綾 ―あや―

秋風

第1話

空には月が登っていた。青い夜に浮かぶ満月はいつだって闇を見ている。低層のビルの並ぶ間を走る梳理麝香くしけずりじゃこうをも、月は捉えていた。


「そっちが手を出したのが先だもんな、仕方ない」


 麝香は走っていた足を止める、手を繋いでいた隣の子供もストップする。子供は逃げていたはずが反撃に出ようとする麝香に逆らわず背後を見据える。自分が黒い眼鏡の集団の、悪っぽい匂いのする取引現場を見てしまったが故にこんな自体になってしまった。申し訳なさそうに子供は麝香の脚にしがみついた。

 対峙する追っ手は数人。黒い背広に手には拳銃を構えている、中身は麻酔弾かと思いきや先程牽制に実弾が飛んできたので非常に面倒くさい玩具だという証明はなっている。

 麝香は丸腰で拳銃に向かい拳を固める。無謀にも素手で凶器の前に立ったのだ。


「面倒くさくなった、全員殺す」

「殺せばどうなるかわかっているだろう?」

「殺したら消える」


 そう、この世界、一巡いちめぐりでは人を殺すと己も消える。何故、と問われても学者ですら答えられない。説明がつかない故に神仏のルールや霊的な現象、或いはそれが世界の仕組みだと投げ捨てる。

 つまるところ人を殺すと己が死ぬは直結だ。――だが、麝香はそれを一蹴した。


「それがなんだ? 俺は梳理麝香、赤の一族だぜ?」

「気狂いが……野蛮な血の一族め」

「そう、その表情だ、俺は野蛮で血を求める赤の一族だ、闘争と殺戮こそ本懐だ」


 彼は赤の髪を見せつけるように笑う、――瞬間、踏み込んで先頭に立つ黒背広の腕を叩き落とす。


「ぐあっ!」


 本当に銃口の並ぶ正面から突撃してくるとは思わず先頭の黒背広は拳銃を落とし更に蹴りを背中に受ける。沈んだ黒背広の沈黙を合図に他の黒背広が一斉に射撃の体勢に入る。


「アホか、こんな至近距離で発砲したって――」


 赤い目が消える、次の瞬間背後に現れる。嘲笑いながら一人を羽交い締めにし首を絞める。


「もう当たる筈ないだろうが」


 気管が圧迫され腕の中で黒背広は失神する、他の黒背広は失神した仲間が邪魔で拳銃を撃てないでいる。


「妙な仲間意識はあるんだな、ははっ、まぁ読み通りだけどさ」


 彼は一人を盾にすれば他は攻撃を躊躇うという弱みを読んでいた。先程一斉射撃の体勢に入った時、そんな構えに入らずさっさと撃ち殺せばいいものをわざわざ時間を掛けて照準を合わせた。最初に潰した男を同時に撃ってしまう事を恐れたのだ、そして


「お前らの脅しは芯の入ってない草っぱみたいだ、つまりハリボテって事さ。殺したら消えるという世界法則を口にしている時点で三流だ、かの幽玄という組織は他人にも自分にも許可を取らない、消えるという事を最終目的にしても冷徹に引き金を引く。それに比べお前たちは人間臭さが滲み出ている、仲間を案ずるだとか消滅を怖れるだとか、その程度でこの俺を追いかけられても困る」

「くっ」


 弱々しく腕を下げていた事実に図星を付かれたのだと黒背広は気付いてしまう。拳銃はその通りに玩具だった、人を殺す気概を持てないが故のハリボテ、少々凄みを見せつける玩具でしかないのだ。


「クソがっ!」

「撃ってみろよ弱虫が」

 

 野蛮な赤い一族が腐りきった表情で煽る。わざとらしく手で拳銃の形を作りバーンと撃ってみせる。

 あまりにも虚仮にされては流石にキレる、相手は顔を真っ赤にする。


「舐めるなよおぉぉッ!」


 叫んだ一人の黒背広が激高で我を忘れる、こうでなくっちゃ楽しくない! こいつは撃つなと余裕と期待を抱き麝香は楽しそうに盾にしていた黒背広をぶん投げる。盾が投げられ無防備になった全身に銃口が狙いを定める。


「煽り耐性のなさはいかしてるが、いかんせん愚図だ!」


 拳銃が叩き落とされたと気付いた瞬間黒背広の後頭部が掴まれ下から顔面を蹴り上げられる、鼻骨が砕け鼻血を流しながら黒背広は手を振り回す、その手に麝香が捕まる事はなく、鬱陶しい腕を面倒くさそうに掴み関節とは逆の方向へ曲げる。


「ぎゃぁぁ!」


 折れた腕と鼻血を垂らしながら黒背広は転がる、トドメに顔面を踏み付けておく。

 この時点で彼は拳銃を所持した集団の三人を沈静化させていた。残るは一人。


「動くな!」

「おっと忘れていた」


 黒背広は麝香の背後であるものに拳銃を突きつけていた。


「動いたら撃つぞ」

「撃てば?」


 麝香が見捨てようとしているのは、共に走っていた幼い子供だった。彼は子供を意に介さず告げる。流石にそれははったりだろうと黒背広でも読める、手を繋いでまで逃がそうとした子供、何かしら情を抱いているに決まっている。黒背広はこのまま押し切れると強気に脅しを続ける。


「手を上げろ」

「ヤダ」

「ふざけんな! 子供が死ぬぞ!」

「だから死ねって。最初に言っただろ? 面倒くさくなったんだって、走るのもツカレタ、そいつをさっさと始末してくれた方が俺はもっと自由に動ける」


 こんな事があっていいものか、あまりにも非情だと黒背広の方が嘆く。赤い一族は子供が撃たれても背負っていた荷物がなくなった程度の損害で、むしろそれにより身軽に動けるようになるというのだ。


「信じられない、これが赤の一族か」

「血と戦を求める野蛮な一族、そう最初に自分で言ったろーが。血祭りになってくれんならそれ程楽しい事はないぜ」


 黒背広は悟った。非情で、暴力的で、殺さない殺戮を好み人を傷付け愉悦になる。赤の一族とは見た目通り血に濡れた一族だ、こいつらに関わったが最後碌な事にはならない。

 黒背広はもはや子供に人質の価値はないと判断し突き放す、銃口を赤の一族に向け自分の逃走経路を探る。

 赤の一族は無言。


「どこにいくんですか?」


 幼女の甘ったるい声だった。黒背広はびくっとし、甘ったるい幼女の声の発生源を探す。今まで頭に拳銃を突き付けていた子供が目の前で佇んでいた、幼女の唇が再び愛らしく開く。


「殺して血を舐めさせろ」


 あり得ない言葉だった。丸くて愛らしい顔からそんな言葉が漏れるなんて、似つかわしくないが故に恐怖を齎した、幼女の銀の髪と青い目が月夜の中こちらを向いて光を放つ。


「お前は馬鹿だな」

「なっ……」

「逃げるならさっさと逃げろ」


 子供に気を取られていた隙に赤の一族に接近されていた。黒背広は蹴り倒され地に這いつくばると同時に背中を踏みつけられた。


「お前は馬鹿だ」


 先程の台詞を繰り返す。


「言葉の使い方が間違ってる。殺して血を舐めさせろじゃなくて、正しくは死んで血を寄越せ、か、殺してからたっぷり舐めてやるよ、だ」

「はーい」


 子供は勉強になりましたと呑気な返事をしてから、踏み付けられている黒背広の頭の横にしゃがむ。可愛らしい指がつんと黒背広の頭をつつく。


「きッ!」


 繋がれた猛獣が檻の外の人間に噛み付こうとするように黒背広は子供に歯を剥き出す。

 二発、銃声がする、麝香は奪っておいた拳銃で容赦なく黒背広の両太腿を撃ち抜いた。


「ぐあぁぁぁ!」


 身悶える黒背広の傷口に更に靴底を叩きつける、その非情さは卑劣に過ぎる。


「ちー」


 子供は銃声と悲鳴に恐れることもなく、黒背広の足元に回り込み、今々空いた丸い傷口に指を突っこみぐりぐりとほじくる。小さな指が穴の中で肉をかき混ぜる。


「がぁァァァァ――!」


 痛みで脳が焼ける。たのむ! もう止めてくれ! と何度も叫ぶ、自分より遥かに小さい子供に懇願する姿は滑稽だ、それだけの痛み、プライド等かなぐり捨てた、大人の惨めな姿だった。


「な、なんなんだ」


 回復した先方の黒背広達が二人を見てただ恐怖した。


「これに懲りたら二度と俺に歯向かうんじゃねぇよ」


 コクリと頷く。誰もが何も言わなかった、言わない事が無言の承諾だったのだ。

 赤の一族は熱が冷め、殺意を脱ぎ捨てるといい加減子供の手を引いた。


「いつまでも血触ってんじゃねぇ、帰るぞ」

「はーい」


 子供は真っ赤にした指を口に突っ込む、戦慄するような光景に黒背広達は引き攣る。


「血うまーい!」


 幼女の口元は、柔らかい指と唾液の音で湿っていた。

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