第5話 私たちの手の中に

「待てって!」

 薄暗い中、彼女の寝間着は幻のように遠ざかった。いつもの彼ならば追い付くのも容易いはずなのに、なかなか距離が縮まらない。何度も瞬きをしなければ、すぐに目もかすむ。

「どこに行くんだ!」

 廊下の曲がり角の向こうへと、彼女の後姿が吸い込まれる。彼はさらに速度を上げようとしたが、足がもつれて転倒しかけた。

 それでも窓枠に手をついて転ぶことだけは避け、彼は焼け付くような喉を押さえて顔を上げる。吐き気もする。しかし諦めるつもりはない。血の味のする唇を舐めて、彼はもう一度駆け出した。彼女が曲がった角を目指して機械的に足を動かす。

 けれども辿り着いたその先に、彼女の姿はなかった。思わず立ち止まった彼は、苛立ちを露わに舌打ちする。

「くそっ」

 さすがにこれだけの短時間で、この廊下を走り抜けてさらに先の曲がり角まで進んだとは思えない。おそらくどこかの部屋に入り込んだのだろう。だが、それがどこなのか全くわからなかった。奥の棟にある扉はどれも同じような作りをしていて区別ができない。都合よく一つの戸だけが開いているようなこともなかった。

「また隠し通路でもあるのか?」

 西の棟へと繋がる通路があったように、地下へ進む階段があったように、代わり映えのない扉の一つに何かが隠されていてもおかしくはない。まるで迷路だ。追っ手から逃げるためにあえてこのように作ったとしか思えない。この棟の構造を把握するのは、部外者にとっては容易なことではなかった。

 しかも今は時間がない。だが当たりをつけることもできないから、一つ一つ確認するくらいしか方法がなかった。

「こんなことなら、前もって全部調べておけばよかった」

 ぼやく声まで弱々しく響く。彼は微苦笑を浮かべつつ、すぐ傍にある扉の取っ手を握った。汗で額に張り付いた髪が急に鬱陶しく感じられる。思うように動かない体も恨めしい。けれども止まることはできない。薄暗い部屋の中をのぞき込み、彼は顔をしかめた。

「ただの部屋だな」

 不用心にも鍵はかかっていなかったが、そもそも誰かが住んでいる気配もなかった。ゼイツの部屋と大差ない殺風景な場所だ。やや窓が大きい点だけが違うところか。しかし、この部屋のどこかに隠し扉がある可能性も否定できなかった。仕方なくゼイツは中へ入り込むと、壁や床をざっと点検し始める。

「こうしている間にも――」

 ウルナは一体、今どこにいるのか? フェマーはどこまで戻ったのか? 焦りのため鼓動が速まる。取り返しのつかない事態になるのではないかと、暴力じみた恐怖感が警告を発している。

 それに押し流されそうになるのをゼイツは堪えた。やれることをやるしかないのはわかっている。冷静さを失えば、見落としを生む結果となるだけだ。

「この部屋じゃなさそうだな」

 急いで部屋を飛び出し、廊下を走り、彼は次の扉を目指した。そして全く同じように見える戸を乱暴に開く。やはりそこも先ほどと同様の作りの部屋だった。簡素な家具だけが置かれた無人の空間には、闇だけが詰まっている。

 隠し通路がないかどうか確認をし、ないと判断すると彼は踵を返した。慌てるとなお足が絡み合い、躓きそうになる。ひどく馬鹿げたことをしている気分になり、笑い出したくなった。端から見ると滑稽に映ることだろう。

 そういった単調な作業を何回繰り返しただろうか。無駄なことをしているのではと諦めたくなった時、勢いよく開いた扉の先に階段が見えた。部屋そのものは変哲のない作りだが、その真ん中に黒々とした穴が開いている。そこから地下へと続く階段が真っ直ぐ伸びていた。

「あった!」

 歓喜の声を上げて、彼は呼吸を整える。そして転げ落ちないようにと気をつけながら、階段を下り始めた。ひやりとした空気が頬を撫でる。湿度を感じる。

 これはどこに繋がっているのだろうか? まさかまた地下の巨大広間なのだろうかと、彼は顔を曇らせた。あそこに出てしまうと、その先をウルナがどこへ進んだのかわからなくなってしまう。

 嫌な予感は、的中した。階段の先に続く細い道を歩いて行くと、見覚えのある広間へと出た。おそらく巨大な穴へ行き来していた時に使っていたものと同じだろう。

 彼はげんなりしながら、これからどうするべきか思案した。彼女ならどこへ行くだろう? 他国から攻撃されると知って、彼女はどうするだろうか? どこへ向かうだろうか?

 しばらくそこで悩んでいた彼は、結局は馴染んだ―つまり巨大な穴へと続く―道を選ぶことにした。一度迷ってしまうと戻れなくなるかもしれないという不安もあったし、何か大がかりなことを企むのならばあの穴だろうという確信もあった。重たい足取りで、彼は狭い通路を一歩一歩進んでいく。

 何度も通った道だが、こんな気持ちで歩いたことは今までもなかった。彼はそのまま地上へ出ると、巨大な穴の底へと向かう階段を下り始める。月明かりだけが頼りとなるような時間では、周囲の景色は全く違って見えた。ひたすら闇が濃い。何が潜んでいてもおかしくない不気味な静寂が辺りを満たしている。

 息を潜めつつ歩き、彼は先日実験が行われた横穴を目指した。単なる勘だった。蹴られた石が転がる音を聞きながら、彼は真っ暗な穴の中へと足を踏み入れる。青々とした月明かりもここまでは差し込まない。塗りつぶされたような闇が満ちている。

 いや、しかしどこからか、わずかに明かりがこぼれているような気がした。彼は瞳をすがめて後方を振り返り、それからもう一度前方へと視線を向ける。

 よく見ると、横穴の奥の方がわずかに白んでいた。ただ土と石が顔をのぞかせているだけの場所だ。そのはずだ。まさか何かあるのだろうかと、彼はゆっくり前へ進む。

 動悸がする。限界を何度も超えさせられた体が休息を求めている。それでも気持ちだけで彼は動いていた。湿った土の匂い、纏わり付くような空気の他は、何も感じない。血の臭いもしなかった。踏みしめた地面の感触も、先日と変わりない。

「なん、だ……?」

 さらに奥へ進むと、妙な物が見えた。それは岩のように見える土の壁の中に埋もれていた。何か巨大な建造物の先端のようだ。ゼイツの背丈くらいの長さだけ、外に飛び出しているように思える。

「遺産……?」

 白んで見えた正体はそれだった。もっと近づくと、光沢のある壁面が彼の目でも捉えられるようになる。今磨かれたばかりであるかのような真新しさだ。彼の知る重々しい古代兵器とは別の趣だった。一体、何の金属を使っているのだろう? つい触れてみたくなる。

 しかし彼が手を伸ばすことはなかった。そうしようとした次の瞬間、後方から足音が聞こえてきた。ウルナだろうか? いや、別の人間だったらまずい。慌てた彼は辺りを見回し、近くの窪みへと張り付くように身を潜めた。

 この暗さだから、目を凝らさなければ気づかれないだろう。だが目立っては困ると、彼は羽織っていた灰色の上着を頭から被る。金髪はどうしても目につきやすかった。

「ウルナ、本気なの?」

 かすかに聞こえたのは、焦りを押し隠したカーパルの声だった。つい呻きを漏らしそうになったゼイツは、どうにか固唾を呑むだけで堪える。気づかれないようにと念じつつ、彼は体に力を入れた。

 早鐘のように打つ鼓動が痛い。冷たい汗が背中を伝って落ちていく。

「ええ、私は本気です」

 答えたウルナの声はずいぶんと硬かった。結果的に、どうも彼の方が先回りした形になってしまったようだ。おそらくウルナはカーパルに会いに行ったのだろう。それからこちらへやってきたに違いない。ウルナがカーパルと会っている間に、彼は先に横穴へと辿り着いたのだ。

 ウルナは彼の話をカーパルに伝えたのだろうか? 状況を把握しようと、彼は耳を澄ませる。

「姫様やクロミオのためですもの。あれを出します。いいですよね? 叔母様」

「死ぬかもしれないわよ」

「かまいません。一度死んだような身ですから」

 ウルナとカーパルの会話は、かなり物騒なものだった。あれとはまさかこの白い遺産のことだろうか? さらに身を縮めて、ゼイツは窪みに潜り込もうとした。

 彼が横穴を掘っていた時はこんな白い物体など見えなかった。どこから現れたのだろう? 土が崩れてきて顔を出したにしても異様だ。それならもっと錆び付いていたり汚れているはずだ。

「今なら力を使えると思うんです」

 彼の前を、ウルナが通り過ぎた。彼女の左の瞳は薄緑色に輝き始めていた。黒い布はもうはずしたのだろう。本能的な畏怖を引き出すその輝きが、徐々に白い何かへ近づいていく。幸いにも、ウルナは彼の存在には気がつかなかったようだった。

「ウルナ、動かせそう?」

「わかりません」

「やってみなさい」

「はい、試してみます」

 ウルナの後をカーパルがついていく。カーパルも彼がいることには気づかなかった。カーパルの視線は真っ直ぐウルナ、そして白い物体へと向けられている。

 ウルナが静かに手を前方へと伸ばす様を、彼はじっと見守った。ウルナのか細い手のひらが天井へ向けられる。

「お願い、反応して」

 祈るようなウルナの声が、空気を震わせた。しかし何も起こらない。カーパルのため息が彼の鼓膜を揺らしただけで、期待した変化は生じなかった。ウルナはさらに前方へ進むと、白い物体に直接触れる。その表面を華奢な指先がそっと撫でた。

「お願い、お願いよ。あの子の心は届いても、私の言葉は届かないというの? ねえ、お願い」

 ウルナの声がかすかに震える。彼女は一体、誰に頼んでいるのだろう? まさかその白い何かに対してなのだろうか? それとも別の何か―女神に対してなのか?

 今すぐ動くべきか否か、彼は悩んだ。フェマーが国境沿いに辿り着く時間を考えたら、さほど猶予はない。けれども今すぐ飛びだしていいものか、判断がつかなかった。

「どうか、ウィスタリア様」

「早くしなさい、ウルナ」

 急かすカーパルの声には焦燥感が滲み出ている。ゼイツの位置からでは表情はよく見えないが、きっとひどい形相だろう。ウルナも振り返ることはなかったため、どんな顔をしているかわからなかった。それでも悲嘆が入り混じった声音が胸に痛い。彼は右の拳を握り、唇を引き結んだ。

「どうか動いて」

「――ウルナ」

 責め立てるようなカーパルの声に、徐々に彼は苛立ちを隠しきれなくなってきた。黙って聞いていると息苦しくなる。「死ぬかもしれない」と言った同じ口で「早く」と急かすその心境が、彼には全く理解できなかった。何をどうやって動かそうとしているのかは知らないが、無茶をやろうとしているのは想像できる。

「お願いです、ウィスタリア様」

 切羽詰まったウルナの声を聞き、彼は我慢しきれず立ち上がろうとした。その瞬間、足が小石を蹴り上げた。勢いよく転がったそれが、ウルナたちの方へと飛んでいく。と同時にカーパルが彼の方を振り返った。

「誰!?」 

 気づかれた。息を呑んだ彼は、こうなったら覚悟を決めるしかないと地を蹴り上げた。被っていた上着が背中へと落ちる感触がする。カーパルの悲鳴じみた叫びが横穴の中に響き渡った。

「あなたは――!」

 カーパルの声に導かれるよう、ウルナも振り返った。薄緑の光が強くなったおかげで、彼にもはっきり周囲が見渡せるようになる。

 驚愕するカーパル、右目を見開いたウルナに向かって、彼は走り寄った。体が重い。手足が引きちぎれるのではないかという錯覚に陥る。喉の奥が焦げ付いたように、ひりひりとした痛みを覚えた。

「ゼイツ!?」

「またあなたは邪魔をする気なの!?」

 ウルナとカーパルの声が重なる。激高しているカーパルはわかりやすいが、ウルナが何を考えているのか定かではなかった。

 だが彼女の意思がどうであれ、彼は彼女を死なせるつもりはなかった。そんなことになったら、何のためにニーミナへ戻ってきたのかわからない。

「ウルナ! 止めろ!」

 呼びかけた声がかすれる。力をどれだけ振り絞っても、体中のどこもまともな働きをしてくれそうにない。何かが足りないと訴えている。彼が歯を食いしばった瞬間、カーパルの手が動いたのが見えた。上着の内側へと伸びた右手に、彼は咄嗟に嫌な予感を覚える。

「止まりなさいっ」

 彼は右へと飛んだ。激痛が、左足に走った。自分が転んだことに気がついたのは、固い地面が目の前に広がった時だった。

 足が熱い。燃えるように痛む。地面に思い切り全身を打ち付けたらしいが、その衝撃も自覚できないくらいだった。この痛みには覚えがある。拳銃で撃たれた時のものだ。

 ウルナの声なき悲鳴が空気を震わせた。それと同時に、にわかに地響きが生じた。体ごと前後に揺さぶられるような感覚に陥り、彼は吐き気を催す。体中が気怠い。

 左足はそのままでどうにか腹を抱えると、視界の端で薄緑の輝きが増したのが見えた。いや、それだけではない。小刻みに揺れる地面、岩壁の向こうで、白い物体が動き出しているのがわかる。

「まさか――」

 自分が独りごちたのか、それともカーパルが呟いたのかも、彼には判断できなかった。地が唸るような音と揺れ、そして激痛のせいで、まともに五感が働いていない。

 ただ、かすんだ視界の向こうで、信じがたい出来事が起きていることだけは理解できた。白い何かが穴の奥から這い出してきている。そうとしか表現できない。徐々にその先端部分が前へと迫り出してきているようだが、不思議と穴が崩れてくるようなことはなかった。白い物体の動きにあわせて、地面が波打っている。

「戦艦が動いたわ!」

 今度ははっきりと、カーパルの歓喜の声が聞こえた。彼は首を動かして必死に白い物体――戦艦らしい――の方を見ようとする。

 現時点でもまだ全体像がわからない。とにかく巨大な物体が、土の中に埋もれているようだった。それはウルナの左目と同じ薄緑の光にうっすら覆われている。あんな物が動いたら普通はこの穴など崩壊するだろう。だが地響きが続くだけで、そのような気配は全くない。

「動いたのよ!」

 不意に、轟音が止んだ。戦艦を包み込んでいた光が失われて、突如として動きが止まる。と同時に何かが崩れ落ちるような音がした。

「――ウルナ!」

 カーパルの叫び声のおかげで、それがウルナの倒れる音だと彼は理解した。咄嗟に立ち上がろうと体を捻り、しかし激痛に襲われて悶絶し、彼は顔を歪める。痛みとも認識できないような熱さと不快感が、全身を駆け巡っていく。

 額に脂汗が滲んでいることを自覚しながら、彼は奥歯を噛み締めた。思うようにならない体が恨めしい。ここで動けなかったら意味がない。

「どうか……」

 声にならない言葉が、唇からこぼれ落ちた。何に祈っているのか、彼自身もよくわからなかった。助けてくれるのなら誰でもよかったのかもしれない。ニーミナの人間でもジブルの人間でも、女神でも。倒れたウルナをどうにかしてくれるのなら、この事態をどうにか収めてくれるのならば、誰でも。

「ウルナ!」

 その時、祈りが通じたかのように、耳馴染んだ声が聞こえた。顔を上げようとしてまたもや失敗したゼイツは、血の滲んだ唇を舌で舐め、額に皺を寄せる。

 この声はラディアスのものだ。異変に気づいて追いかけてきてくれたに違いない。これだけ心底安堵したのは人生で初めてだと、ゼイツは肩の力を抜いた。だが意識は失うまいと、必死に耳を澄ませる。

「ラディアス? どうしてここに――」

「落ち着いてください、カーパル様。無茶です。いくらなんでも人間一人がこの戦艦を動かせるはずがないっ」

 ラディアスの走り寄ってくる足音と共に、諭す言葉がゼイツの耳へも届く。どうにか首の角度を調整して辺りを確認すると、倒れたウルナをラディアスが抱え上げたところだった。

 ウルナの顔は、ゼイツからは見えない。背を向けているカーパルのも見えない。青ざめたラディアスの表情がぼやけて見えるくらいだ。ウルナの左目の光が徐々に弱まっているため、穴の中に薄暗さが戻りつつある。

「いえ、でも動いたわ!」

「だからウルナは倒れたんです」

「そんなはずがないわ。動いたのよ、動かせるのよっ。私たちはこの力を扱える! この力は既に私たちの手の中にあるのよ!」

「それを我々から遠ざけたのが誰か、あなたならわかっているでしょう、カーパル様っ」

 声を張り上げ合うカーパルとラディアスの存在が、ゼイツには遠かった。油断すれば意識が飛んでしまいそうで、それを繋ぎ止めているだけでもどんどん力が失われていくような気がする。頭が重い。息苦しい。足が熱い。何かに縋り付きたくなるが、そのような対象も傍にはなかった。

 辺りに染み込んでいた薄緑色の光の名残も、次第に薄らいできている。視界が奪われていくと、ますます現実感が薄らいだ。こうなると耳だけが頼りだ。

「あなたはここでウルナを死なせるつもりですか!?」

 悲痛なラディアスの叫びが穴の中でこだまする。ゼイツは歯噛みすると、どうにか上体を起こそうと足掻いた。指先を動かすだけでも、鋭い痛みと闘わなければならなかった。

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