得意とする――つまり、多用する手である。そうと知ってしまえば。いなすことなど造作もない。それをきちんと理解していたはずなのに、何の工夫もなく同じように仕掛けてきたことが、彼女の停滞を見事に表していた。

 手加減も、容赦もするつもりはなかった。すっかり鈍り、曇ってしまったルネに苛立ちすら覚え、デュケイは間断なく剣を振るう。振り下ろし、切り上げ、全体重を乗せて突く。ルネの義手に溶接された刃は真剣で、それに比べれば刃を潰した訓練用の剣は速度が落ちるが、それでも今のルネなど相手にはならなかった。半ば嗜虐的な気分で、ルネを追い詰める。

 しかしルネは、やはりルネだった。黙って押されているのをよしとせず、苦境に陥るごとに動きは鋭さを、滑らかさを、しなやかさを増し、力強く、より速さを得て活き活きとデュケイに食らいついてくる。

 そう来なくては。

 金属が噛みあい、熱い呼気が白く凝る。渇望に灼けつく眼差しが剣よりも強く鋭く閃き、劣情にも似た羨望が四肢を運ぶ。

 はじめは余裕を持って捌いていたデュケイだが、ルネを覆っていた錆がはがれて本来のはげしさを取り戻してゆくにつれ、落ち着いてはいられなくなった。一瞬の気の緩みが勝敗を分けるだろう。背筋をびりびりと刺激してやまない緊張感は、戦場のそれに引けをとらない。

 まだまだ荒削りなルネの動きには隙も多い。けれどもその隙を、気迫が補っている。このままこれまでのように訓練を続け、力に飢えた獣のような感性と天性の勘を磨いていれば、すぐにデュケイを越えてしまうに違いなかった。

 それほどまでに、ルネが剣にかける情熱は真っ直ぐで強い。妄執といってもよいかもしれない。強さゆえに脆く、一度は錆びついた憧憬を、よりしなやかなものに鍛えることができたなら、彼女はきっと至高の騎士になる。未熟さは補える。いつだって。

 踏み込んで振り抜いたデュケイの剣を、ルネが右の剣で受けた。すっかりほぐれた彼女の身体は小揺るぎもしなかったが、剣だけがすっぽ抜け、からからと空疎な音をたてて庭に転がった。

 毒気を抜かれたような表情でルネは右手を見つめる。肉刺まめが潰れ、皮がむけて血塗れになっていた。

 思わず、顔を顰める。見るからに痛々しい。ルネはといえば気にする素振りもなく、柄が血でまだらになった剣を拾い上げている。指先だけでつまむようにしているのは、さすがに痛みがあるからか。

 井戸から水を汲みあげ、桶に移してやると、ルネは短く感謝を述べて手を洗った。相当痛むだろうに、上気した頬はつやつやと輝き、唇は笑みを刻んでいる。

「有難うございました、ディーク。目が覚めた気分です」

「礼なんていい。早く手当てを」

「いえ、大丈夫です。こうなってしまうほど、さぼっていたってだけなんですから」

 水を浴びたのかというほどの汗で訓練着は肌に張りつき、呼吸は未だ落ち着かない。それでもルネがこの時間を実りあるものだと感じてくれたことは、彼女が本来の輝きと情熱を取り戻してくれたことは、デュケイも嬉しかった。

「片づけておくから、先に手を見てもらいなよ。見てるこっちが痛くてたまらない」

 ふふっ、とルネは弾けるように笑い、お願いしますと頭を下げて裏口から戻っていく。手の傷を目にしたのだろう侍女の悲鳴が、井戸端にまで届いた。

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