2. 聖女の憂鬱

 アスメイ・デンの町外れにある「紅き頂の騎士修道会」駐屯地から、夜闇に紛れて抜けだす影があった。


 聖騎士団の白い外套ではなく、カーゴパンツにTシャツというラフな服装になったナイアが、宿舎を抜けだし、敷地を駆け抜けて外へと出る。特に見張りがいるわけでもないので、抜け出すだけならわけはない。囲いを越えて敷地の外へと降り立ったナイアは、周囲を軽く見まわしたあと、街の方へと向かい、歩き出した。


 アスメイ・デンはそこそこの規模の都市だ。こんな夜中でも、人は歩いているし、店もやっている。ナイアは明るい道端を、ふらふらと歩いてその場所へと向かっていった。


 目抜き通りから路地を入りこんだ先、1階がカフェになっている雑居ビルの、外から地下へと降りる階段。そこへ近づけば既に、下腹部に響く低音が聴こえ始める。


 階段の上に、申し訳程度に設えられた看板が、暗い道に光を投げかけていた。「TRAX」とある。それが店の名前だった。



「やあナイア。久しぶりじゃないか?」


「うん、ちょっと街を出てたから……その、仕事で」



 重いドアを開けたところにカウンターが設置され、顔なじみの店員が入場料を取っていた。



「今日はエドワウもプレイしてるよ。この後だ」


「そうなんだ。来て良かった」



 ナイアはポケットから札を取り出し、入場料を支払った。騎士修道会の団員は財産の個人所有を認められていない。しかし、生活をする上で必要になる現金は支給されたし、備品を持ち出すなど、金を作る方法はいくらでもあった。みんなやっていることだ。


 フロアには、暗い空間にレーザーとスモークが走り、音の奔流が荒れ狂っていた。一段高くなった奥のDJブースでは、若い男がタブレット・コントローラーを操作し、この場に流れる音楽を操っていた。前に声をかけられたことのあるDJだ。名前はなんといったか――


 まあいい。そんなのここではどうでもいいことだ。


 ナイアはサーブ・ドロイドに金を入れ、アクラム・トニックを注文した。ドロイドは滑らかな動きで、グラスの中に数種類の飲料を混ぜ、カクテルを作る。



『お待たせしました、レディ』


「ありがと」



 合成音声に対して律儀に返事を返し、ナイアはグラスに口をつけた。冷たい口触りと甘さをかきわけ、炭酸とアルコールの刺激が鼻腔へと突き抜ける。


 ナイアはグラスを片手に持って、大音量で奏でられる音楽に耳を傾ける。電子音のビートが繰り返されるダンス・チューン。複雑なリズムにベースが絡んで観客を弄ぶかのようなこのサウンドは、最近の流行りらしい。


 ナイアは目を閉じ、音楽に身体を預けた。

 周囲では幾人かの人影が同じようにして踊っている。

 どこの誰で、どんな身分の人間であろうと、音の中で踊る人影のひとつとなってしまえば、なんの意味もない。このフロアにいる限り、人はみな平等だった。


 昼間の光景が脳裡に浮かんで来た。


 辺境の集落。遺跡の狭間に暮らす人々。そしてそれを見降ろす、白い機甲全身鎧フルプレートの一団――


 音に合わせて足がステップを踏み、身体を揺らしているうちに、そのイメージはいつの間にか、消えてしまっていた。


 * * *


「今月、給料でなくてさ、金ないんだよね」


 ひとしきり踊ったナイアがフロアから引き揚げ、ラウンジスペースのソファに腰を下ろしていると、周囲の常連客たちの輪に自然と参加する形になった。フロアと続いたラウンジスペースにも音楽は響いているため、会話は自然と大声になる。



「もう限界っぽいし、転職しようかなと思っててさ」


「デズの工場とかは? 戦争が起こりそうだってんで、人手足りないみたいだよ」


「やめといた方がいいよ~、あんまり面白い仕事じゃないぜ」


「お前んとこは領地持ちだからいいけどさ。こっちは働かないといけねーの」



 様々な身分の人間が同じ立場で話ができるのが、こういうアンダーグラウンドなサウンド・クラブのいいところだ。ナイアはそのやり取りを眺めながら、3杯目のアクラム・トニックを飲んでいた。



「実際、どうなるんだろうなぁ、これから……」



 誰かが呟いた声に、その場の皆は黙ってしまった。


 ここ、アスメイ・デンの街も決して、景気がいいとは言えない。交通の要所に建てられた自由都市としてかつては隆盛を誇った町ではあるが、周辺で王侯たちの紛争が多くなってからは流通が滞り、街は寂れ始めていた。


 加えて、教皇庁と皇帝の間がキナ臭くなっている情勢でもある。


 若者たちの間には厭世観が漂い、街を出る者も多かった。



「おーっす」



 能天気な声を出しながら、その輪の中に入って来る者があった。振り向き、見ると、背の高い金髪の男がグラスを手に立っていた。



「遅いよ、ヤオ」


「君らと違って、俺は忙しいの」



 ヤオと呼ばれた男はそう言いながら、ナイアの隣に座った。初めて見る顔だった。軽くグラスを掲げるヤオに、ナイアは軽く会釈を返す。



「ヤオ、いつものやつやってよ」



 浅黒い肌の女がナイアの逆側から、ヤオにしだれかかるようにしながら言う。ヤオは苦笑いをしながら、肩にかけたバッグを開き、中からなにかのケースを取り出した。


 不思議そうにそれを見るナイアに、ヤオはにこりと笑って言った。



「これ、『未来』ね。君もいる?」



 そう言いながらヤオは、ケースから小さなパッチを取り出す。裏面の保護シールを剥がしたそれを、女が袖をめくって見せた浅黒い下腕に、張り付ける。


 女はそれを大事そうに撫でながら、恍惚とした表情で目を閉じ、ソファに深く腰掛ける。



五次元幻覚剤アイテール・スティムだよ。未来が見えるんだ」



 ナイアの正面に座った男が、ヤオに金を渡し、パッチを受け取りながら言った。



「いいよ。美人にはタダであげる」



 ヤオはナイアにもパッチを差し出した。



「ちょっと、私からは金取ったじゃない!」


「そうだったっけ? それじゃ一杯奢るよ」



 ナイアはそのやり取りの横で、手のひらに乗せた小さな円形のパッチを眺めていた。


 この手の薬物は戒律で禁止されているものだった。もっとも、駐屯地を抜け出して酒を飲んでいる今、それを気にしても仕方がないと言われればその通りだ。


 周囲では、皆が次々と腕にパッチを張り付けていた。それぞれに目を閉じたり、またはフロアに踊りに出たりなど、思い思いに楽しんでいるようだ。



「……怖い?」



 ヤオがナイアの顔を覗き込んだ。ナイアは少しムッとした。



「そういうわけじゃないけど、こういうのは、ちょっと……」


「お、そういうの厳しい系? 宗教上の理由とか?」


「……」



 自分が「紅き頂の騎士修道会」の聖騎士であるということは、ここの仲間たちにはさすがに話していない。ヤオは歯を見せて笑った。



「無理にやらなくてもいいよ。でもこれはどっちかっていうと、占いみたいなもんだから」


「……占い?」


「そう。確かに興奮剤みたいな作用はあるんだけど、カフェインやチョコレートくらいのものしか入ってない。未来が見える、っていうのはおまじないや方便みたいなものでね」


「でも、それならなんでみんな……」


「……きっと不安なのさ、みんな」



 ヤオはそう言った後、ちょっと失礼、とソファを立ち、ドリンクカウンターの方へ向かっていった。


 ナイアは手のひらの上の白いパッチを眺めた。



「未来、か……」



 ナイアはパッチの裏の保護シールを剥がし――その白い左腕に、貼りつけた。



「……!」



 パッチを貼りつけた腕から、火花のような感覚が散る。しかしそれは決して痛みや刺激ではなく、むしろ甘味のような感触を伴い、ナイアの全身を侵食していった。



「……あ……あ……」



 その甘味が頭部に達し、ナイアの脳裏にビジョンを結ぶ。自分の頭の中に力場映像フォース・ビジグラフが投射され、それを自分で見ているような奇妙な感覚だった。


 そのビジョンの中で、ナイアは街を眺めていた。


 より正確に言えば、それはナイアの眼ではなく、もっと大きな身体の眼で、そして眺めているのは町ではなく――だった。


 崩れた建物、瓦礫に覆われた道、そして燃え盛る炎と、倒れた人々。


 破壊と混乱に覆われ、街はその姿を廃墟へと変える途上にあった。


 ナイアは足を踏み出した。


 その足元で、動くものがあった。


 ひとりの子供が、ナイアの――いや、巨人の足元で泣いていた。


 その傍らには、その母親と思しき、焼け焦げた――



「……ッはぁ!」



 吐き出す息と共に、ナイアはサウンド・クラブの中へと戻っていた。かかっている音楽は先ほどと変わっていない。周囲の若者たちは思い思いに喋り、酒を飲み、音楽に身をゆだねていた。ヤオの姿はどこにもない。



「……あれが、未来……?」



 ナイアは下腹部からこみ上げる苦いものを抑え、グラスを煽った。


 自分の腕が目に入った。白いパッチは、どこにも見当たらなかった。

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