第4話 ここに自由はない

 腕がしっかりと動くようになるまで仕事はさせない。そう告げられたゼイツの日常は、極めて単調なものだった。

 目覚めて支度をしたところでウルナが持ってきた朝食をとる。それは本来『姫様』のために用意されたものだということを知ったのは、しばらく経ってからのことだった。いつも多めに作ってクロミオにも分けていたらしい。それがゼイツの分も増えたというわけだ。

 お腹が満たされたら、クロミオが勉強している間は自由な時間だ。だがそれも長くは続かない。じっとしていられなくなったクロミオが自室へ戻ってくると、ゼイツはその相手をすることになる。

 ゼイツがいなかった時はよく庭へ飛び出し――いや、それだけではなく教会の外まで足を運んでいたようだった。それは本来ここに住む者には許されざることだという。しかし「怪我しないように」と注意するだけで、ウルナは黙認していた。

 しばらくクロミオの遊びにつきあっていると、そのうちウルナが戻ってくる。そしてゼイツの記憶が戻るようにと色々な話をしてくれる。現在のゼイツにとって、最大の情報源はそれだった。彼自身の探索はうまくいっていない。

 自由な時間に教会の中を歩き回ってはいるのだが、単なる個室しか見つけられなかった。ラディアスのいる古代品発掘班とやらが普段どこにいるのかもわからない。捜索しながら廊下を歩いているうちに、いつの間にやらもとの場所へ戻ってきていた。実にわかりにくい所だ。そうでなければ完全に迷ってしまったところを、ウルナやクロミオに助けられている。

 今日も同じように時間が過ぎるはずだった。骨折り損の探索から帰ってきて、ゼイツはウルナたちの部屋でクロミオの話し相手をしていた。だが突然クロミオは何か思い出したように、「やっぱり外で遊ぶ」と言い出し、庭へ続く扉から出て行ってしまった。

 これでまた時間ができるとゼイツはほくそ笑むも、ここは止めるべきだったのかとはっと我に返る。形だけでもたしなめるべきだったか。彼が眉根を寄せて椅子から立ち上がると、逆側の扉が不意に開いた。

「お疲れさまゼイツ。今日もありがとう」

「ああ、ウルナ」

 ちょうどよかったとゼイツは安堵した。しかしウルナは一人ではなかった。その後ろにはラディアスもいた。きちんと顔を合わせるのは三度目だろうか? ろくに会話もしたことがないこの男が、ゼイツはいまだに苦手だ。

『ウルナがどうしてお前を助けたのかわかるか?』

 あの時ラディアスから投げかけられた言葉が、胸の奥に巣くっている。あれ以来、ゼイツも考え続けていた。どうしてウルナは彼を助けたのだろう。

 はじめは勘違いが趣味の馬鹿な女だと思っていたから、あまり深くは考えていなかった。だが彼女と話をしていると、知識も教養も身につけていることが次第にわかった。浮世離れしたところはあるが、それだけではあの時の行動全てを説明できない。唯一の心当たりはウィスタリア教だろうか。あの日、彼女は女神の名を口にした。だがその教えとやらを、彼はまだよく知らない。

 ラディアスを警戒しゼイツが口をつぐんでいると、ウルナは首を傾げた。そして部屋の中を見回してから、またゼイツを見つめてくる。底の知れぬ眼差しに居心地が悪くなり、彼は喉を鳴らした。だが彼が何か言うより早く、彼女は疑問を投げかけてくる。

「クロミオは?」

「あ、クロミオならちょうど外へ出て行ったところだ」

「あら、また? でもそろそろだと思っていたわ。遊び盛りの子どもに、こんな場所でじっとしていろだなんて言うのは酷だものね」

 ゆったりとした袖を揺らしながら、ウルナが近づいてきた。困ったように微笑んだ彼女の右の瞳は、遠くを見据えている。

 ゼイツはまだ彼女の左目についても尋ねたことがない。彼女もそのことについては一切触れなかった。全ての闇がそこに凝縮されているかのような黒い布が、左の瞳をいつも覆い隠している。

「ウルナはクロミオに甘い」

「だってまだあんなに小さいのよ? 私があのくらいの頃は、毎日草原を駆け回っていたわ」

 呆れた声で言い放ったラディアスへと、ウルナは唇を尖らせてみせた。そのように子どもっぽく反論する彼女をゼイツは初めて見た。まるで彼女という存在が、ようやく鮮明な輪郭を持ったかのようだった。不思議な心地で二人を眺めていると、感情とは切り離された理性が一つの疑問を投げかけてくる。

 彼女の言い様からすると、どうも幼い頃からこの教会にいたわけではないようだ。ではいつからなのか? これだけ毎日会話を交わしているというのに、肝心なことをゼイツは掴んでいないように思える。ニーミナを実質動かしていると言っても過言ではないウィスタリア教。その中心となる教会にいる意味を、理由を、把握していない。

「俺たちと比べるな。ここは教会だぞ」

「ええ、それはわかっているわ。ただ、それでもかわいそうで……」

「仕方がないだろう? ここに自由はない」

 ラディアスはそう口にしてから、ゼイツへと一瞥をくれた。様子をうかがっているようにも、また邪魔だと言っているようにも見える眼差しに、ゼイツは閉口する。ラディアスがいると、ゼイツは言葉を挟むことができない。疑いをかけられるような言動は控えなければと、胸中で警告が鳴り響く。

「ゼイツ、腕の調子はどう? まだお医者様は忙しいみたいなのよね。ごめんなさい」

「腕? 腕なら今のところは大丈夫。そんなに痛むこともないし」

「本当? それならいいんだけど」

 険悪な空気が漂い始めたためか、話題を変えようとウルナはゼイツへ話しかけてきた。ゼイツは首を横に振って破顔する。視界の端に映るラディアスの顔は、やや複雑そうに歪んでいた。

 いたたまれなさをごまかすように、ゼイツは頭の後ろを掻く。両親の喧嘩を遠巻きに見ていた幼い頃のことが、不意に脳裏をよぎった。

「でも気をつけてね。完全に治るまでは時間がかかるものよ。さらに長引いたら大変」

 ウルナは瞼を伏せた。何かを言い含んだように愁いを帯びた横顔へと、うっすら影が落ちる。彼女は時折こうした顔をする。濁った水の奥底に潜んだように決して見ることのできない、だがある種の存在を確信させるような色を、瞳に宿す。この時ばかりは、とらえどころのない彼女の気配が濃度を増した。それを見ると、ゼイツは何故だか声を掛けたくなる。

「ウルナ――」

 ゼイツが思わず手を伸ばそうとした次の瞬間、何の前触れもなく建物が揺れた。大きな振動の後、体に響くような轟音が遠くから聞こえてくる。頭も耳も痛い。空気が細かく揺れている。

 咄嗟に膝をついたゼイツは、慌てて辺りを見回した。座り込んだウルナの手を、片膝をついたラディアスが引き寄せている。家具は倒れていないが、テーブルの上にあったコップが床へと落ちて転がっていた。

「何なんだ?」

 壁に右手をついて、ゼイツは顔をしかめた。床の揺れは収まってきたが、空気の震えはいまだ続いている。音から考えると地震の類ではない。もっと局所的に大きな力が働いた、そんな印象だった。ゼイツは唇を噛んで金の前髪を掻き上げる。額にじんわりと汗が滲んだ。

「また研究所の事故か」

 ウルナの手を握りながら、ラディアスが顔を上げた。慣れているのかラディアスは落ち着いた様子だったが、その瞳は嫌悪にも似た色を呈している。ゼイツは彼の横顔を眺めながら、気になる単語を半ば無意識に繰り返した。

「研究所?」

「お前は知らなくていい」

 だが返ってきたのは拒絶の言葉で。やはり口を閉ざすしかないゼイツは、視線を窓の外へと向けた。クロミオは無事だろうか? ふと心配になる。その事故とやらに巻き込まれていなければいいのだが。

「大丈夫か? ウルナ」

「ええ、大丈夫」

 声に引き寄せられるようにゼイツが顔を向けると、ゆっくりウルナが頭をもたげるところだった。床へと落ちた大きな布を拾い、彼女は眉根を寄せる。そして床、壁、天井を順繰りと見回してから大きく息を吐いた。

「最近多いわね。叔母様、焦っているのかしら」

 かすれたような声でウルナは呟いた。ラディアスの手が離れると、スカートの端を手で払ってから彼女は立ち上がる。緩く束ねられた黒髪が、彼女の胸の前で揺れた。もう地面は震えていない。ただ空気のさざめきのようなものをかすかに感じるだけだ。

「ああ……」

 ウルナの唇がぎこちなく動く。静かに立ち上がったゼイツは、そんな彼女とラディアスを見比べた。腰を上げたラディアスは、陰りの見える双眸で彼女を見つめている。

 だが彼女はどこも見ていない。強いて言えば、壁だろうか。再び希薄になった彼女の存在が、か弱く鳴く空気と呼応した。この世界のどこでもない何かを見据えるように、彼女は右目を細める。

「また人が死んだのね。ウィスタリア様のために」

 彼女が絞り出した声は呪詛のようで、それでいて祈りのようで。ゼイツは息を呑んだ。顔を歪めたラディアスが一歩彼女へと寄り、華奢な肩を掴む。けれども彼女は気にした様子もなく、首を横に振るだけだった。泣いているようにも見える。微笑んでいるようにも見える。

「ウルナ」

「一人、また一人減っていくのよ」

「ウルナ、人前だぞ」

「ええ、そうね。ごめんなさい」

 彼女は頭を振った。たしなめるラディアスの言葉を受けて、彼女の横顔に乾いた微笑が浮かぶ。そんな風に笑うところを、ゼイツは今まで見たことがなかった。何故だか息が詰まる。しかし同時に、やはりここで何かが起こっているのだという確信も生まれ、一方では勇気づけられた。

「ごめんなさいね、ゼイツ」

「いや……」

 壊れた人形のごとくぎこちない動きで、ウルナはゼイツの方を振り向いた。言葉を濁して顔を背け、ゼイツは唇を引き結ぶ。

 彼女は何に対して謝っているのだろう? ふとそんな疑問が彼の脳裏に浮かんだ。想像している以上のものがここに潜んでいるように思えて、背筋が冷たくなる。禁忌の力とは何なのか。そこに手を出すことは何を意味するのか。根本的なことがわかっていないことを改めて自覚し、戦慄が走った。

「きっと、そろそろあなたも呼ばれるわ。人手が足りなくなるでしょうから」

 諦めたように瞼を伏せて、彼女は囁いた。今度はラディアスも何も言わなかった。ゼイツはわかったようなわからないような曖昧な返事を口にして、それから「クロミオを探してくる」とだけ言って扉へ向かう。この場を逃げ出したくてたまらなかった。得体の知れない恐怖に、腑の底から何かが湧き上がってくる。

 幸いにも、ウルナもラディアスも止めなかった。ゼイツは冷たい取っ手を握ると、風が吹きすさぶ庭へと足を踏み出した。




 研究所の事故が起こってから数日後、ウルナの予想通りにゼイツは仕事へ駆り出されることになった。

 医者にはまだかかれそうにないという話だったが、少なくとも日常生活には問題ないほど動かせるようになっていたため、異論を唱える必要もなかった。ずいぶんと早い回復だ。あの時ウルナが使った薬のおかげだろうか。


 初めての仕事の日。ゼイツを迎えにきたのは見知らぬ初老の男だった。灰色の髪を無造作に刈り込んだ、背の低い男性だ。ゼイツの父と同じくらいだろうか? 目元に刻まれた皺の深さが、積み重ねてきた年月を如実に物語っている。「ついてこい」と端的に述べた男の後をゼイツは黙って追った。

 部屋を出てから、しばらくは代わり映えのしない廊下を進んでいった。いつもゼイツが迷って、そしていつの間にか一周してしまう場所だ。だが突き当たりにさしかかる直前、男は左手にある扉を開け放った。並んでいる他のものと何ら変わらない白い戸。しかしその奥には、地下へと降りる階段が続いている。

 何も言わずにおりていく男の後をゼイツは追いかけた。地下への道がこんな場所にあったとは知らなかった。これではわからないはずだとゼイツは納得する。

 人々の大半はそこにいるのだろうか? まさか地下にも迷宮のような世界が広がっているのだろうか? 仕事の合間に詮索することができるかもしれないと、ゼイツは期待を膨らませた。

 薄暗い道には、所々に赤みがかった明かりが灯されていた。天井は地上の回廊よりはずっと低いし、道幅も狭い。それは単なる通路のようだった。無理やり繋げたのだろうか? 真っ直ぐのように見えて実は徐々に曲がっているのが、前方を見ているとわかる。床に敷き詰められた石はよく磨かれており、段差もなかった。

 男は何も言わない。黙々と歩き続けるだけだ。その沈黙にゼイツが息苦しさを覚えたところで、広い空間が目の前に現れた。部屋と呼ぶよりは間と呼んだ方が適切な、楕円形の広間だった。ぎゅうぎゅうに押し込めたら、一体何人くらい入るのだろう? だが天井が低いのはさほど変わらず、開放感はない。そこから四方八方へと、幾つも道が延びていた。

 男は迷わず右手の道の一つを進んだ。方角から考えると地上の廊下の突き当たり、そのさらに奥へと歩いていることになるか。つまり殺風景な庭の下だ。

 広間を離れると、やはり先ほどと同様に狭い道が続いていた。ただ磨き上げる時間がなかったのか、その必要を感じていないのか、床の石は所々傾き、出っ張り、ざらついている。壁も同じ石を使っているようだが、こちらは出っ張ることなく並べられていた。躓かないように、ゼイツは視線を走らせながら一定の速度で進む。どうもゆっくりと上っているようだ。地上へ出るのだろうか?

 道の終わりに待っていたのは、穴だった。突然空が見えたと思ったら、ひたすら茶色い世界が広がっていた。そして目の前には巨大な穴が存在している。小さい頃に絵本で見た昔の巨大闘技場を思わせる丸い空間が、眼下に広がっていた。とにかく深い。ジブルにあるどの建物でも、この穴になら埋まってしまいそうだった。

「ここだ」

 男が抑揚のない声で告げる。ゼイツは相槌を打つと、一歩前へ出て穴の底を眺めた。何のためにあるのかわからない大きさのそれには、どうも横穴が幾つかあるようだ。ジブルであれば、穴そのものが成り立たないのではと思う。地盤の固さが違うのだろうか?

「ここで何をするんですか?」

「穴を掘るだけだ」

「え? さらに広げるんですか?」

「そうだ」

 声を上げたゼイツに向かって、男は大仰に頷いた。この大きさでもまだ足りないというのか。押し殺しきれない動揺に瞬きを繰り返していても、男は不審には思わないようだった。誰もが似たような反応をするのか? この教会にいる者が、全ての事情に通じているわけでもないのか。

「穴の底へ降りる。ついてきなさい」

 再び男は歩き出した。その後をゼイツも追った。辺りに漂うのは湿気を含んだどこか錆び付いた臭いで、それがぬるま湯の様な風に運ばれてやってくる。この穴のせいなのか、庭の風と比べるとずいぶんと力ない。癖のある彼の金糸も、緩やかに揺れるだけだった。

「若い男は少ないのでな。君には期待している」

 言葉通りには聞こえぬ抑揚のない声で、男は告げた。ゼイツは「はあ」と気のない声を漏らし、首を捻る。

 若い男性が本当に少ないのかどうか、それすらも彼は知らなかった。廊下で人の姿を見かけることもほとんどないし、彼の部屋を訪れるのはウルナたちくらいだ。他にも人間はいるはずだが、その気配を感じることは少ない。目の前を歩く男も、ゼイツは一度も目にしたことがなかった。

 ここで一体何が行われるのか。辛抱強く待っていればいつかは探る機会が訪れるはずだと、彼は自分に言い聞かせた。足に跳ね返る土の感触を確かめながら、彼はもう一度穴の底を見つめた。

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