17.「キヌさんと八坂さん」

 さて、これからデモトレードだ、って時に、インタホーンが鳴ったんだ。

 腕時計を見たら、午後九時を過ぎていた。

 だれ、いまごろ——って思いつつ、玄関の鉄扉を開けたら、あのキヌさんが立っていたんだ。

 ——あ、キヌ……さん?

 ——こんばんわ、北川さん。夜分にごめんなさいね。モモコお嬢様は……

 ——ああ、キヌさん、来てくれたの? 明日、会社でも良かったのに


 モモコもキヌさんの声に気付いて、いつの間にか僕の後ろに立っていた。


 ——いえいえ、お嬢様が明日着て行くご洋服に、きっとお困りだろうと思いましてね

 ——入って、入ってッ!

 ——いえいえ、旦那さまの運転手お借りしてきましたから、すぐに帰らないと叱られますから、ここで……


 そう言って、キヌさんは、大きなスーツケースを二つ、モモコに引き渡して僕たちに背を向け帰って行ったんだけど、モモコはキヌさんの背中を追うように僕のクロックスをつっかけて追いかけていって、待たせている黒塗りの車の前でキヌさんとなんか長々と話し込んでた。

 今日のモモコはなんか秘密めいた行動が多くて、僕の頭上でクエッスチョンマークが三つほどプカプカ浮かんでた。


 昨日の晩は、あれから何となく二人ともやる気が削がれちゃって、早めにベッドに入って寝てしまって、そのせいか朝六時前に目が覚めちゃったんだ。

 で、僕は早めに出勤して、今日の外回りの準備をしていたら、八坂先輩がやってきて僕の横に立って……


 ——今晩、一杯どうだ? オゴるよ。かわいい後輩の歓迎会だ

 ——あっ、宜しくお願いしますっ!


 僕は、夜の「FX講習会」も気になったけど、職場の人間関係も大事だと思って、ちょっとぎこちない笑顔を作って八坂先輩の誘いに応じた。

 その後、加藤課長が出勤してきて、さっそく八坂先輩を机の前に呼びつけて、またネチネチとやりだした。

 他のみんなは見てない聞いてないフリで、自分の仕事に集中しようとしているんだけど、そこに漂う冷んやりした空気が、僕にはヒリヒリ痛かった——。


 その夜、僕は自分の机で八坂先輩が加藤課長から解放されるのを待っていた。夕方の六時からほぼ一時間、八坂先輩は課長の机の前で直立不動でずっと耐えてたんだ。やっと、解放された八坂先輩に僕は、お疲れさま、とも言えずに黙って二人して銀行の裏口を出た。

 駅ビルの裏にある居酒屋で僕と八坂先輩は中生ジョッキで乾杯した。八坂先輩は、僕の歓迎会って言ってたけど、一口飲むなり吐き出すように愚痴り始めたんだ。誰の歓迎会なんだろうって、僕は思った。


 ——北川は、京大卒らしいな。エリート幹部候補生ってとこだな

 ——いえ、そんな、僕なんて……

 ——ウチは、上が京大閥だからすぐに本店に引っ張ってもらえるよ。それに比べ、三流私大卒の俺なんか、一生どっかの支店勤めだろうな


 僕は、ビールジョッキの中の小さな空気の粒がふわふわと昇っては消えるのをじっと見ながら、何も言えずにいた。

 ——あ、三流私大卒の俺が、なんでに入れたか教えてやろうか


 僕は、迂闊に返事できなくて黙っていたら、八坂さんはどんどん一人で話し始めたんだ。


 ——ほら、リーマンショックあったろ? あの後しばらく銀行業界も大変だったみたいで新卒採用を五年ほど抑えたらいしんだな。で、あまり採用数減らし過ぎちゃったから世代ギャップ出来てしまって慌てたんだろうな、俺が就活の年にはドカンって大量に採用したんだよ……だから、俺みたいなんでも取ってもらえたってワケさ


 ——あぁ……そうなんですか


 僕は、そう返すだけで精一杯だった。


 ——けど、入ってみたら、上は国公立大卒か、早稲田、慶応ばっかりでさ、入ってくる後輩も同じでさ、結局俺たち平成二十五年組は、そんな連中に挟まれて、毎日毎日がサンドバック状態だよ……あのクソ課長がっ!


 八坂先輩は乱暴にビールジョッキをテーブルに叩きつけたもんだから、両隣の客が一斉にこっちを見た。

 八坂先輩は、相当参ってるみたいだった。僕は黙って延々と愚痴る八坂先輩の付き合いをしていたんだけど、そのうち胸の奥でじわーっと嫌なものが垂れ込めてきて、早く帰りたくなっていた。


 ——まっ、それでもな我慢してりゃ、俺みたいなのでも、ちゃんと給料とボーナスは貰えるんだ。ありがたいことさ……。だから、時々こうやって誰かに愚痴って吐き出したら、また明日も虐められるってわかってても、なんとかやっていけるんだ……すまんな、北川、今日はお前の歓迎会なのにな……


 ——いえ、そんな……いいんです


 散々僕に愚痴って喋りまくった八坂先輩は、帰り際にはちょっと元気になってて、僕は少しは八坂先輩の役に立てたのかなって、思ってた。

 だけど、美味くもない酒を飲んだせいか、もやっとした頭のなかのどこかに、もうひとりの自分が出てきて言うんだ……


 には、なるなよ、てつや——って

 

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