窓辺の視線-前編-

「因果なものです」

 顔の上半分を覆うのは布か、それとも紙か。右半分にある三つの目玉、左半分の一つの目玉が、薄く開いた口元と同じように目を細めた気がした。肩に緩くかけた黒髪はたおやかに、男性にしては白すぎる肌に映えて垂れる。

 微動だにせず、その人物は薄桃の唇を開いた。

「因果なものです」

 先ほどと全く同じ言葉を繰り返す。

「因果、とは何ですか」

 僕の問いに、人物は応じる。

「因果。因、とは、始まりです。果、とは、終わりです。つまり、因果は万物の輪廻」

「むつかしい言葉は、わかりません」

 そうですか。人物はそれを気にも止めず、首肯するようにした。

「あなたが此処に来た、と言うことは、あなたには何らかの探し物がある」

 否定することではない。肯定することでもない。失ったものなど僕にはないからだ。もちろんそれは、守り続けていたということなどでは決してない。ただ単に僕には初めから何もなかったというだけだ。

 けれど、もしその探し物というやつが、この世に生まれ出づる時からの話であれば、それは当てはまるかもしれない。何かを忘れてきてしまったのではなく、むしろ余分なものを持ってきてしまったという意味で。

 その余分なものの正体という意味で。

 彼の背後に貼り付けられた膨大なメモ書きを見た。僕の背後にそびえる膨大な書物たちを見た。押し潰されそうな高さの本棚は、しゃがむ隙間もないほどみっちりと、空間を支配する。

「探し物は何ですか」

 目の前の人物が問いかけた。

 僕は答える。簡単なことだ。


「こたえあわせを」


 ふむ。

 彼は厳かに頷く。いや、厳かに見せかけただけの振りかもしれない。そんなことはどうでもいいけれど、彼はそういう人物だから。

 気を使うでもなく、息をするように、見せかける。

 そう見せられる。

 そう魅せられる。

「私はこたえあわせができます」

「はい」

「けれど、あなたも私の知りたい答えを知っている。いや、こたえあわせに限りなく近いヒントをあなたは持っている」

 僕はそれに少し驚いた。

「あなたにも知らないことがあるのですか」

「勿論です。この世界は私の知らないことだらけなのですから。驚きましたか」

「驚きました」

「素直ですね。素直はよいことです」

 教師が生徒を褒めるように、彼は自然に言葉を紡ぐ。まるでそれが当たり前であるかのようだ。その一瞬の思考を、僕は振り切る。僕にとっての当たり前ではなかったとしても、それが彼にとっての当たり前であるなら、僕が異質に感じることではない。

「ではこうしましょう。あなたが私に一つ質問をする。私はそれに答える。すると私があなたに一つ質問をする。あなたはそれに答える。終わるとまた、あなたが私に一つ質問する。その繰り返しです。公平かつ普遍的な、所謂いわゆる問答と言われるものです」

 問答ならばわかる。作麼生そもさん説破せっぱの禅問答。それを質問という形に嵌め込んで。

 おそらく、これは質問などという可愛らしいものではない。

 目の前の四つの目が笑う。

「始めましょうか」

 これは、駆け引きだ。

 迷路の喉がごくりと鳴る。

 そして、首を下に動かせた。

 ええ、と、迷路は返事をする。そして、今最も信用する、今は家で迷路の帰りを待っているであろう、人間でない何かの口癖を真似た。

易々いいでしょう」




 帰りが遅くなる、と言って迷路は家を出た。一人で色んな場所に行けるようになったことは喜ばしい。何かを知りたいという探究心、何かを見たいという好奇心、猫を殺すと俗に言われるが、持っていないよりはずっといいものだと、隘路は思う。特に探究心はいい。知識欲を深める契機だ。たとえ猫を殺そうとも、それが彼の心の成長に繋がるならば、必要な罪である。最近は特に、図書館や博物館、美術館に広い公園、町そのものを歩き回るなど、時には使い捨てカメラを片手に、時にはスケッチブックを片手に、時にはメモ帳を片手に、時には手ぶらで、ぶらりと家を出る。門限までには必ず帰るので、たとえ行き先を言わずとも、隘路は迷路を特に咎めたこともなかった。まあ、今どこにいるかなど隘路が知ろうとすればすぐにわかることの裏返しであったりもするが。

 自分以外誰もいない、日曜日の真昼間に、彼は畳を爪で引っ掻く。

 待つことには慣れている。

 だから苦ではない。

 けれど、………けれど。

 何故だか、ざわりと胸の内が騒がしい。

 迷路を案じているのではない。これは己を案じているのだ。何かに恐怖しているのだ。先の見えぬ未来を恐怖しているのだ。

 件たる己にそんなことなどあるはずもないのに。

 自分を案じて、自分の為に、自分のことを、案じている。

 この身に降りかかる禍いが、如何なるものか。

 とんと見当がつかなかった。

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