失せ物ここのつ、隘路に溶かせ。

終、若くは白ここのつ

「先生!」

 元気がいい、と言う言葉をそのまま表したような、その声に振り向く。紺のセーラー服にリボンを締めた彼女が、フレアスカートをはためかせながらこちらに走って来た。高く一つに結った髪をぴょこぴょこ、尾のように跳ねさせる姿はなんとも年相応に愛らしいものだ。

 北館から東館に向かう、運動場の隣に流れる渡り廊下で、彼女は手をぶんぶん振りながらこちらにまっすぐ走ってくる。

「先生、おはようございます! 鳥山石燕の画集を写してみて初めてわかったのですけれど、あの描き方って」

「はいはいわかったから、昼休み、昼休みね」

 目を爛々としてぴょこぴょこ跳ねる次原の頭を肩を叩いて宥めると、「はい!」約束を取り付けたぞ、と拳を握りしめ彼女は力を込め少し屈んだ。

「ああそう、あなた、松野くんと同じクラスだったね」

「松野ですか」

 首をかしげる彼女に、私は首を縦に振る。

「彼に今日中に、数学の佐藤先生のところに行くよう言っておいて。確か松野くん、理数教科の学級係でしょ? 佐藤先生、ノートを取りに来て欲しいのですって」

「あーなるほど。了解です」

「ああそれと。もし時間があるなら、」

 そう、言いかけた。

 そして、

「いいえ。なんでもない、気にしないで」

 にこりと笑うと、次原は首をひねる。

「あ、そうだ! 迷子先生、私進路決めたんですよ! あのですね、妖怪を研究したいです!」

「知ってます。あと先生のことを呼びたいなら齋藤先生と呼んでね、じゃないと返事しません」

「はぁい」

 絶対わかっていない口振りで彼女は私の隣にならぶ。北館には職員室と二年の教室が入っているから、そこまで一緒についていくつもりなのだろう。

 そういえば、最近はあの家に向かっていない。その必要がなくなってしまったのだから少しさみしいが、まあそれも慣れるだろう。家政婦の真似をするのも楽しかった。案外、社会教師より向いているのかもしれないなど、馬鹿なことを考える。

 彼女の足元に黒い羽が一枚、落ちる。私はそれを笑って眺める。彼女は私の視線に気付き、口元に人差し指を当てる。私はそんな彼女と北館に向かう。彼にとってはこれ以上なくいけずな彼女なのだろうな、なんて。彼女の目が、ほんの少し赤くなる。

 きっと、その日は遠くないだろう。




 千に一度起こることは、一番最初に起こるとはよく言ったものだ。

 昔のことを思い出せるようになった。それは勿論、夢に籠る前までも。

 この世の万物を見通すことに飽きて、この世の知識の限界を知って、この世の生物の全てを知って、そして飽きた。九つの瞳も純白の毛並みも、私にはきっと不相応だったのだろう。

 飽きて、飽きて、飽きた。

 存在の理由を、見失い、夢に、堕ちた。

 なるほど、今考えれば、なんとも馬鹿らしい話である。知識を持っていても、それは私のものではない。改めてこうして人に交わることで、私の知り得なかったことを、実感として得ている。退屈のしない日常は愛らしく尊い。めぐしいとしとはこのことを言うのだろう。

 夢の中で彼女に会ったことに、今、感謝している。

 夢から連れ出してくれたあの子は、息災だろうか。

 千に一度起こることは、一番最初に起こる、 つまりはそう言うことで。

 からからから、自転車のタイヤが小石を跳ねる音がした。側溝を越えて家の中にしまい、かちゃんと止める音もした。

 帰って来たようだ。私は立ち上がり、玄関に向かう。

 戸が開く。

 白目の少ない藍色の大きな瞳は変わらず美しい。詰襟は苦しそうだ。大人びた風貌に見合った背。この間ついに私を越えてしまった。少し得意げに笑った顔が脳裏に浮かぶ。

「ただいま、隘路」


 瞳。

 瞳。慟哭。呻き声。頭。角。阿鼻叫喚。この世の地獄。あの世の地獄。

 明日。天気。心も晴れず。

 昨日。天気。心も揺れず。

 僕の。隣。心は居らず。

 君の。隣。心は


 は


「おかえり、迷路」


 それでも世界は。












 愛彩愛路あいいろあいろ      了

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