四章 凍り付く海と大地

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 いきなり家を飛び出して来たことについて、叔父は何も言わなかった。

 紆余曲折はあったが、釧路にある叔父の家で厄介になって、仕事まで紹介してもらった。叔父の知人がやっている電気工事の会社で、見習いの仕事をした。


 会社の人たちは皆、良い人だ。知識もなく社会経験もなく、役にも立たないぼくの面倒をずいぶんと見てくれた。


 働いたお金を貯めて、ぼくはオンボロの軽自動車を買った。実家に住んでいた頃は免許なんて身分証明書にしかならなかったが、北海道に来てからは車を走らせるのが趣味になった。


 釧路から弟子屈の方面に抜けて、摩周湖第一展望台に上がった時は感動した。神秘的な湖の美しさもそうだが、駐車場に車を止めて振り返ると、どこまでも連なる山が広がっている。雲一つない真っ青の空に太陽が浮かぶ、神々しいその景色にしばらく見惚れていた。


 釧路では輝くような夕日も見られる。

 プラネタリウムにも負けない満天の星空もある。

 水平線から押し寄せる流氷、山間を駆ける鹿の姿。ぼくは自然が好きだったから、北海道の暮らしは性に合っている。

 厳しい冬の冷たさも、胸を焦がす痛みを和らげるのにちょうどいい。


 一生、ここで暮らそうと思った。


 一年も過ぎる頃には、気温がマイナス2度なら「今日は暖かいね」なんて言えるようになった。雪国に慣れて、居場所を見つけた気がしていた。

 だけど、結局は無駄だった。


 新しい暮らしに慣れて、ぼくは再び笑えるようになった。

 なのに、胸の小さな火はまだ消えない。

 何をしていても痛みがあり、苦しい。

 夜中に眠れず、胸の痛みを消そうと掻きむしった。

 何でもない日常、普通の毎日を暮らしているだけなのに、突然苦しくなり、耐えられないと思う時があった。

 ぼくは仕事を辞めた。

 会社の人には、実家に帰るとウソを吐いて。叔父にはずいぶん迷惑をかけた。ぼくはお礼と謝罪の手紙を書いて、叔父の家も飛び出した。


 これ以上、逃げ出せる場所なんてどこにもないのに。

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