裏通り-上-

 少年は首をひねる。大きな黒い傘を背負うようにさしている。そんなに大きな黒では、どんな見事な快晴も都会の夜空へ変貌してしまうだろう。雨降る路地に立ち尽くしたまだ幼い顔立ちは、くるり後ろを振り返った。本来ならば存在しているはずのそれを探したのである。大きな藍色の両目がちろ、ちろ、右往左往に揺れて、それから瞬きをした。傘を首と肩で挟む養子にして、両手で目を擦る。それから開いてきょろり辺りを見回した。薄い唇がわずかに開き、名前を呼ぶ。

「隘路」

 脇で両手を挙げた招き猫が、おわあう、欠伸をひとつ。どこからか懐かしい香りが漂う。

 どこかで見たことのある何か。

 とつとつと雨が、少年の手に持つ夜空に降りかかる。電灯は少年に目を向けて、顔を向けて微笑んでいる。民家の格子の中から光が漏れて路地を照らす。どこかで見たことのある何か、それが一体どこだったのか、依然としてわからないままに、少年はゆっくりと右足を前へと踏み込んだ。

 ぐわ、ぐわ、ぐわ。

 三本足の蛙が銭を口に咥え、ぐわ、ぐわ、鳴く。とぐろを巻いた白蛇の像が、首をうんと伸ばして舌を出す。福助が腰を曲げて、目を細めながらお辞儀をする。動くはずのないものが、視界の端で蠢いては、目を合わせるたびに動きを止める。そんな枯れ尾花。ぶら下がった裸電球、たまに覗く大きな目。懐かしい匂い。一歩、一歩とゆっくりゆっくり自らの動きを確認しながら、少年は歩いていく。

 もう少しで路地を抜ける、というところで、少年の頭上で何かが煌めいた。

 看板。

 周りを赤、黄、橙の電球が彩る。ちかちかと点滅して目立たせる。味わい深いレタリングで表された文字で書かれた目を見張る文章。

 少年はそのアーケードの入り口を、潜った。


 ––––––ようこそ裏戸檻





「如何した、何故此処にいる」

 路地の抜けた先で出会ったのは、緑色とも茶色ともつかない不思議な色の外套を着て目を包帯で覆ったやけに背の高い男だった。

 少年は思考する。

 そうだこの男の被っている制帽は大東亜戦争の折の大日本帝国陸軍の制帽にとても似通っている、と。外套と同じ色をした天とマチ、腰は赤でバイザーは黒。金の星。制帽のパーツ一つ一つの名前を思い浮かべながら、少年は頭を整理していく。そう、そうだ、これはやはり戦争映画で見る軍服だ。前に一列並んだボタンの外套はあまり見慣れたものではない、知識の中には存在しないものだったが、それ故に少年は《見たことがないから》––––––《そういうものだ》と、判断した。

「少年。迷ったのか」

「いえ、はい」

 曖昧な返事をしながら、少年は目の前の男の包帯に注目していた。その下から覗く頬の火傷のような、蚯蚓腫れのようなそれは少年にとって不思議なもので、どうしてそれがそこにあるのか、やけにしこりが残る。目を離せないでいると、その視線に気がついているのかいないのか、男は少年に問いかけた。

「独りで来たのか」

「隘路がいたのですが、いなくなりました」

「《隘路》というのは」

「人間ではありません」

 予想の地平にない返答だ。少年はさも当たり前かのように、眉ひとつ動かさず男に答える。男はほんの少し沈黙してから、「そうか」軽く首肯するようにした。外套の中から親指と人差し指を立てた右手が男の胸元に掲げられる。少し黄ばんだ手袋は厚そうで、何かをひたすらに押し隠すようだと少年は漠然とした印象を感じた。

「君が選ぶ可き選択肢は二つ」

 選択肢。少年はこくりと首を縦に振る。

「一つは、《隘路》をここで待つ。二つは、《隘路》を探す。どちらにしても私は君と共に行動する。君はどちらを選ぶ」

 少年の藍色が右手を映す。表情に動きが見られない、それは大人びていると捉えられがちな無表情だった。男はその奥の幼さを見抜く。

 空がどこまでも赤い。真っ赤な太陽が顔を覗かせる。反対側の空には丸い月がある。その月すらも赤い、とても奇妙な空。ネオンサインは煌々と、こうべを垂らしたアーク灯。裸電球、箒神。

「隘路を、探します」

 狐の嫁入りもかくやというように降りかかる肘傘雨が、少年と男の頭上で跳ねた。

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