12.ブラウンノイズ

 意識を浸食されている感覚がする。

 此処が何処で自分が誰なのか、気を抜けば己の中から思考が、情報が全部洗い流されそうだ。

 滝が視界を占め、冷たい水飛沫が肌をくすぐる。

 流れ落ちる水の音が耳朶を打ち、ブラウンノイズとして頭の中にまで響く。

 人間は聴覚を通して立体空間を把握するという一説を聞いたことがある。こんな風に全方位に反響する音を聴いていると、足元がふらつきそうだ。


(集落を活かす神の具現化か)


 或いはその逆に、水を重要視するあまりに民が崇めるようになっただけか。

 崇められてから滝は神力を得たのか。

 神力に気付いた人間が崇めるようになったのか。

 因果関係に想いを馳せることに意味などないのかもしれない、が――


「俺たちは本当に、死ぬ為だけに生かされているのか?」


 朝霧久也は仰いだ滝に問いかけた。顔がじわじわと濡らされていく。

 命あるものは誰しもいつかは死ぬ。けれどそれでも、短れ長かれ、何かを得たり目指したりして生きるものだ。死そのものが生きる目的であるのには、どうしても抵抗を感じてしまう。

 異世界に呼ばれた真の理由がどこかにあるはずだ。


 ――むしろそんな真実が無くとも、後付けでいいから理由を自ら作ればいいのではないか?


(物語の中の主人公なら、手始めに文明力を活かして革命を起こすんだろうな)


 だとしてもそれは、選ばれた人間に都合の良い物語の中で起きる展開だ。

 これまでに二週間近く暮らしてきて、この集落に自分たちがもたらせそうな変化に全く心当たりを覚えなかったわけではない。しかし、本当の意味で変革を起こすには多くの物が不足している。

 とりわけ足りないのはきっと「時間」だろう。突出したスキルを持たない一介の大学生たちが、数ヶ月、果ては数週間の間に何を与えられるのか。与えたところで、それはすぐに廃れてなくなるのではなかろうか。


(……暗い)


 放っておけばどんどん暗い方に進む思考回路をいつも適当に引き上げてくれるのが拓真だ。今この場にいないのだから自分で軌道修正するしかない。


(とりあえず神の正体、それから生贄との関係性、をできるだけ明かす必要がある)


 その手がかりとなるかもしれないのが、四代前の巫女姫が残した記録。


(ただの日記でしたってオチが一番怖いな…………いやいや、前向きに考えろって)


 握りこぶしを作って何度か瞬いた。三度目に瞬いた後、いきなり目の前に顔があった。


「ヒサヤ」

「ぅわっ」


 のけぞる。

 深い輝きを放つ黒い双眸に何故か心がざわついた。こちらの心中を知らない美女は艶やかな唇を動かした。


「何だその声は、人を化け物みたいに。長いこと呆けていたが、そんなに滝神さまが素晴らしいか?」

「……壮大だなとは思っているよ」

「そうかそうか。さっき滝神さまに語りかけていたな。我らが母神と語らう気になっているとはいいことだ」


 巫女姫サリエラートゥは嬉しそうに頷く。内容までは聴こえなかったのだろう。


「ほら、入るぞ」


 サリエラートゥが滝の後ろの洞窟へと繋がる横道を指差した。彼女の背中に続いて久也は歩き出した。

 入り口に至り、気付く。

 今朝の凄まじい死臭がなくなっている。

 換気なんてできるはずがないのに、暗闇の中を歩けども歩けども、確かに鼻腔は仄かな水の匂いだけを拾っている。ならば空気は何処へ流れて行ったのか、いよいよオカルトじみてきた。


(俺が認めようとしないだけで、最初からオカルトだったんだな)


 祭壇の前、生贄だったパーツが消えて行った穴の中身は今どうなっているのだろうか。懐中電灯があったなら、照らした先には土のみが見えるのか――?


「ていうか、灯り使わないのか」


 さも当たり前のように手ぶらで闇の中を進み始めたサリエラートゥに向けて言った。こっちは壁に片手をつけてついていくのに必死だと言うのに。一本道だとわかっていても、足元が覚束ない。時折聴こえてくる動物の鳴き声も気になる。


「ん? しょっちゅう行き来しているからな、鍾乳石の位置だって見なくてもわかる。誰かが一緒なら松明を使うが」

「真っ暗じゃあ粘土板も見えないぜ。指先で文字を読み取るのはちょっと無理がある」

「はっ、そうだったな。祭壇に着いたら点けよう」

「!?」


 サリエラートゥがいきなり後ろを振り向いたらしい。姿が見えないので判断材料は吐息の微かな熱。

 それから壁を伝わせている右腕に何かが押し寄せた。袖の布越しに革の感触があり、その先にはやわらかいナニカが――


「急に黙り込んでどうした」

「……………………それを俺に訊くのか」

「は?」


 若い女がいかに無防備な生き物であるかは以前からそれなりに理解があったのだが、流石にこの状況は信じられない。男の腕に胸を当てていて気付いていないのか、意識していないのか、どちらであっても他意は無さそうだ。

 左手を回せば少女はすっぽり腕の中におさまる。壁に押さえつけることも簡単。

 暗闇で美女と二人きり。

 振って沸いた馬鹿げたシチュエーションだが、久也とて恋愛感情と関係なく美人は普通に好きだ。何より風呂上がりの石鹸の香りに当てられて――少し先で人間の死体が解体されたというこの場所の異常性を忘れてはいけないが――そもそもその解体を行ったのがこの少女――今ここで腕を回して少しくらいぎゅっと抱き締めたって不可抗力――きっとさぞややわらかいはず――――


「だあああああっ! アウトォ!」

「な!? 急に叫ぶなヒサヤ! 近い! あとこだましててうるさい!」


 久也はどこかに残る理性を総動員して五歩ほど後退した。


「ど、どうしたというのだ」

「なんでもない。さっさと先を行け」

「言われずとも行くさ」


 暗闇から不機嫌そうな声が返った。が、構ってなどいられない。


(あ、危ない。調子に乗って押し倒そうもんなら……)


 クニのお姫さまに手を出したら最後、どんな報復に遭うのか。気温の低さとは違う理由で寒気に震えた。

 拓真には絶交されるだろうし、何より巫女姫本人に背負い投げの一つも喰らわされたって文句は言えない。最悪ボコボコにのされるか、刺し殺されかねない。どれほど美味しそうでも、世の中には絶対に触れてはならない領域というものがある。

 幸い、祭壇の前に着いた頃には元通りに落ち着いていた。


「確か例の代物は物置棚にあったはず」


 チッ、と火打石を打ち合わせる音がして、松明に炎が点った。巫女姫の顔が至近距離から照らされる。手ぶらだったのにいつの間に手にしたのか、彼女はそんな物の在り処まで見なくてもわかるらしい。

 明かりに目が慣れた頃には、サリエラートゥは粘土板を一枚手にして戻ってきていた。

 久也は差し出された粘土板を受け取った。ひと時流行っていたネットブックを三倍のぶ厚さにしたサイズである。両面にびっしりと記号がしたためられている。


「この単調な見た目、文字のバラエティの数……ヒエログリフよりは楔形文字に近いな。アッカド、シュメール……よりはウガリット語か。似てるってだけで、表音文字なのか表意文字なのかで大分見方が変わるけどな。楔形文字だと上代日本語みたいに入り混じってたりするし」


 文字の窪みを指先で追ってみた。


「また呪文の羅列か?」

「神の力が使えるアンタに呪文とか言われるとなんか笑えるな……。俺と拓真の元いた世界で、こういうのに似た文字は過去に使用されていたんだよ」

「それは誰もに伝わる一般知識なのか」

「いや、ただの趣味で調べた」

「趣味でそんなにわかるとは驚きだ」

「平たく言えばそういう世界観なんだよ。いわば情報時代って奴で、どんな発展途上国でもネット環境さえあれば知りたいことは大抵知ることができる。例外があるとすれば情報が管理されてる国か」

「ネット? 『網』? 網の整った環境で情報を教えてくれる人間を釣るのか?」


 腕を組んで首を傾げるサリエラートゥ。


「……やべえ、わかるように説明できる気が全くしない」


 文字の素晴らしさですら説明しきれなかったのに、インターネットという発明は更に数段階飛ばしている。無線機や携帯電話という意思疎通用の機器から始めた方がいいかもしれない。それ以前に、通信という概念の重要性が伝われば良いのだが。


「まあいい。私も説明されてもわかる気がしない。それより、お前にはそこの粘土に彫られた記号が読めるのか?」


 サリエラートゥの視線が粘土板に集中する。心なしか黒い瞳に期待が光っている風に見える。


「残念、今のままでは解読不能かな。たとえウガリット語だったとしても、別に俺は暗記してる訳じゃないし。たとえ記号の音が読めたとしても言語がわからない。東の言葉が読める人間は集落に居ないのか?」

「東の民と血筋が混じった子孫は居ると思うが、読み書きできる者は居ないな」

「そうか」


 元々読み書きできる人間が居たとしても、きっと周りが使わないから忘れたのだろう。使われない技術とはそういうものだ。


「こればっかりは、神力でもダメなんだな……」


 と呟いたら、サリエラートゥが頭を振った。


「神力は意思と意思の間の架け橋になる。対象が人間でも動物でも、意思が強ければ通じる。だがその粘土板は古い上に、作った人間がとうの昔に世を去っている。それはただの焼けた粘土の塊だ」

「待てよ、その理論なら書いた当時は確かに意思はあったはずだ。文字を彫った彼女は何かを想いながら尖筆スタイラスを手にしたんだろ」

「薄れてしまった意思を呼び起こして通じさせると? 可能かどうかはわからんが……」

「他に方法はなさそうだ。これから洞窟に通い詰めて解読してみる」

「通い詰めるのか」


 はっ、と久也は少しだけ笑った。


「水の中を除いて集落一涼しい場所だし、最大限に利用させてもらうぜ」

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