第8話 狼狽-1
下校時間のチャイムが響き渡る中、俺は本日一番に頭を働かせたと思う。このチャイムに乗じて帰るしかない、と。
きっとこの人たちだって帰るだろうから、自然な流れで、失礼しますという方向に持っていけるはず。というか、俺が帰りたいからそうさせてもらおう、そうしよう。
「そ、それでは下校時刻なので、俺、帰りますね!」
よっしゃああ!若干噛んだけど言いたいことは言えたので、退散させていただきましょう。
立ち上がろうとしたのだけど…抵抗を感じて動けなくなった。
「待て」
「ひっ!」
地の這うような声で不良様が俺を引き留めた。やばい、まだ何かあったのだろうか。先日のことなら触れてこなかったから、もういいのかなとか自分に都合のいいことを考えたのだけど。そう甘くはいかないとかそういうことなの!?
不良様は鼻の穴にティッシュを詰めた格好でもやはりイケメンだった。そんなイケメンに凄まれたら平凡な俺は一瞬にして動けなくなる。まさに蛇に睨まれた蛙状態だ。まあ、俺の場合…ライオンに睨まれたウサギ、みたいなもんだろうけど…
つまりは、勝てっこないのだ。勝つつもりも毛頭ないけど。
「その…お前、帰るのか」
「は、はい…家に帰りますけど」
「…」
「…」
え、ええーーー?
会話終了してしまったんですけど。
俺としてはこの状況から一刻も早く抜け出してしまいたいのに、この腕の拘束がある限りは俺の命運は彼の手中にある。
俺をしっかり見つめてくる彼の真意がつかめないけど、どこか外せない視線があって、自然と見つめ合うような形になってしまう。
「らぶらぶじゃ~ん」
「ええ?!」
満面の笑みで千夏さんが言う内容がどうあっても今の状況にそぐわないと思うのは俺だけでしょうか。
「千夏うるせぇ」
「…」
想像通りの悪態をつく崇さんはそれ以上何も言わず、なぜか頬を赤く染めていた。え、なぜなんですか。
「おい、お前」
「は、はい!」
「一緒に帰るぞ」
はい?
俺は今発された言葉の意味を理解するまでにしばらく時間がかかったのは仕方がないと思う。
だって、そんな事態になることなんて想像もしていなかったんだから。
なんということでしょう。
俺はこの不良の先輩と一緒に下校することが決定していたらしい。もうこれは絶対にアレだ。この間のことを根に持っていて、嫌がらせを仕掛けているんだ…どうあっても俺には抗えないだろう。
「いや…一緒に…帰りてぇんだが。お前はこの後、用事とか、ねえよな」
「は、はい…残念ながら」
「は?」
「あ、す、すみませ…っ」
しまった。つい本心が口をついて出てしまった。そりゃあ一緒に下校というとんでもイベントから抜け出せるなら喜んで用事でもなんでも作りたいが、そこまでアクティブでない俺にはそんな都合のいい用事など存在していない。
「ぶっ!きょーやちゃん最高~!帰りたくないのがバレバレじゃ~ん~」
「ちょ、そんなこと、ないです…っ!えーっと…ち、ちなつ先輩?」
まあ、先輩の言うとおりなんだよな。正直絶対帰りたくないしこれからもできれば会いたくない。俺は苦しいとは思いながらも、言い訳を並べる。
「あー…っと…きょーやちゃん?俺のことは日比谷で頼むわ。下の名前で呼ぶのは俺のためにもやめてくれると嬉しいな~」
正直先輩の名前は知らなかったので、とりあえず先ほどから先輩の名前であろう名で呼んでみる。だが、そういった訂正をもらったので…やっぱり先輩を下の名前で呼ぶのはNGだよな。そりゃあ失礼だもんな。
日比谷先輩っていうのか。よし、覚えた…
日比谷先輩は崇先輩の方をちらりと見やると、顔を少しひきつらせて笑った。
「あ、すみません…俺、気安く呼んじゃって…」
「あっ!俺的には全然いいんだよ~?ちーちゃん先輩でもなんでもいいんだけど…怒っちゃう短気な人がいるから~…」
「え?」
「千夏てめぇ…」
「や~ん、もっちー先輩こわ~い」
「うぜぇ…」
短気な人とは…誰なのか。先輩たちの様子だとどうやらその短気な人、とは崇先輩のことなのだろうが…そこは聞いてはいけないような気がしたので触れないでおく。
「あ、たぶん覚えてないとは思うけど、こっちのこわ~い先輩は持田崇だよ~。そんでもって~俺は~日比谷千夏で~すっ!3年生で~す」
「あ、須永、恭弥です…2年です」
かなり今更な感じが否めないが、唐突に始まった自己紹介に俺も姿勢を正して自己紹介をする。
なるほど、持田先輩か。覚えた…嫌でも…
「ははっ、知ってるよ~、知ってるから教室からここに連れてこれたんじゃん~」
「あっ」
「きょーやちゃんたら天然でカワイイ~!ね、崇もきょーやちゃんカワイイって思うでしょ?」
「…ああ」
え、ええー?
俺のアホすぎる言動にカワイイとか…てかもう高校生の男に可愛いはないだろう。かなりの羞恥プレイだ…あ!これも嫌がらせの一環なのだろうか。だとしたら怖すぎる。
「あの…持田先輩、」
「はぁ?!」
「ぅえ?!お、俺なんか間違えましたか?!」
「そ、そういうことじゃねーけど…」
「…あー!!!もう最高面白すぎきょーやちゃんやばい!!」
俺は意を決して、今日のこれからの予定…主に一緒に帰るのかどうかについて聞こうとしたのだが。先輩の名前を呼んだ瞬間、先輩はすごい剣幕で俺を睨んだ。ひー!怖すぎるよ…!ほんとに1歳しか違わないのか?!と疑問に思う。
てか俺は確かに「持田先輩」と言ったはずで、間違えてはいないはずなのだが。もはや名前を呼ぶことさえ許されないのだろうか。俺に拒否権はおろか、発言権さえないということか。
顔を赤くして怒る先輩と、オロオロする俺を見ていた日比谷先輩が本日何回目か分からないけど、爆笑していた。どこに爆笑するポイントがあったのか。
「あの、俺なんか失礼なこと…しましたか…?」
もう先輩がこわくて俺泣きそうなんだけど。いや、むしろ泣く。こわい…帰りたい…
ほぼ半泣きの顔で先輩におずおずと尋ねてみる。
「う…っ!な、泣くなっ…泣かれると俺が困る…」
「へ?」
「いや、その…」
先輩もなにか狼狽えている。きっと俺が男のくせに半泣きになっているから呆れているのだろう。俺は自分の制服の袖で零れそうな涙をごしごしと拭った。ちょっとは…落ち着いたかも。今の先輩の眼差しは柔らかいものになったし、たぶん大丈夫…か?
「その…俺のことは、崇でいいから」
「え、」
「いや、むしろ、崇って呼べよ」
あろうことか持田先輩はそんな提案をしてきた。俺にそんな度胸があるとお思いですか?!
日比谷先輩ならともかく、強面でいかにも不良な持田先輩をそんな風に呼ぶだなんて…
まあ、さっき崇先輩だなんて呼んでしまったのは不可抗力で…だって、名前知らなかったし…
「…それじゃあ先輩に失礼では…」
「俺がいいって言ってんだから、気にせず呼べ…いや、呼んでほしいんだ…須永に」
「そ、そうなんですか?」
「…ああ」
気がつけば、なんだか持田先輩の顔は真っ赤に染まっていて…けれど、それはきっと怒りからくるものではないだろうと思う。先輩をまとっている空気がどこか優しかったから。
「じゃあ…た、たかし先輩っ」
「お、おう…」
ちょ、ナニコレ。なんでそんな名前呼んだだけで嬉しそうにしてるわけ?
笑顔になるだけで、ただでさえイケメンなのにそれが10倍イケメンに見える。イケメン恐るべし。
呼ぶだけで笑顔になってくれるなら、俺は怖いけど名前呼ぼうかなという気になった。俺もえへら、とやや引きつっているであろう笑顔を浮かべると、先輩は本日二回目の鼻血を出していた。
「…マジかわいい…」
「崇先輩大丈夫ですか?!」
「…ここまでとは思わなかったわ…崇も人の子だったんだな~」
何かつぶやきながらも、鼻血を垂らしている先輩に慌てる俺を横目に、日比谷先輩はどこか冷静に俺たちを傍観していた。
やっぱ名前を呼びすぎるのはいけないのかもしれないと、なんとなく俺は感じ取ったのだった。
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