滝神さまの御座す郷

甲姫

A. Introduction

00.はじまりは転落

 空一面が、暗雲に覆われている。

 八月といえば大雨が毎日のように続く時期で、しかも今晩は台風が上陸するのだと、先ほどタクシー内でラジオ予報が告げていた。

 そのせいだろうか、海が一望できる遊歩道はすっかり寂れていた。普段なら賑わっているはずの料理屋など全て店じまいだ。

 残る人影は三つ。長い手足がほっそりとした一人の女性と、彼女の数歩後ろについていく二人の青年だ。

 一同はレインコートを着込んで、強風の中でも根気よく歩を進めている。


「……台湾って、常夏の国じゃなかったっけ」


 ガードレールに近い外側を歩く青年、小早川こばやかわ拓真たくまは隣を歩く親友に聴こえるようにぼやいた。


「気温で言えば十分夏だぜ。ただ、北部は年中雨降りまくるってだけだろ」


 朝霧あさぎり久也ひさやは旅行前の下調べ中にインターネットから拾った情報を、記憶から呼び起こして答えた。

 確かに雨が降り出す午後一時くらいまでは蒸し暑くて外なんて全然歩けたものじゃなかった。

 と言っても、わざわざ窮屈な飛行機に乗り込んでしかも貴重な夏休みを使ってまで旅してきたのだから、どんな天気だろうと出かけたいのが本音だ。

 だからこそ彼らは雨天によるタクシー渋滞(晴天であればほとんどの人が徒歩で駅まで行き来するので車道がくらしい)に耐え、徐々に増えつつある雨粒の攻撃にも耐えている。

 が、今日の外出目的は観光などではなかった。元はといえば観光の方がついでであって、崖まで続く坂道を上る用事は別のものだった。

 青年たちはなんとなく、先を足早に歩く女性の小さな背中に目をやる。


「ホントによかったのか、拓真? 俺までついてきて。藍谷あいたにサンは、お前しか呼ばなかったんだろ」

「うん、でもせっかく台湾だし。かおりちゃんもわかってくれたよ」


 拓真はそれしか言わなかったが、意味はちゃんと久也に伝わった。

 要するにこの二人、拓真と久也はいつもつるんでいる。中学生時代からの縁で、学年や学部は違うが、大学では頻繁に昼食を一緒に食べている。どっちも実家から通っている上、その実家も近所同士だ。

 拓真が海外旅行に誘われて久也を呼びたいと考えるのは自然な流れ――そう彼女に説明したら納得してくれた。大学が分かれて以来は会わなかったと言っても、香と拓真とてランドセルを背負っていた頃からの幼馴染である。当然、彼女は久也を知っていた。

 その藍谷香が先の方で足を止め、くるりと振り返る。フードが風にさらわれ、茶色に染めているショートヘアがぐしゃぐしゃに乱れている。


「風車が見えたわ!」


 目指している場所が近いことを彼女は声を張り上げて告げた。

 目前の丘は島中の北部でも特に風の強い場所であり、そのため発電用の風車がいくつもそびえ立っている。天気の良い日はここでくつろぎたいと考える人間も多く、それゆえ崖の上だというのにテラスにピクニックテーブルが並んでいる。三人はゆっくり、ゆっくりとテラスまでの道のりを上った。その間ずっと、ムゥン、ムゥン、と巨大な風車たちが低い音を立てているように聴こえた。

 こげ茶色に塗られた木製のテラスは椅子やテーブルがシンプルながらにも雰囲気が良い。テーブルにはそれぞれチェック柄の日傘が着いていて、こんな天気でなければ可愛らしく広がっていたことだろう。

 物思いに耽るように、香は一人でテラスの端に立って崖下の海をぼんやり眺め出した。他の二人は適当にテラスの上をうろつく。


「ねえこの看板、なんて書いてあるの?」

「請……不要……えーと、『飛び降りないで下さい』かな」


 拓真の質問に久也が答える。二人とも外国語に興味があって趣味で色々触ったりするが、感覚で気が付けば喋れるようになっているのが前者で、文字や文章の読解力が高いのが後者だ。


「実は自殺の名所ってこと?」


 バツの悪そうな顔で拓真が訊ねる。

 注意書きから連想できることといえば、まずそれだ。その言葉に香が過剰に反応した。


「お兄ちゃんは自殺したんじゃないわ!」


 振り返ることなく彼女は絶叫する。


「香ちゃん、おれは別にすぐる兄ちゃんがそうだったって言いたいんじゃないよ……」


 拓真の語尾が消え入るように沈んでいく。

 無言で拓真と久也は顔を見合わせた。今回の旅の真の目的を思い浮かべる。

 藍谷家の長男、藍谷英は十年前の八月二十八日に旅行先の台湾にて消息を絶った。彼と最後に電話で話した台北住まいの知り合いによれば、この風車の丘を訪れたらしいことだけがわかっている。

 あれから現地の警察には勿論捜索を頼んだし、私立探偵を呼んだり、藍谷家の人間も直々に何度か捜しに行っている。にも関わらず、十年の間、どれだけ海を探っても手がかりの一つ……遺書や本人が履いていた靴ですら、見つかることは無かった。


 ――さすがにもう、葬式を挙げてやろう。


 今年に入ってから香の両親や親戚がそんなことを言い出した。香は断固として受け入れなかったが、反対を押し切ることはかなわず、とうとう夏になってしまった。

 せめて現地に赴いて気持ちの整理をつけたい。香はそれを願って、葬式の日時が迫る前に台湾に行こうと計画を立てた。

 ところがいざとなると一人で行くのは心細く感じる。

 そんな香にとって十年前に失踪した兄は、近しい友人との会話では話題にしづらく、事情を知っている友達は数少なかった。

 そこでかつては英ともよく遊んだ幼馴染の拓真に白羽の矢が立った――。


「そうよ。お兄ちゃんはきっと神隠しにあって、十年経った今だからきっと戻ってこれる。だって、自殺でも事故でも無いのなら、他に何があったというのよ。帰ってくるわ、絶対」


 非現実的な妄想を生み出している香に対して、二人の青年は苦笑し合った。


「なあ、藍谷サン。そんなに崖っぷちに立ってると危ないぜ」

「久也の言うとーりだよ香ちゃん、もっとこっち来なよ」

「イヤ」


 聞く耳持たないのか、彼女は微動だにしない。


「香ちゃん…………」


 困惑気味に拓真が再度声をかける。香は頭を振るだけだった。

 そっとしておいてあげるべきだ、そう考えて二人の青年は崖から離れる。

 各々、レインコートのポケットに手を入れ、思案した。台風が訪れるのは今からどのくらい先だろうか。いくら時間が惜しいからって、着いたその日に崖に行くことなかったのに。天気が崩れるとわかっていながら、無茶だ――


「きゃあ!」


 突風が丘を吹き抜けたと同時に、香が小さく悲鳴を上げた。

 拓真と久也は慌てて振り返る。風に当てられたせいか、香がよろめいているのが見えた――手摺りに手を伸ばしてもうまく掴めず、濡れたテラスの上で足を滑らせている。

 迷わず二人は走り出していた。元々足が速い拓真の方が先に香の傍まで駆け寄り、その細腕を引くことができた。位置を入れ替わるように、崖っぷちから引き離した。遅れてやってきた久也はしっかりとした足取りで手摺りまで近寄り、確かめるように触れた。


「こんな低い手摺りだけじゃ心もとな――」


 久也が言い終わるより先に、メキメキと何かが壊れる音が響いた。

 音を出しているのは手摺りではない。

 次に久也は目線を下へ落とす。足元の木板そのものが崩れていくのを、信じられない思いで凝視した。古びていたようには見えなかったのに。


「えええ!?」


 今度は久也の腕を掴もうと身を乗り出した拓真だが、彼の足元もまた確かではなかった。

 すなわち、同じように崩れている。


「う、嘘!」


 どうしていいかわからず、香は無意識に後退った。

 まるで映画のワンシーンみたいに、全てが無意味にスローモーションに映る。


 ――落ちて行く。


「拓真! 朝霧先輩!? 嘘でしょ、拓真――――――――!」


 呼んだ瞬間、スローモーションが解けて二人は視界から消えた。

 間髪入れずに暗い空に一瞬の眩い閃光が走り、数秒遅れで雷の音が轟いた。

 やがて木板の崩れが止まっても、しばらく藍谷香は足が竦んでその場から動けずに居た。





 怖がるどころではない。死が目前に迫っていると、逆に頭が冴えてしまうこともあるらしい。

 どんどん近付いてくる映像は海面の包み込むような揺らめきではなく岩場の激しい尖りである。即死の予感しかしない。

 久也は恐怖を超越した状態の妙に冷静な頭で、「二十一歳で人生終了か。ゴメン母さん、朱音あかね」と母と妹に謝罪していた。自分亡き後、二人だけで家庭を保っていけるのかひどく不安だが、圧迫された肺や胃が酸素もろとも不安を奪っていくようだった。

 諦めの境地とはこういうものか。己の腕を掴んだままの親友の面貌をちらりと見て――驚愕する。


「うひょおおおおおっ! 超コエェエ! 超楽しいぃいいいいい!」


 拓真はジェットコースターに初めて乗る子供ばりに興奮している。


「喜びすぎだ! ちょっとは儚い命を惜しめ!」


 呆れて叫び返したが、納得もしていた。拓真は底なしに前向きで、何気にスリルが好きな奴だ。そういえばパラグライディング経験者だった気もする。が、それとこれとは別問題なはずである。


「やっぱここで死ぬんかな! ゴメン久也、最期がおれなんかと一緒で! でも面白い人生だった!」

「……まあ悪くはなかったな。同意せざるをえない」

「でしょ! ひゃっは――――!」

「人の腕で『ひゃっはー』すんな!」


 ――以上が、二人がこの世で発した最後の言葉となった。

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