25.狭間の苦悩

 少女が家屋の脇で体育座りになっている。己の波打つ艶やかな長い黒髪を一房くわえて嚙みしだく姿からは苛立ちがふつふつと立ち上がっているようだった。

 いつもの毅然とした佇まいではない。その少女が今まさに会いたいと思っていた相手、滝神の巫女姫サリエラートゥであるからこそ余計に、拓真は声が掛けづらかった。

 が、後ろについてきている男たちにとっては自分以上に声を掛けづらいに違いない。「姫さまは一体どうしたのだ……」や「何かあったのだろうか」と困惑に囁き合う声が耳に入る。

 こうなっては帰還した捜索隊を代表して、自分が思い切って話しかけるべきだ。腹をくくり、拓真はすこぶる不機嫌そうな少女の傍に歩み寄った。一度ごくりと唾を飲み込む。


「え、えーと、サリー? どったの、せっかくのボリュームたっぷりの綺麗な髪の毛がかわいそうだよ」

「……タクマか。帰ったのか」


 サリエラートゥは口に含んでいた髪をペッと吐き出した。拓真が手にしている松明によって照らし出された黒い双眸は、微かに周りに赤みを帯びていた。


「帰ったよ。ただいまー。報告したいこと一杯あるけど」

「ああ、すまなかったな。聞こう」


 巫女姫は億劫そうに立ち上がり、革の短いスカートを何度かはたいた。


「ていうか待って、何してたのココで」


 彼女が背を預けていた建物を指差した。ここはアッカンモディとその家族の住処である。ちなみに隣の家にはアレバロロとアァリージャが住んでいる。

 サリエラートゥの家からは近いといえば近いが、それにしては集落の最高責任者が、夜中に屋外で一人膝を抱えていた理由には足らない。


「鬱陶しいからとルチーに追い出されて、この後どうしようか考えてた」

「うん……? どゆこと」


 覇気の無い返答からは未だに話が見えない。


「失神したヒサヤが中で休んでる。血を流し過ぎたそうだ。で、何でそうなってるのかを問い詰めるとルチーは『ワケは目が覚めたご本人にお聞きください』の一点張りだ」

「え、ええ、血!? 失神って? それこそどゆこと!?」


 仰天して声を荒げた。

 正直最後に会ったのが今日だったのか昨日だったのか思い出せないが、少なくともその時は元気だった気がする。出かけていた間に一体何があったというのか――

 直後に戸代わりの幕が持ち上がり、子供が二人ひょっこりと現れた。


「うるさいぞー。母が怒るぞー。怒ると怖いぞー」

「うるさいぞー」

「ご、ごめんね」

「おおお、人がたくさん!?」

「たくさん!」


 七歳の幼児と、彼よりも一回り小さい四歳の幼女が家の前に集まっている集団を見て驚倒した。妹はそれがクセなのか、兄の言葉を嬉々としてこだまする。

 父親の姿を見つけて二人は駆け寄った。


「父だー、おかえりなさいー」

「おかえりなさいー」


 兄の頭は丸刈り、妹は左右の耳の上で髪がだんごにまとめられている。二人とももっちりと肉付きの良い頬や、大きな黒目や、潰れたような低い鼻が愛らしい。集落の人間よりも肌色が更に濃く、黒に近い色なのは、南の部族出身の母親の遺伝だろう。


「ただいま、オケブノ」


 アッカンモディは膝を折り、息子とハイタッチを交わした。


「ただいま、タミャ」


 次に屈んで娘を抱き上げた。きゃーきゃー笑いながらタミャは父の頬にぶちゅっと口付けを落とした。微笑ましい光景である。


「そうだ、色薄いやつ」

「え、おれ?」


 眉を寄せたシビアな顔でオケブノが拓真を指差したので、問い返した。と言っても、七歳の子供の精一杯シビアな顔は下手すればコミカルにしか見えない。


「タクマって呼んでね。何?」

「母が用があると言ってたぞ!」


 彼の背後まで見通すと、ちょうど女性が幕の隙間から手招きしている。暗がりの中から浮かぶ手の妖艶さに一瞬ドキリとしつつ、振り返る。サリエラートゥは無言で顔を顰めたが、「行って来い」と手を払った。

 報告などは戦士三兄弟に任せることにして、拓真は幕をめくった。

 小型の松明を持ったルチーが菩薩の微笑みで迎え入れる。


「いらっしゃいまし。どうぞ」


 挨拶も短めに、彼女は踵を返した。腰に巻かれたワンピースと同じ柄の布がふわふわと宙になびいている。

 ルチーの周りだけが炎によって淡く照らされるので、影に取り残されぬよう、その背にぴったりくっついた。

 奥の寝室に入り、壁際までそっと近寄った。枝編みのベッドフレームの上にシーツを敷き詰めたこの家唯一のベッドは、体調の優れない者に優先的に使わせるのが決まりだそうだ。

 この集落の家はほとんどが一室のみを寝るスペースにあてがっている。大人も子供も客も全員、同じ部屋に詰め込まれるのが普通なのだ。巫女姫の家だけが例外的に来客用の寝室を多く抱えている。

 戦士が合宿訓練時に溜まる兵舎や家庭を持たない人用の共同住居でさえ、寝室を分けたりしない。

 敢えてこの習慣に理由をつけるとするなら「みんな一緒の方が楽しいから」だと聞いている。


「なかなか洞窟から戻らなかったので様子を見に行ったらこの通り。何とか一人で引きずり出しましたわ。軽いと言えば、軽いのですが」


 ルチーはベッドに横たわる青年を指した。

 曰く、外部から嫁いできたルチーは集落民と違って強すぎる神力にあてられることも無いという。それゆえ巫女姫が傍にいなくても滝に近づけるらしい。


「できれば引き取っていただきたいのですが、無理にとは言いません。起こしてから、少し様子を見てくださいな」

「お安いご用だよ」


 拓真は近くにあった枝編み細工の椅子を取った。椅子を前後逆にして腰をかけ、背もたれの上に腕を組んでもたれかかる。

 背後からは、ふう、と大げさなため息が聴こえた。


「まさか姫さまが、お気に入りの殿方の一大事で使い物にならないとは存じませんでした。以後、気をつけますわ」

「え? えーと、はあ、うん」


 突拍子も無い呟きに驚いて振り返った。が、既に彼女は寝室を後にしている。部屋を仕分ける幕がパタンと元の位置に落ちた。


(ルチーねえさん今すごいこと言った気がするけど……深く考えない方がいいのかな)


 ――滝神の巫女姫を家から追い出すだけの何があったんだろう。お気に入りの殿方って……。


 そして彼女は松明をも持っていってしまったので、部屋の中は幕から漏れる光以外はほぼ真っ暗になった。これでは眠りから覚めても、覚めた心地がしなさそうだ。


(まーいっか。前に洞窟で寝泊りしてたくらいだからこの程度で混乱しないよね)


 とりあえず楽観した。

 次いで拓真はこの頃携帯している自作の投槍器スピアスロアーを腰帯から外して手に取った。かつて中央アメリカ一帯で使われていた「atlatl」という道具を再現した代物だ。素手よりも遥かに速く・遠く・的確に槍を投擲できるのが利点である。

 元々拓真の腕力は集落の男性に比べて劣る。なので素手で投げるダメージ重視の重い槍よりも、投槍器で軽めの槍を投げることを選んだ。ここでは弓矢を作る技術は北の部族に遅れを取っているらしく、主に槍や銛の方が一般的に使われている。


(みんなが接近戦派なのもあるけど)


 滝クニの戦士たちが遠くから矢を浴びせたりするよりも殺傷能力が高い槍を好むのはつまりそういうことだ。

 けれども北との本格的な戦に発展する未来が来るなら、もう少し変幻自在な戦略を考慮した方が良いだろう、とも思う。


「ひさやー、ひさやー。起きなよ」


 椅子を傾けて、投槍器の先端で寝ている友人を突いた。直接手で揺り起こすには、椅子の位置が微妙に離れ過ぎていた。ベッドのすぐ脇の床にも寝床が敷かれていて、それを踏まないようにしているからである。

 しばらくして、小さな呻き声が聴こえた。


「……どこだ」


 第一声がそれだった。声の調子からして意外と冷静そうである。

 拓真は軽やかに応じた。


「ルチーとモディの家。んで夜だよ。やっほー、寝覚めはどう?」

「なんか言い争う女二人に板挟みになってた夢見た……」

「案外、それは夢じゃなくて現実かもしれないよ」


 げっそりとしている久也に、拓真は笑って返事をした。それから巫女姫やルチーに受けた簡易的な説明を語った。


「なるほど、あの人が連れ帰ってくれたのか。俺の居場所を知ってたのもあの人だけだったしな」

「ねーねー、洞窟で何してたの? 何で自傷したの」


 好奇心に耐え切れなくなってざっくりと訊いたら、次の返事までに間があった。


「…………自分でやったって、よくわかったな」

「腕の内側ってなかなか襲われて傷つくもんじゃないよね」

「そりゃそうだ」

「あ、起き上がれそう? ルチーねえさんにできれば久也を引き取ってくれって言われてるんだけど」


 そう訊ねると、衣擦れの音がした。どうやら上体を起こしたらしい。


「まだ頭フラフラするけど、歩けないこともない」


 彼は傷の痛む痛まないについては何も言わなかった。部屋に溢れる濡れた薬草の臭いからして、きっと応急処置は施されたのだろうと察した。


「だったら肩貸すから、うち帰ろうよ」

「それはいいけど。この家裏口があるか?」

「あるよー。料理とかは大体裏庭でやってるみたいだし。何で?」

「なんとなくサリエラートゥとは顔を合わせづらい」

「ふむん? 話し声がするからまだ表に居そうだね。いいよ、裏から出よう」


 いつの間に名前を呼び捨てにするようになったんだろう――と内心では不思議に思いながら、拓真は椅子から腰を上げた。





 そして無事に家に帰り着いてから二人はそれぞれの寝床につき、情報交換に勤しんだ。


「朱音に会ったって、一体全体どういうことだよ……」


 貧血気味の頭がうまく回らないらしい久也が悔しげに吐いた。


「それよりおれは久也の話の方が吃驚だよ! 滝神と話ができるなんてマジ吃驚だよ!」

「いや、俺も吃驚した。どうも、ぼんやりと全体像が見えてきたな」

「うん」


 現在の北の部族の長、藍谷英だった人間が人柱を集めて元の世界との境界をこじ開けようとしているのが確定した。その手段を人魚から聞き、今まさに実行しようとしているのだ。


「幻覚でおびき寄せているのは、もしかしたら滝神みたいに『生贄は自分の自由意思で』みたいな縛りがあるのかもな」

「英兄ちゃんはどうやって人魚と話なんてできたんだろ」

「取引用に餌でも持って行ったとか」


 久也がそっけなく答えた。


「エサ、ってやっぱり……」


 人喰い人魚を喜ばせる手土産は当然、食糧(人)であるはずだ。拓真の胸中でモヤッとした気持ち悪さが渦巻いた。息を吐いて、暗闇の中で目を閉じた。


「二十年の孤独で人格が歪んだのかなぁ」

「大いにありうる」

「ねー、久也。異世界に飛ばされて――帰ったら自分の知ってる人がみんな先に年取ってたのと、帰ったら自分の方がもっと年取ってたのと、どっちが悲しいんだろうね」


 想像するだに恐ろしい。閉じていた瞼をおもむろに開いて、藁の天井のある方を見つめた。


「さあな。アイツ、気付いてると思うか? こっちとあっちで時間の流れが違うって」

「わかんない。気付いてなさそう……」

「ただ言えるのは、たとえ俺たちにも帰る方法が開かれたとして、それを犠牲も出さずに行えるとして……近い内にそれを掴む決断をしないと、どんどん『ずれ』が広がるってことだな」

「そう、だね」


 肉体年齢の違和感、移り変わる日常、離れてしまう心の在り処。英ほど極端でなくとも、内から変わってしまうのを止められない。

 改めて綴られるあまりに冷たい現実に、拓真はまともに返せる感想を持っていなかった。


(こういうのを、情が移ったって言うのかな)


 帰っても帰れなくても、どちらを想像してももの悲しい気分になる。

 故郷に帰って逆カルチャーショックを乗り越える自分も、或いはあっさりこちらでの日々を忘れてしまう自分も、何故だか両方とも受け入れがたい。だからと言って異世界に残って、育ててくれた祖父母や友達の顔を忘れてしまう自分もいかがなものか。

 選択肢が閉じられていればうまく順応できる自信はあるが、こうして選べる余地があると、普段それほど悩まない頭も音を立てて軋みを上げる。迷いが、生じる。


 ――早く、早く突破口を探さないと。早く決めないと、後戻りが出来なくなる。


 選択肢は本当にあるのだろうか。

 英がやっているような無茶な方法が成功したとしても、きっと自分たちには真似できない。

 未練がましい己を恥じた。どうして、こんな中途半端な希望を見せ付けられなければならない。いっそ帰る方法はどこにも無いのだと神に言い渡された方が良かった――


「もしもこのまま元の世界に戻れなくても、生贄で内臓バラバラ・エンドだけは、なんとか避けられるかもしれないぜ」


 途端に、話題は明るい方へと転じた。


「本気でそう思ってる……?」

「可能性はゼロじゃない。誰も探してないだけで、案外やり方は単純だと俺は踏んでる」


 根っからの現実主義兼ペシミストな久也が、何かに挑むように言い切った。不意打ちをくらった気分だ。これだけごちゃついた状況の中から、他ならない彼がモチベーションを見つけていたとは。

 それを聴いて、自分も吹っ切ろうと奮い立った。

 ウジウジ考えるのは、らしくない。


「ならなんとかしようよ。うん、それがいい! 頼んだ!」


 深夜だというのに、拓真はパッと目が覚めた。シーツを素早くどけて起き上がる。


「おいおいおい、待て、どこ行く気だ」

「よく考えたらおれ、全然寝てる場合じゃなかった。だって英兄ちゃん、攫った人たち殺す気なんだよね? もう手遅れかも。行かなきゃ」

「深夜に大自然をうろつくのは確実に自殺行為だろーが! 人を助けるどころじゃない!」


 叫ばれた正論に咄嗟に動きを止め、項垂れた。

 それくらいの判断ができる程度には頭が冴えている。


「うう~ん、まったくもってその通りだね。しょうがないから、作戦会議だけしてくる。サリーとバロー辺りはきっと寝てないよ」


 そう答えると、久也は観念するのが早かった。


「だったら一つアドバイス。未知の領域へ行け」


 未知の領域とはつまり、滝神タキガミさまの御座おわくにを出た外の世界のことだ。


「え。でも生贄が滝神の息のある範囲を出たら巫女姫が死ぬって話は」


 二十年前の巫女姫、キトゥンバが変死した事件を引き合いに出して問うた。


「それはおそらくデマ――っていうか、勘違いなんだと思う」

「そうなの!?」

「民が望んで滝神が承諾する、その公式が真実なら、滝神の罰でその巫女姫が死んだとは考えられない」

「じゃあお姫様も望んでたってこと? 自殺?」

「さあな。界渡りを逃した責任を取っての行動なら、サリエラートゥが同じ選択をするのも考えうる。それとは全く別に、他部族の呪いがかかったってのも可能性がある。ああいや……もっと大穴で、民が望んだとも」


 久也は次々と仮説を紡いだ。


「とにかく、滝神の祟りとかじゃないはずだ。そのリスクを背負うだけの覚悟があるのか、アイツに訊いてみろ。コストベネフィットで計れば、お前が赴くべきなのは明白だと思うけどな」

「久也の言ってること半分もわかんないけど、わかった、サリーに訊いてみるね」


 それから手早く着替え、「おやすみ! 早く全快してね!」と言い残してから、拓真は我が家を飛び出した。

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