降伏あるいは自由

木葉

箱館 ~五稜郭降伏~

 昼夜を問わず山から海からの咆哮が轟き、執拗な砲撃は永遠に続くかと思われた。

 明治二年五月十五日。箱館湾に突き出た弁天岬台場に配置された新選組隊士の佐々木一は土嚢にもたれ、手の甲で汗を拭った。

(くそっ、こんな小銃なんかまるで役に立たねぇ)

 最新の軍艦から放たれる砲撃に対して、旧式の小銃ごときが何発火を噴いたところでどうにもならない。それでも応戦せずにはいられず、再び小銃を構えると、「止めておけ」と肩を叩かれた。

「相馬さん……」

「無駄に撃つな。これからどうなるかわからねぇから、ちゃんと休んでおけよ」

 疲労のうちにも部下を気遣い声をかけた相馬主計(かずえ)は土方歳三が戦死した後、事実上、新選組の長として指揮を担っている。

 相馬は顔にかすり傷を作っていたし、他の隊士たちもどこかしら怪我をして血を滲ませている。誰もが体力と気力の限界に達していた。

 相馬は一や付近に座っていた部下たちに向かって静かに話し始めた。

「俺は今からあいつと一緒に榎本総裁と会ってくる。新政府のやつも降伏しろとうるさいからな」

 そう言って相馬は台場の出入口付近で佇んでいる同年齢ほどの若い男に視線を向けた。

 相馬があいつと呼んだ男は永山友右衛門という脱藩薩摩藩士で、今は軍監として幕府軍掃討の任についている。

 永山は一昨日から足繁く台場や五稜郭に通い、速やかな降伏を説得しているのだ。

「……降伏するんですか?」

 隊士の一人が皆の疑問と不安を口にした。

「いや、わからねぇ。総裁は戦闘続行の意思だ。だが、台場はもう機能しちゃいねぇからなぁ。ここ数日、おまえら木の根っこしか食ってねぇだろ? なのに敵さんはどんどん武器や食糧が本土から運ばれてくる」

 そういえば、今朝は水を一杯口にしただけだったなと一は思い出した。すると急に空腹であることを感じて項垂れた。

「じゃあ、俺が戻るまでおとなしくしてろよ。何かあれば永井殿の指示に従うように」

 はい、という返答を聞くと相馬は立ち上がって出入口に向かった。永山と相馬は話しながら馬の準備をし、数名の護衛をつけてそのまま出ていった。

(あの軍監じゃなきゃ、とっくに俺らの誰かが斬り捨ててるよな)

 敵ながら永山は感じがよく、誠意を持って降伏勧告にやってきていることが伝わってくる。

 以前、永山は敵陣である箱館にそうとは知らず軍艦で寄港し、捕縛されたことがあった。けれども、箱館政権の幹部はしばらく彼を投獄した後に釈放した。恩を感じて、謗られる余地のない態度をとっているのだろうと一は思った。

 相馬がいなくなると、隊士たちは不安に駆られながらもその帰りを待った。

 時々、残った銃で攻撃するが暖簾に腕押しであることは明らかだ。

 新政府軍は切り立った箱館山の裏側から登り、あっという間に箱館市街を制圧し、市街から少し離れた五稜郭にも迫っている。台場は五稜郭の援軍を望めず、孤立している。

 そして台場は数日前に新政府軍の軍艦を撃沈させた味方軍艦蟠竜(ばんりゅう)の乗組員を収容し、飽和状態になっていた。これ以上籠城するにも、二百人ほどのための弾薬も食糧も尽きかけている。

 一は本来ここにいるはずだった盟友を思い浮かべた。同年生まれのその少年は、フランス語が流暢に話せる幕府の伝習隊士官で、ついこの前まで共に戦っていた。

 だが盟友田島金太郎は箱館政権の幹部たちの最後の酒宴で会ったきり、忽然と姿を消してしまった。

(どこに行っちまったんだよ、金ちゃん)

 一は知らず知らずに盛大な溜息を吐いた。

 最近では誰かを失うことばかりだ。戦だから仲間が死んでいくということも当たり前のように経験した。でも、それだけでなく、共に戦ってきたフランス人たちが榎本総裁の指示で戦線を離脱し、そして、小川椿という金太郎の恋人は胸の病を悪化させて息を引き取った。まさに幹部たちの最後の酒宴が行われたその日、その場所で。

 金太郎の消息不明の理由は見当がつかなかった。幕府の正義と武士の誇りのために戦うことを約束した第一の仲間は、総攻撃直前になって愛する少女を突然失った。だから彼が消えた背景を考えると、それが原因なのかなと思う。

(ああ、くそっ。だけどよ、自分の女が死んじまったからって姿をくらますなんて、金ちゃんらしくねぇ!)

 仮にも武士たる者が女のために戦いを放棄するとは情けない。それが許されるなら、一だって芸妓の花森景に会いたかった。挑発的な微笑みが恋しくて、豊満な体を抱き締めたかった。

 けれども、もう彼女に会うことはかなわないと一はわかっていた。幕府軍が勝者として大手を振って箱館の町を歩くことはもはや夢のまた夢だ。

 徹底抗戦の末に全滅するか、降伏して新政府軍にとらわれるかの二者択一しかない。

 景の微笑みを思い浮かべつつ呆けていた一は、周囲が騒がしくなったことに気づいて視線を上げた。

「皆、聞いてくれ!」

 いつの間にか相馬が台場に戻っていた。相馬は馬から降り、安全な場所に一同を集めて永山と榎本の話し合いの結果を告げた。

「総裁は頑として降伏を拒否された。かくなる上は徹底的に幕府軍の意地を見せると」

「では、我々も……?」

 相馬は軽く溜息をつき、少し苦しげに告げた。

「今はまだ総裁のご判断に従う」

 そして、相馬は出入口の方に何か合図をした。外から荷車が樽をいくつも乗せて運び込まれてくる。

 樽の表面に描かれている丸に十文字の紋を見た一は目を疑った。

(薩摩のだ)

 樽が荷台から下ろされ、蓋が割られた。荷車を引いてきた男たちが柄杓で液体を掬って椀に注ぐ。

「官軍からの酒だ。あいつらは俺たちの戦いを認めてる」

 相馬は自分でもぐいと椀を傾けたが、一人ひとりに回ってきた酒を見て、一は納得がいかなかった。敵からの差し入れを口にするなんてまっぴらゴメンだと。

 そう考える隊士は少なからずいて、毒が入っているのではと疑う者もいた。

「なんだおまえら飲まんのか? 別に毒なんて入っちゃいねぇよ。今更俺たちに毒を盛ってどうする」

「でも……」

「これはな、俺が永山に少しでも俺たちに誠意を見せたいんなら、上等な酒でも寄越せって言ったんだよ。ま、戦利品ってことだな!」

 相馬は不満そうな若い隊士たちを見回して楽しげに笑った。

 美味いぞと差し出された椀を別の手で受け取って、一は一気に飲み干した。もうヤケだ。

 いつの間にか台場は酒盛りが始まり、酔って気が大きくなった隊士たちが次々に「決戦だ!」と叫んでいる。

 まだ戦える。一から見て、相馬は榎本の戦闘続行の決断に納得していないようだが、一は戦えと言われればいくらでも反撃する気でいた。

 酒のせいで全身が燃えるように熱くなり、一は小銃を抱えて青い空を見上げた。

(お景ちゃん……。ごめんな、俺は新選組隊士として生きたいんだ)

 今にして思えば金太郎が椿になかなか将来の約束をしようとしなかったのは、正しかったのだと思う。深い情があればこそ、戦に身を置く不安定な男に恋人の未来を縛り付けておくことができなかったのだ。

 結局、金太郎は命の消えかかった椿に将来の約束をし、そして椿はこの世を去ってしまった。

 仲間たちの威勢のよい声があちこちで上がっている。

 だが、この時、台場の出入口に乗り込んできた者がいた。官軍の永山だ。

 永山は馬から降りると台場の隊士たちに丁寧に一礼をして、箱館奉行の永井のもとへ歩み寄った。

「永井殿、私がこうして何度も足を運ぶのはあなた方を無碍に扱いたくないからです。お察しください。……どうか朝廷軍に謝罪してはいただけないでしょうか。我々は榎本総裁や他の方々の能力を認めております。敗北の道はすなわち死のみです。私は敵ながら私を助命してくださった幕府軍をみすみす死なせたくないのです」

 敵の軍監はまた深々と頭を下げた。遠巻きに様子を窺っていた一は、これじゃあどちらが下手かわからねぇなと思った。

 永井は幹部で唯一高齢といっていい幕臣で、もはや皆の父親のような心の拠り所であった。

「まだ戦える! 降伏はしないぞ!」

「そうだ!」

「今こそ決戦を!」

 意気の上がった隊士たちの叫び声を聞いて、永井はうんうんと頷く。そして皆をゆっくりと見回した。最後に隣に立つ相馬を見て微笑む。

「しかし、官軍の信義を退けることもできまい。こうした若い者たちが無駄に死ぬのは無益じゃねぇか」

 朗々とした声はいつの間にか静まった台場に響き、誰もがしばらく頭を垂れて何も答えなかった。

(台場は降伏するんだ……)

 一は後方から誰かの嗚咽を聞いた。

 永井は自ら率先して武装解除し、永山に恭順の態度を示した。

「相馬くん」

「はい」

 永井に促された相馬は静かに答え、許しを乞うように老臣に頭を下げた。

「不都合がなければ、俺は新選組の最後の局長に就任しようと思います」

 さきほどから俯いていた一は微かに聞こえた上官の声に顔を上げた。

(最後の局長……相馬さんが……)

 これで本当に終わりなんだ。少し前まで決戦だと叫んでいたことが嘘のように思える。

 脱力感で一杯になっていたが、相馬が局長という責任ある地位を負おうとしたことに、一は新選組隊士として嬉しかった。

「新選組はあんたたちのものだろ。おまえさんが局長になるなら皆も安心じゃねぇか」

 別に自分に断りを入れる必要はないというように、永井は微笑んだ。

 そして相馬は銃を捨てた。次に、躊躇いがちに腰の大小を抜いてゆっくりと地面に置く。

 こうして、武士としての誇りを持ち続けるために、武士の魂である刀をその身から引き離さねばならない苦痛を、台場は箱館政権の中で最初に味わうことになった。

 一は相馬に倣って小銃を手放した。自分が降伏という事実を受け入れたのかどうか、よくわからない。

 けれども、一の両目は素直に悲しみの露を落としていた。

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