第二章 驚愕 二


「明、大丈夫?」

 駅のトイレから出てきた俺を待っていたのは、心配そうな顔をした響子と、やはり心配そうな響子の言葉だった。

「……ああ、大丈夫だ。そんなに心配しないでくれ」

 あの後、一旦駅のホームから離れた俺と響子だけど、ついに俺の精神が限界を迎え、トイレへと駆けこむ羽目となった。

 そして嘔吐した。

 思っていたよりも自分の心が弱かったということが判明した上に、よりにもよって響子の前で醜態をさらすことになってしまった。

 いや、別に響子の目の前で吐いたというわけじゃない。だけど、その直前まで俺と一緒にいた響子は、蒼い顔をしながら口に手を当ててトイレに駆け込む俺の後姿を見ている。そもそも、まともに立つことも出来ずに抱きついたまま震えていたというのは、醜態のほかの何ものでもない。

 だけど、そんな醜態を見せてしまったとしても、今は精一杯の虚勢を張る。女子の前では強くカッコいい存在でありたいというのは、男子という生き物に共通する意識だ。例えそれが、響子のような古い付き合いの、俺のことをまるで男として見てないような人物であったとしても、だ。

「ううん、心配するよ。だって明、その、……見たんでしょ?」

「見たと言えば見たんだけどな。まあ、別に人がつぶれる瞬間を見た訳でも、そういう死体を見た訳でもないんだから、別に大したことは無いさ」

 俺は別に、グロテスクな死体を見たから気持ちが悪くなった、という訳じゃない。少々的外れな言い方かもしれないが、そんなものはホラー映画やら何やらで見慣れている。だけど、目の前で実際に人が死んだという現実そのものに、俺は耐えることが出来なかった。まあ、響子に対してそんなことをこまごまと説明したりはしないけど。

「……そっか。ありがとう、ごめんね、色々と」

「感謝はともかくとして、響子が謝る必要なんてねーよ」

「でも……」

「これは俺が勝手にやったことだ。それに、響子にはこんな思いしてほしくは無いからな」

「よく言うよ。さっきまでは吐いてたくせに」

「そう言われてしまうと返す言葉もないな」

「別に、そのことを笑ったりするつもりはないよ。あの時ああしてくれたことは嬉しいし、感謝だってしてる。でもさ、私だって同じなんだよ。明には、嫌な思いなんてしてほしくない」

「その言葉は嬉しいけど、だからといって、どうしようもなかっただろ、あの状況は」

 人の死を止めることも、俺達二人がそれを見ないで済むというのも、どっちも不可能だった。

「まあ、確かにそうなんだけどさ。でも、明には覚えておいてほしいかな。少なくとも私に対しては、自己犠牲とかそういうことをして守られても、素直に喜べないってこと。私にとって明は、大切な、……大切な友達なんだから」

「わかった。覚えておくよ」

 確かに、自己犠牲なんてただの自己満足かもしれない。今の響子の言葉で、そのことは改めてよくわかった。それでも俺は、響子の悲しむ顔も苦しむ姿も見たくない。かけがえのない友人のそんな姿など望むはずがない。だからもうこれ以上、響子の前では絶対に弱さを見せない。

「それはともかく、だ。響子、学校に行くにはどの線を使えばいい? 復旧まで待っていたら間違いなく遅刻だ」

「明、あんたはこの状況で、遅刻することなくいつも通りに登校しようと、そう言いたいの?」

 あるいは、呆れたような声、と言った方が良かったかもしれない。どちらにせよ些細な問題ではあるが。

「そう言いたいんだよ。一応、今のところは無遅刻無欠席だからな」

「そりゃそうかもしれないけどさ。あんなことがあったばっかりなんだよ? 私はともかく、明は、今日ぐらいは遅れて行ったり学校休んだりしたって、誰も責めないと思うけど?」

「そういう訳にもいかないさ。たとえ世間が許したって、響子が許してくれたって、俺が、俺自身を許せなくなる。そういうのはズルしてるみたいだ」

「……まあ、確かにそうだとは思うんだけどさ。……うん、わかったよ。明がそうやって言うならさ。でも、無茶はしないでよね」


×××


 ……で、結局俺と響子はいつもとは違う電車に乗り、何とか学校に行くことが出来た。いつもの倍近く歩く羽目になったが、それなりに新鮮で悪い感じはしなかった。

 教室に入ったのが八時二九分。

 かなりギリギリな時間だったけど、遅刻は免れることができた。とはいえ、実は一時間の遅延証明書を駅でもらってる訳で、そう考えれば特に急ぐ必要もなかったのだけど、まあ、時間通りに登校してるんだからそれ自体は別に悪いことじゃない。

「……とはいえ、……めっちゃ、……疲れた」

「私は一応止めようとしたんだからね。別に走らなくてもいいんじゃないか、って」

 朝のホームルームの間中、机の上に突っ伏していた俺へとそう言ってきたのは、それほど疲れた様子もない響子だった。いつもの倍近くの道を歩いたと言ったが、訂正しよう。響子の発言や俺の疲労からもわかる通り、正しくは、走った、である。ちなみにこの学校の生徒でY線を使っている人は割と多いので、朝の人身事故の影響を受けた人は結構いたみたいだ。俺たちのクラスでも、まだ学校に着いてないのが何人かいる。

 いったい、何のための努力だったというのか。何で走ったりなんかしたんだろう。

 しかし、まさか響子がここまで体力があったとは。なぜ息を切らしているのが俺だけで、響子は涼しい顔をしているのか。もしかしたら俺の体力が衰えてきただけなのかもしれないが、それはないと信じたい。


×××


 そんなことがあっても日常の時間はいつも通りに流れていく。そして四時限目が終わり昼休みの時間になった。

 全く授業に集中出来ていなかったけど、一度も先生に指されることがなかったのは不幸中の幸いだ。ぼーっとしつつも、さて昼食にしようかと、鞄の中へと手を伸ばした。俺の記憶が確かなら、今日の弁当は肉類主体じゃなかったはずだ。そのことについては全力で母さんに感謝しないといけない。ちなみに、響子は購買へと昼食を買いに行っている。

「なあ、賀上。お前、今日転入生がきたこと知ってるか?」

 唐突に声をかけてきたのは同じクラスの男子、木村だった。

「いや、知らなかったけど、どこのクラスに?」

「隣だよ」

「隣ってどっちだ?」

「三組」

「そうか」

「何だよ、あんまり興味がなさそうだな」

「いや、だって、三組に転入生がきたところで、俺には関係がないことじゃないか」

「例えそいつが、とてつもない美女だったとしてもか?」

「ほう、話を聞こうじゃないか」

「俺が話すよりも本人を見た方が早い。さあ、行こうじゃないか」

 実際のところはそれほど興味はなかった。でもまあ、気分転換にはちょうどいいだろう。正直、このまま暗いことばかり考えてるのはよくない気がする。この手の話題は、息抜きにはもってこいだ。

 そんなわけで、俺と木村は三組へと向かった。

 ……美人と噂の転入生さん、申し訳ありません。うちの学校のバカどもがいろいろと迷惑をかけているとは思いますが、寛大な心で許してやってください。思春期の男子なんてそんなものなんです。かく言う私もその一人ですが。

「賀上、神妙な顔してどうしたんだ?」

「いや、何でもない。ただ、こんな微妙な時期に転入生ってのも珍しいと思ってな」

「言われてみりゃ確かにそうだ。ほら、あいつだよ」

 木村はそう言うと、三組の教室の入り口から、人だかりの出来ている席を指さした。

「明、それに木村も。そんなところで何やってるの?」

 購買で買ったと思われるパンを持った響子に話しかけられた。それに対して木村が応じる。

「お、狗井さん。狗井さんも聞いてるだろ? 三組の、例の転入生」

「いや、私は初耳なんだけど、それってどの人?」

「ほら、あの辺の」

 木村が指す方を、俺と響子がのぞき込む。

 見えた。

 クラスメイトの女子に囲まれ質問責めになっている人物。長く綺麗な黒髪、整った顔立ち、上品な微笑み、抜けるような白い肌、すらりと伸びた四肢。

「へー、あの子がそうなんだ」

 響子の呑気な声が隣から聞こえる。なるほど、木村の言っていた美人という表現はたしかに誇張じゃなかった。でも、そんなことは重要じゃない。

 俺は極力平静を装いながら質問した。

「木村、あの転入生、名前はなんて言うんだ?」

「ん? ああ、確か、ツキシロヒトミとか言ってた気がするな。ほら、あれ」

 木村が教室の後ろを指さした。席順に対応した大きな紙が貼られていて、そこには新たに『月城瞳』の名が書き加えられていた。

 月城瞳つきしろ ひとみ

 そうか、それが彼女の名前か。

 俺は、この月城という少女を知っている。外見こそ違っているけど、間違えるはずがない。この、圧倒的な気配と、絶対的な異質感。まるで、人間でないものが無理をして人間の振りをしているかの様な、そんな違和感。全く異なる外見的な特徴を有しているが、俺の直感は確かに告げていた。

 月城瞳。彼女が、白銀の髪と真紅の瞳の、あの少女だ。

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