第4話 【タケシ】9月29日(水)

 この日の晩は予想外の出来事に見舞われた。

 なかなか帰らない先輩がいたので、会社を出るのがいつもより十分も遅くなってしまったのだ。

 僕はいつもの三倍のスピードで帰り支度を済ませタクシーに飛び乗った。その直後、会社の鍵をかけたか不安になったけど、どうせ朝一番に出社するのは自分だ。そんなことは気にせずに、運転手をせかすことで手一杯だった。

 二十一時を二分ほど過ぎて電話をかけた。サリナは出なかった。こんなことは今までにない。もしかして怒っているのではないかと心配したけれど、すぐに折り返しがあった。平然とした声で「ごめん、ちょうどトイレ」と笑っていた。

 安心すると一気に疲れが出てきた。すぐ次の瞬間に「聞いてよー」とサリナが仕事の愚痴を始めるとみるみる疲れは身体から抜けていった。

 勤め先の花屋に気持ちの悪い男の同僚がいて、そいつがサリナのエプロンを隠したりくだらない嫌がらせをしてくるらしい。

 サリナはとにかく怒っていたけど、僕は美人と付き合うとこういう面倒ごとが増えるんだろうな、なんて思っていた。

 いつの間にか話題は、自分だったら大事なものをどこに隠すかに移った。

「わたしはね、大きさにもよるけどトイレのタンクの中かな。タケシくんならこの家のどこに隠す?」

 一瞬、心臓がドクンとなった。だけどこれはただのクイズにすぎないと言い聞かせる。

「僕だったら、天井裏とか床下に隠すかな」

「そんなとこまず探すじゃん。もっと意外なとこじゃないとダメでしょ。他はないの?」

 サリナの言いぶりがどこか僕を突き放したもののように聞こえた。

 僕はあの家における最高の隠し場所を知っている。だけれどもそれを教えるのはリスクが高い。でも、サリナにがっかりされるのはもっと嫌だ。

「……庭、かな」

 僕はサリナに認められることを選んだ。

「庭!」

「埋めるのは大変だけど、全部掘り起こすのも難しいし、見つけづらいと思うよ」

「そこは思いつかなかったよ。タケシくん、さすが! 頼れる大人!」

 サリナの賞賛をゲットして、僕はたまらなく嬉しかった。そのせいか思わぬことを口走っていた。

「そうだよ、僕は頼りない男に見えるんだろうけど、何があっても絶対にサリナを守るから」

 なんでこんな言葉が出たのかわからなかった。一度出たらもう止まらなかった。

「前の男がどんな奴か知らないけど、逆恨みで襲ってくるようだったら、僕は殺してでもサリナを守るから。嘘じゃないよ」

 自分の言葉に感動して胸が詰まった。これは嘘偽りない僕の本音だ。

「……それって、あたしのために死ねるってこと」

「もちろん」

「……信じていいの」

 サリナはすごく冷静だった。その気持ちも僕にはわかる。かつて信じて裏切られた経験がある人間は、嬉しい言葉を素直に受け入れられなくなる。まずは警戒してしまうのだ。

 だから僕は強く強く念を押した。

「僕もね、裏切られた時の悲しみはよくわかってるから。人を裏切るってことは殺されても仕方ないくらいの重い罪だと僕は思うんだ」

 自分で言ってて泣けてきた。これは僕こそが誰かに言われたい言葉だ。

「タケシくん、もし仮にアイツがうちに来たら、ケンジと名乗って。あたしの兄貴の名前だけど、アイツ相当ビビってるから手を出してこないと思う」

「わかった。ケンジね」

 彼女の心遣いが痛いほど胸にしみた。

「もうすぐだよ。わたしたちが分かり合えるまで」

 今日は9月29日の水曜日。木、金、土、日、そうだ、あと4日の我慢だ。

「もうすぐだね」

「うん。タケシくんなら明日にでもわたしのことをわかってくれると思う」

「でも、約束は約束だ。一週間、頑張ろう」

 バイバイと囁くように告げて受話器を置いた。僕は衝動を抑えきれずに、家を出た。

 ただの散歩だと自分に言い訳し、見慣れた風景に向けて足を進めた。

 スカイツリーが見える。今日のライティングは僕を応援するかのように真っ赤な光を放っていた。

 

 足取りは驚くほど軽快だった。会いに行くのはルール違反だとわかっているけど、僕には確信があった。そんなルールに収まりきらない気持ちの爆発をサリナは優先してくれるってことに。

 三日ぶりに見たフローレンスコーポは陰気でジメジメしてなんとも言えない薄気味悪さが漂っていた。

 築四十八年の木造二階建て、僕の部屋は一階に三つ並ぶうちのいちばん奥の角部屋だ。

「とにかく来週から住めて、最低ふた部屋」

 家出少女であるミキの条件を満たす部屋はここしかなかった。上階と隣人がいないこともこの部屋を選ぶ決め手の一つだった。

 そんなことも遥か昔の夢だったんじゃないかと思える。

 サリナの驚きと喜びが混ざり合う顔を想像するとわくわくした。それなのに――部屋の中は真っ暗で恐ろしく寒々しかった。

 もう眠ってしまったのか……。流しの窓が開いていたので少し覗いてみる。開いたままの襖の奥で、畳がめくれあがっているように見えた。

 嫌な汗が背中を伝う。おそるおそる庭の方にまわってみる。胸がチリチリと疼きだし、見える景色にノイズがかかりだす。

 庭は以前と変わらずブロック塀に沿って雑草が茂っているだけだった。角の一箇所だけ土が盛り上がっているのも変わらぬまま。

 すぐに玄関前に戻り息を整える。頭にいくつもの疑問が浮かぶ。ポケットで携帯電話が震えた。会社の先輩からだった。それは気づかなかったことにして、僕はその場から逃げ出した。

 疑問は疑問のままでいい。この場所で、なにも知りたくなんてなかった。


 部屋に戻るとサリナのクローゼットを漁った。

 真っ赤なショーツを思い切り顔に押し当てて肺が破裂するほど匂いをむさぼった。気が落ち着くとともに新たな興奮が湧き上がる。もう一度引き出しに手を伸ばし、フリルのついたブラジャーをとりだすと迷わず股間に押し当てた。

 これもルール違反だけど、この不安な気持ちを説明すれば許してもらえるはずだ。だって、僕に不安を与えたのはサリナ自身なのだから。

 そう思うと勇気が湧いた。そのまま最後まで行き着くと全ての気力が抜け落ちた。お風呂にだけは入らなきゃとずっと思いながらも目が覚めたのは朝の五時だった。

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