38.拓かれる未来

 ――その者は、わらわの民を害した極悪人であり、世界の境界線を歪ませた元凶だ。源を絶たねば亀裂は元には戻らない。


 ――わらわからの依頼はその者の命を絶つことのみ。


 ――この件に、わらわはもう十分に干渉した。異界の勇気ある青年たち、そして巫女よ、その後の采配をとるが良い――





 滝神タキガミのお告げを伝え終えた巫女姫サリエラートゥが、胸に手を当てて深呼吸する。

 その様子を見守りながら、未だ肉体に戻っていない朝霧久也は人知れず苦笑した。


(俺はひねくれてるのか。大いなる神に「勇気ある青年」って呼ばれても、嫌味にしか聴こえない)


 意識すれば、箒の感触がいつでも蘇る。棒状の木材から掌に伝わった、肉を貫通する手応えも――。

 まだ人を刺した実感が沸かない。劇の脚本通りに踊っていたのではないかと、自分の意思で動いた気がしないのだ。それだけ夢中に――いや、無心に動いていた。


(藍谷英は遠からず死ぬ)


 それが自分の行動の直接の結果であろうと、そうでなかろうと。

 関与した事実は消えない。犯した罪から逃れることはできないし、どんなに悲惨な結末でも、責任逃れはできない。受け入れる以外にどうしようもない。

 全て背負ったまま、地を這いずり回ってでも明日を生きてみせる――


(だから俺は、見届けよう)


 ここから先、頑張るのは拓真と巫女姫と集落の民だ。

 英が前にも言っていた通り、この世界の道徳観は固まっていない。そういったものを浸透させるのは組織としての宗教だったり法律だったり、大衆の意見の集大成だったりする。

 それらが確立されていない社会では、統率者の決断か複数での話し合いかはたまた大いなる存在が、集団生活を守る上での判決を下すのが慣習であろう。

 そして、神は関与しないと明言した。


 ――人間が人間を裁く。


 現在地は祭壇の間――と言っても、馴染み深い滝神の洞窟の中ではなく、ついさっき滝クニの戦士たちと北の部族が激しく殺し合った、地中の闇の奥深い場所。疎らに松明に照らされているのが、かえって不気味であった。

 世界のハラワタを泳ぎ進むような重苦しい空気。肉体がその場になくてもなんとなく感じ取ることができる。

 淀んだ空気は立ち会う人々の摩耗した心を表し、そしてこれから執行されねばならない罰に対する緊張感をも写した。

 誰もが吐息さえも飲み込んで、十七かそこらの少女に注目している。

 彼女の足元では――裁かれる人間の最たる例が、静かに言葉を紡いでいた。


「あの者たちに罪があるなら、紛れも無くそれは私の罪だ。私がそそのかしたりしなければ、大事おおごとになることなく、通常レベルの諍いで済んでいたはずだ。北の地は実りが少なく、苛酷だ。領土を拡大したいと願うのは仕方が無い。だから、民には――」

「ここに来て我々のお情けを乞うのか?」


 滝神の巫女姫サリエラートゥが食い込み気味に応じた。首を傾けた際に、ハイポニーテールに束ねられた長い黒髪が揺れた。

 相手を見下ろし、唾を吐き捨てかねないほどの嫌悪感を丸出しにしている。


「貴様も他の連中も等しく悪だ!」


 少女の剣幕に対し、地に横たわる男が鼻で笑った。


「……ああ、違ったな。罪の有無を論じたいわけではない」

「なら何だと言うんだ」

「命を有益に使え――と言っている」

「どういうことだか、話が見えない」


 サリエラートゥはにべもなく言ったが、久也にはなんとなくわかる気がした。


「我々は貴様らの同胞の命を奪った。普通に考えればその落とし前をつけるには命を奪い返すのが最適であろう」

「当然そうなる」

「しかし民は労働力だ。人材は、どんな形であっても貴重だ」

「何を言っているんだ? 敵だった人間を使うなど、できるはずがない。まず信用できない。仲間を殺されたくないがゆえの詭弁にしか聴こえないぞ」


 ――そうかもしれない。けれども、そうでもないのではないか。


 英の言い分には実は久也は賛同していた。

 この男は、弁明の余地の無い大きな過ちを犯した。だが責任逃れをしようとしない潔さは評価したい。心願であった帰郷を僅かな時間でも果たせて、気が済んだだけなのかもしれないが。

 冷静で理性的な態度から察するに、己のしたことの重さを受け止めている。その上で、情が沸いたのかは知れないが、巻き込んだ人間の面倒を最後まで見ようとしている。

 まだ話し合う意味があるのだと感じた。だからこそ自分たちだって、今だけでも冷静であるべきなのだ。境目を越えて滝神さまの御座す郷に戻った時、拓真とそう決めたのだった。


「詭弁でも構わないさ。頼む、殺さないでやってくれ」

「そんな都合の良い話――」

「いいよ」

「おい、タクマ。何を考えている」


 サリエラートゥの背後に控えていた小早川拓真が口を挟んだことに、戦士アレバロロが不審そうに顔を上げた。巫女姫も、ぎゅっと眉根を寄せて振り返った。


「サリー、あのね」


 無感動に聴こえるほど静かに、拓真は口火を切った。俯き加減だったところ、顔を上げてグリーンヘーゼルの瞳を巫女姫に向けた。


「この件の処理と今後のことについて、とりあえずは任せてもらえないかな」


 その言葉に巫女姫は目に見えて驚いた。


「確かに滝神さまは、お前たちと私に采配をとれと仰せられたが……何をする気だ? 同郷か、確か知り合いなのだったな。どうこうするのが心苦しくなったとか?」

「んー、ちょっと違うかな。神さまに依頼されたんだし、英兄ちゃんはちゃんと息の根を止める。でも他の人たちは……」


 拓真は拘束されたままの他の北の部族の戦士たちを見渡した。


「別に許さなくてもいいよ。ただ、感情的になるあまり、双方の犠牲を無駄にすることは無いと思う」


 すうっと一呼吸してから、続ける。


「おれらの仲間も北の人たちもどっちも死んだよ。それが何の進歩にも繋がらないんだったら、ただの悲劇になる。たとえこじつけでも、残された人たちが意味を見つけなきゃダメだ。血を流すってのは、そういうことなんだと思う……ううん、思いたい」

「進歩? 意味? お前の言っていることは、私にはよくわからない。人死と進歩にどういう関連がある?」

「それは……」


 拓真が言い淀んだ。歴史という概念、過ちからは学ぶべきだという教訓。それらは一息に説明できるようなものではないからだ。

 なんとも言えない沈黙の中、一人の青年が前に歩み出た。


「どうした、イデトゥンジ」

「姫さま……彼らに考えがあるなら、私は信じたい」


 イデトゥンジは確か、生き残った戦士の一人である。ひどく憔悴している様子だった。

 充満する「死」に疲れているように見えた。


「いつも何を言っているのかよくわからないが、それでも私は白人バムンデレたちが好きだ。我々の知らないことを知っている。きっと我らの悪いようにはしないと信じています」


 彼の言い分に周りの何人かは迷いや反感を見せたが、半数以上は賛同しているようだった。


 ――嬉しいことを言ってくれる。


 同じように思ったのか、拓真が湿った目でこちらを見上げてきた。

 そろそろ発言してもいい頃合いだと久也は判断した。と言っても、声を聴き取れるのは限られた数人だ。


(やられたからやり返すなんて安易な連鎖に逃げずに、ちゃんと向き合って共存の可能性を探そう。元々孤立気味だったこの集落の、より過ごしやすい未来を目指して)


 提案した途端、聴こえる者の一人、サリエラートゥの視線が宙を彷徨った。声が聴こえても姿までは視えないのだろう。

 久也は空中浮遊状態から地に降り立った。人だかりの唯一開けた位置に、歩み寄るイメージで、ススッと近付く。


(藍谷英――アンタの血肉は滝神に捧げて、神力として大地に還す。ゆくゆくはこの力を、大地に根付く総ての民の間での平和を築く為に使う。実りは平等に行き渡らせる。物々交換をはじめとして、交流を活発化させて)


「それが取引の条件か?」


(そうだな。この生贄システムの最後の一人になれ。それを自ら望んで、誇って死ね)


 神への供物となることを至上の歓びと認めている者こそが最高の状態の生贄だと、最初に会った日に巫女姫は言った。そうしろと強いられた状況では到達しにくい状態かもしれない。だが、不可能だとは思わない。加えて英は体内に精霊と儀式を通して得た力がある。普通の人間が捧げられるよりは、遥かに滝神の神力の蓄えとなるはずだった。


「おれからの要求は簡単だよ。絶対に目を閉じないで。最期の瞬間まで、みんなの顔を焼き付けながら、逝って」


 拓真は冷酷に近いほど真剣そのものの表情で命じた。


「両方の条件を満たせば民を殺さないと言うのなら、引き受けよう」

「殺さなくても、奴隷にするかもしれないぞ」


 毒を吐くようにサリエラートゥが指摘した。


「奴隷か。生きてさえいれば、私には十分だ。問題ない」

「……冷たいな。お前は結局民を愛していなかった、利用していただけだ。この期に及んで命を守ろうとするのは、良心が痛むからか? 寝覚めが悪いからか? 寝覚めなど、もうお前には縁が無いものだ」

「なんとでも言え。そんなことより」


 英は懐から革袋を取り出した。動ける体力があったのにも驚いたが、それよりも革袋が気になった。

 曰く、振りかけるだけで物の鮮度を維持できる謎の粉らしい。地中で多数の死体が保管できていたわけだ。


「私を滝神の集落へ運ぶより、臓物のみを引き抜いて携帯した方が楽ではないのか」


 自分のことなのにひどい言い様だ。

 しかしこちらとしては断る理由が見つからなかった。むしろ、滝神の洞窟よりもこの空間の方が広い分、大勢の人間の前で見せしめとして捧げることができる。滝クニの民の士気を上げ、敵側の戦意を完全に削ぐことが。

 滝神の巫女姫、サリエラートゥもその案に承諾した。更には特別に愛用の骨製のナイフを拓真に手渡した。そのやり取りを見て、久也は鉛を飲み込んだような心持ちになった。

 背筋が凍るほどの静謐。

 北の部族は意識のある者さえも皆大人しい。最初は長の容態を見て騒ぐ者も居たが、英が何かを呼びかけて以降は黙りこくっている。


「本当は凄く後悔してる。もっと早く後を追っていたら、こうなる前に英兄ちゃんに何かしてあげられたかもしれないって」


 拓真は地面に膝をつき、横たわる男の胸の上にナイフの尖端を滑らせた。 声も手も震えていた。

 英は胴体に刺さった箒を両手で掴んで、自ら引き抜いた。一瞬目を眇めた以外には、痛がる素振りを見せない。傷口からは最初は血がどくどくと溢れ出たものの、数秒の内におさまっていた。


「ふん。お前は馬鹿だな。どこかで人生に損してそうだ。当時十歳だったお前に何ができた? この世界で右往左往してる間に豹にでも喰われてただろうよ」

「ちょ、ヒョウの話はやめて。切実に」


 拓真は大袈裟なまでに怯んだ。構わずに英が語り出す。


「私はお前たちのように滝神の集落に馴染むことができなかった。いつ寝首をかかれるのか、そういったことばかりを考えた……それは私の弱さだった」

「…………かもね」


 ナイフの尖端があまり時間をかけずに行き先を定めた。


「結局私は、最も恐れていた結末を迎えるのだな。これもごうか」


 生贄にされる未来を怖れて集落を飛び出した男の因果か。皮肉だったが、失笑の一つも漏れなかった。


「でもなぜかな。今はそんなに恐ろしくはない」


 横たわった英は穏やかそうに腹の上に両手を重ね合わせた。


「あの少女は、苦しかっただろうか。意識がなくともどこかで痛みを感じていただろうか。せめて、『死者に逢わせる花』によって少しでもいい夢を見れたならいいが」

「知らないよ。そんなの」


 対する拓真は傷付いているようだった。何に、は本人にしかわからない。

 英は長いため息をついた後、カッと目を見開いた――


「――さっさとやれ! 迷ったりしたら、精霊の力で再生される! いつまで経ってもやり遂げられんぞ!」


 突如、促されたままに、刃が引かれる――

 鋭い吐息と共にそれは首元を過ぎった。

 誰かが息を飲むのが聴こえた。


「……すぐるにいちゃん……なんで、こんなことに、なっちゃったの……」


 青年はいつしか手元を押さえながら激しく嗚咽していた。その身には返り血がたっぷりとかかっている。

 英の言った通り、しばらくすると損壊された組織は再生をし始めた。これから速やかに臓物を全体から切り離す必要がある。


「もう、いい。さようなら……たくま、きみもはやくわすれて、自分の人生を……生き……」


 目を見開いたまま、その男は言葉を途切れさせた。意識や魂が去ったのではなく、気管へのダメージで話せなくなっているのだろう。

 確かに、誇らしげな顔だった。それを見届けた久也は満足した。

 解剖の手順に沿って、男の胸はどんどん切り開かれていった。人体を切開したことなど一度もない拓真では、あまり丁寧にできない。サリエラートゥが代わった。

 久也はただ見守るしかできない。

 息がまだある生物が切り開かれる様というのは、それだけで相当なトラウマとなりえた。救助が目的なら全く話は別だが、今執り行われている作業は、蹂躙とすら呼べる。

 数年に渡って導いてくれた長を失い、北の部族はこれから途方に暮れるだろう。意気消沈している彼らを見やって、思わず頭を振った。


(全部背負ってこれからも生きるのか。重いな。重すぎる)


 久也は今回の件の後始末を含め、自分たちがこれから歩む道に思いを馳せた。

 目と鼻の先では、英はもう息をしていなかった。


(やってやるさ。血ヘド吐いてでも、進んでやる)


 生きるというのは、きっとそういうことなのだ――





 眩い夢を見ていた。懐かしい、我が家での光景を。

 そこは神も狂人も敵も巫女も居ない、普通の家の居間だった。空調のよく効いた部屋には、ほんのり美味しそうな香りが漂う。


「おかえり! お兄ちゃん!」


 髪をツインテールに結んだ少女が台所から顔を出した。


「ただいま、朱音。母さんはまだパート?」

「うん。先に食べててねって」

「そっか。今日も大変だな」


 バイト帰りの久也は上着を脱いでテレビをつけた。今日はカルボナーラだよ、と言って台所に戻ろうとした朱音が、はたと止まる。


「あのね、さっき電話があったの。でも知らない人からの電話は出ちゃダメだよって、お兄ちゃんの言い付けはちゃんと守ったからね」

「いい子だ。表示に名前出たか?」

「うん、永嶋ながしまさん、だったかな」


 その名を聞いて、硬直した。久也にとっては優しい夢に冷水を浴びせかけるような名前だった。

 これまでにもごく稀に同名の人物から電話がかかってくることはあった。その都度、詐欺師だから絶対に出るなと、朱音には何度も教えた記憶がある。だけどこの時の久也は、これまでの記憶の中の自分とは違う選択をした。

 それ即ち、過去との決別である。


「朱音、次に永嶋サンから電話があったら出てもいいぞ」

「え、いいの?」

「その男と関わるかどうかはこれからお前と母さんが決めることだ。俺はもう邪魔しない」

「邪魔ってどういうこと、お兄ちゃん?」

「俺は父親が連絡をくれてもお前に伝わらないように、留守電のメッセージを消したりハガキを隠してた。ずっと前から」


 告白をしても夢の中の妹は怒らなかった。何もかもを悟ったような柔らかい表情でいる。


「そうだったんだね。でも、もう大丈夫だよ。大丈夫だから、お兄ちゃんは待ってる人の所に帰ってあげてね」


 そんな大人びた笑い方をするような子ではないと、心のどこかではわかっていた。本当の妹は少しわがままで、寂しがり屋で、人を笑って送り出すより泣いて送り出すタイプだった――はずだ。

 これは夢だ。自己満足の、幻。自分の中のわだかまりを自分で消す、心の清浄化。


(まあ、会えなかった間に成長した可能性も無きにしも非ずか)


 ――ごめん。


 謝罪の言葉を綴った途端、眩い夢が崩れて無に帰した。けれど、あまり悲しくは無かった。

 やがて、闇の中に音が響く。


(このまま意識が戻らなかったら――)


 焦りに彩られた若い女の声だ。日本人女性とはかけ離れた低めで色っぽい声音。すぐに誰のものか思い出せた。彼女を宥めるように、若い男の声が答えた。


(大丈夫、久也は戻って来る。ちょっと感傷に浸って時間がかかってるだけだよ)


 不意打ちに、その発言に寒気がした。


(おいおい、なんでそんなに的確にわかってやがる。親友とはいえ気色悪いな!)


 もはや目を覚ます以外の選択肢は存在しなかった。

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