横浜 ~再会~

 シャルル・ビュランは榎本総裁より一つだけ年下の若い軍人だった。とりわけビュランのフランス語の授業は厳しく、金太郎も他の生徒の例に漏れず、何度も音を上げそうになった。しかし、それは日本人の少年たちを鍛えようという熱意の現れであり、授業以外の場では優しい男であった。

 ビュランは今、新政府の監督下にある兵学校の教授陣の責任者となっていた。

「金太郎か、元気そうでなによりだね。しかし、君は箱館で戦ってたはずだろう?」

「はい。少し話が長くなります。先生のお時間は?」

「今日の私の授業は終わったから、いくらでも話を聞こう。近くのカフェはどうだい?」

「いいですね」

 連れてこられたカフェは港がよく見える位置に建っていた。

 女中が香ばしい薫りの立ち上る珈琲を持ってくると、金太郎は一口味わってからこれまでの経緯を話し始めた。

「……仲間を裏切ったようになってしまったのは心苦しいと思っています。でも、僕は箱館が自分の戦場だと思えなくなったんです」

 長い身の上話に耳を傾けてくれたビュランは、かつての教え子に笑顔を向けた。

相変わらず金太郎のフランス語の能力が優れていたことも嬉しかったが、なによりも自分の頭で考えて道を切り開こうとしたことが誇らしかった。

「すばらしい決断をしたね、金太郎。残念ながら箱館政権は降伏したけれど、ムッシュー榎本や生き残った幹部は皆、助命された。東京に投獄されているようじゃないか。いつかまた再会できるはずだよ。その時、彼らに恥じないような人物に成長しなければね」

「はい」

 金太郎は力強く頷いた。

(そうだ。箱館まで戦い続けたことは無駄じゃない。幕臣にも意地と誇りがあるってことを、これからも俺が証明してやるんだ)

 風の噂によれば、新政府の中には箱館政権の幹部への厳罰を主張する者が多かったが、箱館戦争で参謀を務めた黒田清隆らは榎本たちを生かすべきだと反論したらしい。彼らが放免された後の処遇がどうなるかはわからないが、とにかく金太郎は信頼していた上官たちの生存に胸を撫で下ろしたのだった。

 それに、幹部が助命されたのだから、一般の士官や隊士はもっと罪が軽いだろう。戦死していなければ、どこかで佐々木一と再会することも可能ではないか。

「ところで、君自身はこれからどうするんだい? 旧幕臣の多くは静岡藩に移り住んでいるそうじゃないか。確か君は旗本の出だろう? ご両親も静岡藩へ向かったんじゃないのか?」

 大政奉還の後、存続が許された徳川家は遠江駿河の一藩主となり、まだ六歳の田安亀之助が徳川家達として新藩主の座に就いた。幕臣たちは新政府に仕えるか、農民か商人になるかという選択を迫られ、その大部分は新政府に出仕することを良しとせず主家に従って江戸を去った。

 だが、金太郎は父親が江戸に残っているのか、静岡へ移住したのか把握していない。無事でいることを知らせるべきではあるが、まず自分の生計を立てる方法を定めたかった。

「先生、僕は――」

 金太郎はぐっと拳を握り締め、毅然と顔を上げて言った。

「不遜な認識かもしれませんが、僕は人に教えるくらいのフランス語の能力も砲術の技能もあります。今更、商売に手を出すつもりはありません。僕は最後まで砲術士官でいたいんです」

「軍人か……。今、君が正体を明かして新政府の軍事機構に就職するのは難しいね。箱館から密かに脱出してきたのなら尚更だ。となると……」

 ビュランは腕を組み、しばし天を仰いで考え込んだ。金太郎はカップに残った珈琲を飲み干し、女中に二人分のおかわりを注文した。

「あの、先生。この兵学校で雇っていただくのはいけませんか?」

 新しい珈琲が運ばれてきたせいで、空気が瑞々しく変わった。

「それは私も考えたんだけど、新政府の目が厳しいと思う。……やはり、これしかない」

「これ、っていうのは?」

「静岡藩へ移住しなさい。あそこには学問所と兵学校があるからね。特に兵学校は我がフランス式を採用している。君の能力は誰から見ても確かなものだ。雇ってもらえるはずだよ。何と言っても君が仕えていた徳川家の領地だから、安心して暮らせるんじゃないのかな」

 その道は考えていなかった。だが、金太郎がずっと戦ってきたのは徳川家のためだったのだ。

 そもそも金太郎たちが戦わざるを得なかったのは、徳川家が将軍の地位から退き、一藩主に成り下がってしまったせいで、幕臣全てを徳川家の禄で養えなくなったことが原因だ。だから、田安家の幼い男子を徳川宗家の後継者とし、その名前で蝦夷地開拓の嘆願書を朝廷に提出した。榎本の箱館政権が仮政権であったのも、この徳川家達が蝦夷地にやってくるまでの一時的な統治機構だったからだ。

 結局、嘆願書は却下され、蝦夷地は徳川家の領地として認められなかった。その末路が、五稜郭の降伏である。

 多くの旧幕臣と同じく金太郎にとって、徳川宗家となった田安家の幼い亀之助に仕えることは自然な流れに思えた。

「わかりました。僕は静岡藩へ向かいます」

「うん、それがいいよ。旅費は大丈夫かい? 少しなら私の手持ちを差し上げよう」

「いえ、お気持ちだけ受け取っておきます。榎本さんからいただいた旅費があるので」

 金太郎はそっと懐に手を当てた。ありがたいことに、榎本は「戦死するかもしれない自分が持っていても仕方がない」と言って、戦線離脱する金太郎にそれなりの額の金を渡してくれていた。

「ところで、先生。新政府はどんな国を作ろうとしてるのでしょうか?」

 ずっと誰かに聞いてみたかった質問だ。箱館では目の前の敵と戦うことに精一杯で、新政府の思惑にまで考えを巡らす余裕がなかったし、誰もが薩長憎しの気持ちで冷静になれなかった。

「フランスのような自由と平等を掲げられる国になると思いますか? 新政府の要職は薩長を中心とした人材で占められていて、僕には到底公平な政治が行われるとは思えません」

 まだ少年時代を脱し切れていない教え子の真摯な眼差しに、ビュランは胸が一杯になった。

「私の国が動乱を経てきたのは君もよく知ってるね」

「はい」

「今もまだ自由平等友愛の国に至る途中なんだよ。君からしたら進歩的だと思うかもしれないけど、私の国だって不完全だ。人間も国も、すぐに理想に達するわけじゃあないからね。少しずつ変えていけばいいんだよ、君たちがね」

 眉間に皺を寄せて教壇に立つ時と違って、微笑みをたたえながら珈琲をすするビュランの言葉は温かさに満ちていた。

 金太郎は改めて異国の教師たちに感謝し、偉大さに感服した。

 随分と長く話し込んでしまったようだ。いつの間にか斜陽が窓から射し込み、金太郎の顔を照らす。

 静岡藩へ出立することになった金太郎は、準備が整うまでビュランの自宅に身を寄せることになった。そうして二週間ほどビュランに世話になった後、金太郎は紹介してもらったアメリカ商船で静岡へ向かった。明治二年夏のことだった。

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