件の如し-牛-

 ––––––穢らわしい。

 伸ばした手は強い力で叩かれ、白い肌に赤い色がついた。ぢりぢり、ぢりぢり、火で炙られているかのように断続した痛みが感覚を麻痺させる。手の痛覚、触覚、何もかもが赤い腫れに奪い取られて初めから存在しなかったもののように空気に霧散した。母の扇子の中に描かれた紫紺の藤が折りたたまれて姿を隠す。目を背けるように。腫れ物から顔を隠すように。

 ––––––穢らわしい。

 その扇子を忌々しそうに見て、母は舌打ちをした。やけに耳朶に引っかかったその音は、黒く濁っていつまでも耳元で鳴り響いた。扇子を振りかぶる。咄嗟に手で覆ったがそれも虚しく、投げられた扇子の端が

 ––––––化け物。

 扇子の端、が。

 左目に大きく写り込んだ。

 これ以上とない、凶器だった。




「僕は、斎藤、迷路、です。十二歳」

 やけに区切って休み休み言葉を紡ぐその話し方は、まるで六つか七つの子供のようなそれだった。違和感が先に立つ。年に合わないというよりも言葉を確認しながら話している、そんな、日の本言葉が藍色の瞳––––––斎藤、迷路にとっての異国語であるかのような、違和感。

「あなたは、あなたは、お名前は、ありますか」

「さあ。名など忘れてしもうたな」

「忘れる。忘れる、忘れる、ことは、できる、ありますか」

 舌足らずなのか、なんなのか。忘れることはできる、と返答するのもどこかおかしい。忘れられる、意図して忘れる、おそらくそれを不思議に思ってのことだろう。なんと純粋で嘘偽りのない問いか。罪深い無知だ。

「斎藤とやら」

「迷路です」

 素早く訂正された。今までの緩慢とした話し方とは打って変わった、《それはそうではいけない》という確固たる信条。

「迷路」

 言い直すと、迷路はこくり頷いた。あいも変わらぬ無表情である。瞳には異形たる己の姿のみが映っていた。

「迷路には母は居らんのか」

「ここ、ありません」

「父もか」

「ありません」

「飯は」

「お手伝いさん、くる、してくれます。家政婦、さん、くる、ご飯、つくる、してくれます」

 身振り手振りもせず、口だけが動いている。言葉以外で伝えようとは思わないのだろうか、それともそれすら、想像できないのだろうか。

 それ程までに、その目に依存しているのか。

 しんと静まった部屋の中はとても単調だ。風の音も響かず、子等の声も届かない。離れのようには見えないがしかし、明らかに音と言えるものが少なかった。人から、町から、世界から隔離された空間。それは闇と何ら変わりなく。

 夢の中と何ら変わりなく。

 翅虫の音のような、ぶうん、ぶうん、音がする。それが蛍光灯の鳴き声であると気がつくまで、少々の時間を要した。微かな羽音は光の羽音、黄色の電球が羽ばたく。

「––––––」

 じっと、瞳、虹彩、大きな目がみている。この目が逸らさないのは、この目が恐れないのは、決して勇気のためではない。腹積りが出来ているのでもない。ましてや知識のためでもない。

 恐れる必要が無いからだ。

 この目は、何ものをも恐れない。何ものをも恐れず、それ故に恐れられない。それは恐怖を得ないからだ。感じないからだ。感じる必要がないからだ。母親の胎の中に置いてきたのかそれとも、この何処までも罪深な無知によるものか。与えられない言葉故か、与えられない知識故か。

 与えられない愛故か。

 何を思うこともなく、何を望むでもなく、何を祈るでもない。そんな人間が––––––

 生きて、いけるのか。

「迷路」

「はい」

「取引に興味はないか」

「とりひき」

 こいつは、誰も何もしなければ、何も与えなければ、死んでしまうのではないか。消えてしまうのではないか。

「我に、」


 守らなければ


「名を与えよ、迷路」

 この、澄んだ藍色を。

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