第34話 忌まれた子(その十一)
翌朝、
場所は
太刀の鞘だけを杖代わりにして、足を引きづりながら進んでいた。
上半身の服は破けて、細い体があらわになっていた。
血にまみれた右腹には黒いひし形の痣が焼き印のようにつけられていた。
歩調は遅かった。
まるでミミズが這ってでもいるかのような歩みだった。
か細い呼吸は命の灯が消えかけているようでもあった。
ふらついた足が草の根にひっかかった。
抗う様子も見せずに顔から地面に突っ伏した。
起きあがる力はなかった。
立ちあがる気力もなかった。
空虚感だけが心を支配していた。
吹きぬける風は、乾いていた。
「
そう、呟いた。
頭に浮かぶのは
右腕と右足がちぎれ、全身が刃でずたずたにされた無残な姿だった。救いは死する顔が穏やかであったことであろうか。頭部を割られ血に染まった顔であったが、月澄にはそのように見えた。
『稀二見ル……強者デアッタ』
そんな葉清を見下ろしながら我羅捨は言っていた。
その我羅捨の方も無事ではなかった。裏仙氣によって人間の領域を超越した葉清は、我羅捨の甲冑を断ち割り、背中の腕を一本斬りおとしていた。その戦いぶりは凄まじく、我羅捨が魔物であるならば、葉清は鬼神のごとくであった。
だが、そこまでだった。人体の許容を超えた葉清は肉体を維持できずに、全身から血を噴きだして力尽きた。
『コノ
それはどこか、葉清を賞賛しているようにも思える口ぶりだった。
我羅捨は倒れて動けないでいる月澄に近づくと、首を引っ掴んで持ちあげた。
目の前で見るその顔は、ほとんどが骸骨のそれであった。
『オマエノ仙氣カ……クク、ククク』
奇怪な笑い声をあげながら月澄の服を剥ぎとると、右腹に人差し指を突き刺した。
焼かれたような痛みを覚えて月澄は悲痛の声をもらした。
『オマエハ生カシテオク……マタ我ヲ楽シマセテミセヨ』
そう言って月澄を放り捨てた我羅捨は、葉清の太刀を手にして闇の中へと姿を消したのだった。
たまらない恐怖と悔しさ。己の無力さ。理不尽な運命。心が潰されそうなほどの感情を前に月澄は夜空を見上げながらただただ泣いていた。そして泣きつかれて、その場を黙ってあとにした。
心は、乾いていた。
「我羅捨……我羅捨……」
草原で倒れたまま何度も呟く。右腹につけられた印が焼けるように痛かった。
「我羅捨ぁ……!」
月澄は目の前の草を毟りとった。乾いた心にふつふつと沸き上がってくるのは殺意のみであった。
殺す。殺してやる。あいつだけは必ずこの手で――。
このとき月澄十二歳。凄惨な出来事は少年の心に深い闇を植えつけた。
それから三日後、月澄は自力で柊の王都である
葉清より託された太刀は鞘だけになっていたが、それでも月澄の功績を証明するには十分なものだった。
「では雪水の葉清は死んだと?」
王宮に連れていかれた月澄は、
「はい、死にました」
月澄はうつむいたまま答えた。臣下は嬉々としてざわめいた。
「おまえが殺したのか」
柊王十乾が聞いた。しばらく無言であった月澄は、やがて顔をあげると暗い双眸で柊王を見つめた。
「はい、おれが殺しました」
しばし鋭い目を月澄に向けていた王であったが、
「大義であった。褒美をとらせる、何でも言うがよい」
と、ほくそ笑んだ。
「何でも、いいのですか」
月澄は聞いた。
「よい、申せ」
「それなら、丹との戦をやめてください。あそこに資源はありません。やるだけ無駄です」
戦の原因が資源であることは葉清から聞いて知っていた。そして丹国には、柊が求めるような資源がないことも。だが、月澄の言葉は柊王からすれば逆鱗に触れることでもあった。資源によって大国と成り得た柊が生き残るには、資源を掘りつづけるしかない。あろうがなかろうが、求め続けることこそが国の存続できる道であると柊王は考えていた。それを否定することは王の意に背くことでもある。それはすなわち、
「徐剛、この者の首を刎ねよ」
死罪となっても文句は言えないことであった。
「大王、それはなりません。戦で功績をあげた者を処罰すれば士気は落ち、軍紀に乱れが生じます。ここは何とぞ、お怒りを静めてくださるよう」
徐剛からすれば、使えそうな駒は極力残しておきたいところだった。事実、月澄は敵国の将を討ち取ってきたのである。みすみす捨てるなどとんでもない。
巧みな徐剛の弁舌により、月澄は死罪を免れ投獄されることになった。
そして四年後、梗国の軍師を暗殺する任を受け、ふたたび野に放たれることとなったのである。
時は戻り現代――。
雪水の屋敷群に
当初は地裂の底を歩いて行くつもりであったが、暴流の出現により多素は混乱、伝令を受けた各都の警備も守りを重視に配されたため、道中は手薄となり地上の道を通ることができたのである。
「いやぁ、暴流と言えでも感謝したいところですね」
やれ幸運、と言わんばかりの
「しかし、さすが都というか、同じ国でもえらく違いますよね」
興味しんしんにあたりを見やりながら描は言う。その横では
多素とは違い、木雀の都は戦中とは思えないほどの賑わいを見せている。砂地の大通りの両脇には、民家や商家が入り乱れるようにして建ち並び、呼び込み人などが声を張りあげたりもしていた。荷車を引く者や、派手な着物を着た者など、歩く者は多勢に多様であり、道行く四人の男には誰ひとりとして注意を払う様子はない。
「ここを抜けると
「あの、今日はここで宿をとることなんて……できませんよね?」
描が言った。月澄の目は、横を歩いている梓季に向けられた。
「無理ではないか。追手が来ぬとはいえ、我々のことが知れ渡っていないとは限らんからな」
答えたのは
「はぁ、やっぱりそうですか」
「なにか思い当たることでもあるのですか?」
梓季が聞く。描は慌てて両手をふった。
「いえ、大層なことじゃないんですが、輪を風呂に入れてやりたいなーと。あと着替えも」
当の本人は気にしていないようだが、輪の身なりや汚れ具合は人目につくほどだった。なにより見ていて可哀相になってくる。
「と、言っているようですが」
梓季は月澄に答えを求めた。
「なぜ俺に聞く」
「いえ、その子を見る限り、あなたが判断した方が良さそうだと思いまして」
月澄は当惑の息をもらした。
何故かはわからないが、輪は月澄から離れようとしないのである。『おにーやん、おかーやんの匂いがするわ』というのが初対面の言葉で、それからというもの絶えず月澄にくっついているのだった。これには月澄も困惑を隠しきれないでいた。
「別にかまわないが、陽があるうちは進んでおいた方がいいだろう。宿をとるならその後だ」
そういうことになった。
そして夕刻、国境に近い村で一行は宿屋にはいった。
二階の部屋に通された描は、久しぶりのまともな寝床を見て歓喜の声をあげた。風呂にはいって小奇麗な着物に着替えた輪は、ようやく年相応の少女の身なりとなったが、本人は着心地が悪そうな様子だった。しかし出された食事や敷かれた布団などを前に不思議なほど驚いてすぐに忘れたようだった。
常にあたりを警戒している釣挑の気苦労もよそに、描と輪ははしゃぐだけはしゃいですぐに寝入った。
「釣挑、あなたも休んでおきなさい」
その言葉に、釣挑は座して壁にもたれながら眠った。
梓季はひとり晩酌し、月澄は窓に腰かけて外を眺めていた。
空には丸い月が浮かんでいる。
あたりは虫の音が聞こえてくるほど静まりかえっていた。
「こうしていると、数日前のことが嘘のように思えてきますね」
ふと梓季が口を開いた。柊国での月澄の奇襲から始まり、丹への関所破り、そして屋敷群での騒動。今の静けさはそれら一連の出来事を遠い記憶の隅へと押し流していくようにも感じられた。
「あんたに聞いておきたいことがあった」
月を見上げながら月澄が言った。
「あのとき、なんで俺を助けた」
「
「そうだ」
梓季は杯を口に運ぶと、一口飲み終えて涼し気な笑みを浮かべた。
「そうした方がいいと思ったからでしょうか」
「なんだそれは」
「そのままの意味ですよ。考えなんて意識の表面に浮かんだ泡のようなものですからね。なぜ助けたのかという理由なんて、今となっては後付け論にすぎません。それでも良いのなら何か理由を考えますけど」
ふふ、と笑う梓季を見て、月澄は鼻をならした。
「食えない男だな、あんたは」
「食われるとお役御免になる仕事ですからね」
そう言うと梓季は杯を裏返して机に置いた。
細く透きとおるような虫の音が微風に揺られていた。
次の日、描が起きると宿屋は物々しい雰囲気に包まれていた。
すでに梓季、月澄は起きており、緊張した面持ちで外を眺めていた。
「ど、どうしたんですか」
「囲まれている」
見ると、外にはすごい数の兵が集まっていた。森で自分達を捕えにきた武将の姿もあり、その横には美麗な女性の姿もあった。
「ここにいるのはわかっています。出てきなさい」
その女性――
「梓季さま、裏口にも手が回っているようです」
部屋に戻ってきた釣挑が言った。どうやら偵察に行っていたようだ。
「そうですか。準備がいいことですね」
「逃げ道はなし……か」
そう言うと月澄は二階の窓から飛び降りると、亥丹の兵の面前に立った。
周囲にざわつきが走り、それぞれが手にした武器をかまえた。
「待ちなさい」
凍葉が手をあげて兵を制した。
「烏野の月澄、そなたに聞きたいことがあります」
月澄は双眸を凍葉にむけた。
「あの時、私を助けたのはなぜですか」
しばらく考えた月澄は、
「そうした方がいいと思ったからだ」
どこか茶化したような口ぶりで言った。宿屋から出てきた梓季が涼しげな笑い声をたてる。何が面白いのかまったくわからない描は、輪の手を引いて釣挑の後ろで隠れるようにしながら場に混ざった。
しばらく月澄の目をじっと見つめていた凍葉は、悔しそうに唇を噛んで梓季の方を見やった。
「思っていたよりも不便な仙氣ですね」
「知らない方がよいことも、世の中にはたくさんありますからね」
微笑みながら梓季は答えた。
「そのようです。知らずに死罪としていれば、どれだけ楽であったことか」
屋敷群の裁きの場で兄を殺したかと聞いた時、月澄の答えは「応」であった。しかし、梓季の仙氣を奪い本心を見た答えは「否」だった。それどころか、月澄が抱く深い絶望と悲しみが凍葉に流れこんできた。その中には葉清に対する敬愛の念もあった。兄との間に何があったのかまでは凍葉にもわからない。しかし月澄は兄を殺していないことだけは嫌でもわかってしまったのである。
「真実とは、得てして想像に難いものですよ」
梓季の言葉に、凍葉は軽くため息をもらすしかなかった。
「兄様のことはひとまず置いておきます。あなた方が向かうのは崋山ですね」
「そうですが」
「ならば、私たちも同行させてもらいます」
「は? え? 私たちって、いまいる亥丹の人たちも一緒にってこと……ですか?」
描の素っ頓狂な声が飛んだ。
「私には真実を見極める義務があるのです。それに、崋山には祖父の思い入れがありますからね」
「私は別にかまいませんが」
梓季は月澄を見やる。
「好きにしろ」
月澄は短く答えた。
「あの、それならこの子をどこかで預かってくれませんか。多素で母親を探していたのですが、ここまで一緒に来てしまって」
描が言うと、輪は月澄にはっしとしがみついた。
「うちも一緒にいくねん。おにーやんとおったらおかーやんに会えそうやねん」
「あ……そう」
そう言われると、描は頷かざるを得なかった。
千変万化の移ろいは、人の想いも例外にあらず。
過去より続く情もまた、理の前では塵のごとくなり。
使命、探訪、真実など、求めるものは違えども、まるで何かに導かれるようにして彼らは崋山へと向かうのであった。
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