第一章 遭遇 五


 何かに突き動かされるようにして無我夢中に走った俺は、この前の金曜日と同じ場所、廃工場の前に立っていた。

「ここ、だったよな」

 この前来た時との外見上の唯一の違いは、あの鉄製の門が堂々と開いているということだ。

「……よし」

 意を決し歩を進め、工場の中へと入る。

 なんとなくだが、音を立ててはいけないような気がしたので、息を殺しながらゆっくりと進んで行く。

 どうやら音をたてないように進んでいたのは正しかったようだ。それなりに広いこの廃工場の中ほど、ちょうどあの少女が立っていたあたりの場所に二人の男がいた。

 俺はとっさに身を隠すと、物陰からその様子をうかがうことにした。どうやら二人とも俺のことには気付いていないみたいだ。

 一人はスーツ姿に黒い鞄の、どこにでもいるようなサラリーマン風の男だ。もう一人は季節外れのベージュのトレンチコートに身を包み、サングラスと帽子でほとんど顔を見ることが出来ない。そして足元にはジュラルミンのケースが置かれている。

 二人は何かを話しているようだったが、ここからではよく聞き取れない。サラリーマン風の男はコートの男へと何かの入った封筒を手渡し、そしてコートの男から何かの入った小さなビニール袋を受けとった。

 ……違法薬物の売買、か?

 小さなビニール袋を受け取ったサラリーマン風の男は、逃げるようにして足早に工場から出て行った。どうやら俺のことには気が付かなかったようだ。そのことに安堵した直後、残っていたコートの男が俺の方を向き言葉を発した。

「そんなところで何をしている?」

 ハッタリ、というわけではなさそうだ。どうやらコートの男の方は俺のことに気付いていたらしい。

「安心してくれ。別に、君に危害を加えようなどと言うつもりはない」

 その言葉を信じるかどうかは別にして、今俺がここにいることがばれている以上、姿を隠していることは無意味だろう。

「さあ、そこから出てきたまえ。私はただ、君と話がしたいだけだ。君が今日、この場所へ来ることは予測できていたのだからね」

 どういう意味だろうか。この男は、いったい俺の何を知っているというのだろう。

「君も彼女に魅せられたのだろ? 賀上明君」

 まさかこの男は、あの少女のことを知っているのか? どうして俺があの少女を見たってことを知っているんだ? それ以前に、どうして俺の名前を知っている?

 どっちにしても、このまま隠れていたって埒が明かないか。今は、このコートの男が無害だという可能性に賭けてみよう。

 俺は物陰から出ると、彼の正面へと立った。一応、出口への最短ルートを確かめ、相手が武器を持っていなさそうなことをさりげなく確認する。そして問いかけた。

「貴方は、いったい何者なんですか? どうして俺の名前を知っているんです?」

「そういえば自己紹介がまだだったね。私の名前はおぼろだ。そう名乗っているし、そう呼ばれている」

 自らを朧と名乗ったこの男はコートのポケットから一枚の名刺を取り出すと、俺の方へと向けて指しだした。俺は警戒しながら近づくと、その名刺を受け取る。そこには『救済者 朧』という、見るからに胡散臭い肩書と名前、そして電話番号とメールアドレスが記されていた。というかこの名前、明らかに偽名だろ。

「賀上君、私はね、この世界は救われなければならないと考えている。それが私の使命なのだ」

 唐突に語りかけてきた朧と名乗る男の話は、やけに壮大なものだった。

「宗教か何かの勧誘なんですか?」

「宗教、か。似たような物だと捉えてもらって構わない。だが、私のやろうとしていることはもっと現実的なことだ。君はさっきの、あの現場を見ていたんだろ? そう構えないでくれ。さっきも言ったが、私は別に君へと危害を加えるつもりはない。君はどうやら武道を嗜んでいるようだし、体力や腕力で勝てるなんてこれっぽっちも思ってないさ」

「どうして、そこまで俺のことを知っているんです? 一体あなたは」

「君が疑問に思っていそうなことにいくつか答えるとしよう。まずはこれだ」

 そういうと朧はコートのポケットからチャック付の小さなビニール袋を取り出した。その中に入っていたものは、いくつかの、カプセルタイプの錠剤だった。

「これは私が開発した薬でね、簡単に言うなら『自殺薬』だ。約一週間飲み続けることで、一切の苦痛なしに、眠るようにして死に至ることが出来るのだよ。元々は別の用途のために開発していたんだが、その過程で出来上がった、いわば副産物のようなものだ」

 ずいぶんと、予想以上に物騒な代物だ。というか、この朧という男のやっていることは紛れもなく犯罪だ。

「もっとも、今の君には関係のないことだろうね。君がここに来たのは、この薬の噂を聞いたからというわけじゃないんだろ? 吸血鬼の噂、白銀の髪と紅の眼をした少女、謎の連続失踪事件。君も聞き覚えがあるんじゃないかね? ……君はここで彼女を見た。故に今日、再びここへときた。もう一度彼女に会う為に」

 朧の口調から確信した。この男の言う彼女とは、俺が見たあの少女のことを指している。

「あなたは、一体あの少女の何を知っているんです? 彼女の正体は一体何者なんですか? 本当に、彼女が吸血鬼だとでも言うんですか!?」

 そんな質問をした俺に対して、朧はどこか意味深な笑みを浮かべた。

「例えば彼女の正体が吸血鬼だと言ったら、君は信じるかね?」

 朧の発言はあまりにも唐突だった。唐突だけど、予想外ではなかった。

「吸血鬼、ですか。……信じますよ。貴方が非科学的とあざ笑おうともね」

 だからこそ、俺はこの時、自分でも驚くくらいに冷静な声で朧の言葉に応じていた。そんな俺の返答に朧は笑みを崩さず答える。

「非科学的などとんでもない。これは極めて現実的な話なのだよ。そもそも聖書のアダムとイヴに代表される『始まりの人類』は獣人の一族と魔人の一族だった。そこから長い年月を掛けて人類の歴史は紡がれ、その奇跡が生み出した至高の存在こそが吸血鬼なのだよ。双方の性質を兼ね備える吸血鬼こそが、生命体の完成形と言ってもいいだろう」

「……いったい、どういう意味ですか?」

 あまりにも唐突で壮大な話だった。やっぱり宗教か何かの話だろうか?

「今まで何も知らず生きてきた君に、いきなり私の話を理解しろとは言わない。しかし君は『こちら側』に足を踏み入れている。そして何かの拍子に深く踏み込むだろう。もしそうなったら私のことを遠慮な頼りたまえ。その時、改めて全てを語り、そして君の力になろう」


×××


 その後、俺は朧の言葉に従い、彼に背を向けると自宅へと帰路についた。

 テレビでは、新種の合成薬物が出回っていることや、この近所で連続失踪事件が起こっていること、自殺者の数が年々増加傾向にあることなどが報道されていた。そのニュースからは、あの朧という男の気配が常に漂っていた。

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