祝！ コミカライズ連載開始記念!!（月刊ミステリーボニータ/秋田書店掲載） 特別書きおろしＳＳ公開!!／伊藤たつき

第三章 その二

【第三章　その二】

　凜莉は建物の陰（かげ）に隠（かく）れて、こっそり夜の庭を見つめていた。

　背後にいた涼果がはらはらした様子で声を潜（ひそ）める。

「たとえ後宮の中でも、夜に無断で部屋から出たのがばれたらまずいです。見つからないようにしてくださいね」

「わかっているわ。でも煌翔様に会うにはこれしかないんだもの。あの東（あずま）屋（や）にいらっしゃるのを何度か見かけたんでしょう？」

「はい。二日連続で夜にお見かけしたので、今夜ももしかしたら来られるかもしれません」

　ここは麗華宮の裏庭にあたる場所だった。蓮（はす）の花が浮かぶ小さな池と植木があるだけのこぢんまりした庭だ。昼間来た時には、小さいせいかあまり人が踏（ふ）み込んだ形（けい）跡（せき）がなく、手入れはそれなりだった。しかし夜になって来てみると、昼とはまったく趣（おもむき）が変わっていた。

　ひっそりとした庭の真ん中にある池に映り込んでいる月が、柔（やわ）らかな光で周囲を照らしている。静かな庭にいると、心穏（おだ）やかになれるような気がした。

「ちょっと怖（こわ）いけど、素敵な雰（ふん）囲（い）気（き）よね。でも麗華宮には美女がいるのに、どうして一人で夜な夜なこんな場所に来るのかしら」

　香道省での調合に参加したいと願い出る為（ため）に、煌翔に会う必要があった。しかし煌翔は皇太子。そう簡単に会えるはずもない。彼は自分の為に作られた麗華宮にも、滅（めつ）多（た）に顔は見せないようだ。先日話した時は、どうやら初めて煌翔が麗華宮にやってきた時だったらしい。

　悩（なや）みつつ、煌翔に会うにはどうしたらいいかと悩んでいたら、涼果が仕事が終わって部屋に戻（もど）る途（と）中（ちゆう）にあるこの東屋で、煌翔を見かけたと知らせてくれた。

「想像ですが、煌翔様はあまり妻を娶（めと）られる事に気が進まれないようなので、おそらく麗華宮に行くよう促（うなが）す官人達が嫌（いや）でここでお過ごしになるのではと思います」

「気が進まないって……。前もそんな事を聞いたわね。でも皇位を継（つ）ぐなら、后（こう）妃（ひ）を娶るのが条件なんでしょう。何で嫌なのかしら？」

「煌翔様は妻は自分で決めると言われているみたいです。高官達が煌翔様に妻を選んでもらおうと麗華宮を作られたのですが、見向きもされなくて」

　麗華宮の女性達はお世辞にも性格がいいとはいえないが、全員がまごう方なき美女だ。

　あれだけの美女に見向きもしないなんて、よほど煌翔の意志は固いのだろう。

　涼果と二人でしばらく見張っていると、東屋に入る人（ひと）影（かげ）が見えた。中にある椅（い）子（す）に座った人影が、満月の明かりで照らされる。背が高く赤い髪（かみ）をした男は、間（ま）違（ちが）いなく煌翔だった。

「来た！　よし、じゃあ行ってくる。涼果はここで待ってて」

「一人で大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）ですか？　無礼な事をしてお手（て）討（う）ちとかされないでくださいね」

「ええ。今度こそ頑（がん）張（ば）るわ」

　落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて、そっと東屋に近づいた。

「……何だ、この間の面（おも）白（しろ）女か」

　書物を読んでいた煌翔がこちらを向いた。彼が一（いつ）瞬（しゆん）刀に手をかけたのを見（み）逃（のが）さなかった。

（危ない危ない。不（ふ）審（しん）者だとでも思われたのかしら。気をつけなくちゃ）

　彼とは距（きよ）離（り）を置きつつ、何とか笑みを浮かべた。

「こんばんは。……偶（ぐう）然（ぜん）ですね」

「偶然？　さっきから視線を感じていたぞ。なかなか出てこないから、賊（ぞく）が狙（ねら）っているのかと思った。俺にまた暴言を吐（は）きに来たのか？　面白女」

「面白女じゃなくて、名前は凜莉です。あの、この間は失礼を言ってすみませんでした！」

　謝罪の気持ちを込めて頭を下げた。顔を上げると、煌翔が不思議そうな顔をしている。

「謝るとは意外だな。お前はそう間違った事は言っていなかったぞ」

（間違った事は言っていないって……。傲（ごう）慢（まん）だって自覚はあるのね）

　てっきり自分の事も客観的に見られない皇太子かと思っていたが、そうでもないのかもしれないと気付く。

「お前だって心の中では、間違っていないと思っているはずだ。それなのにそんなに必死に謝るという事は……何か俺に頼（たの）み事でもあるのか？」

　あまりの鋭（するど）さに息を?（の）んだ。煌翔が顎（あご）に手を置く。

「自分の意志よりも大切なものがあって、その為に俺に謝って頼み事をしようと窺（うかが）っていた。二日ほど前から近くを通る女官がいた。その女官から俺がここに居ると聞いて見張っていた」

　言い当てられて、言葉に詰（つ）まるしかできなかった。煌翔が満足げに笑う。

「当たりだな。お前は何でも顔に出るぞ。気をつけた方がいい。美しい魑（ち）魅（み）魍（もう）魎（りよう）が住む後宮で生き延びたければな」

　美しい魑魅魍魎と聞いて恐（おそ）ろしくなった。同時に、煌翔に対して今までと違う印象を持つ。

（周りをちゃんと見ていて、自分の言動が相手にどう伝わるかわかっていてわざと傲慢な態度をとっている気がするわ。だとしたら、彼の傲慢な言動は相手を試（ため）すものなのかもしれない）

　もしそうなら彼はかなり賢（かしこ）い。言葉を尽（つ）くしても思い通りの答えは引き出せないだろう。

「急に静かになったな。俺に何か頼みがあったが、そう簡単にはいかないとやっと気付いたというところか。わかったならさっさと帰れ。俺は自分の時間を邪（じや）魔（ま）されるのが嫌（きら）いだ」

　煌翔はもう興味がなくなったと言いたげに書物に目を戻す。

　机に置いたかすかな明かりで、書物を読んでいるようだった。どうしようかと迷ったが、もう煌翔と二人だけで会う機会なんてないだろう。ここが勝負だと自分に言い聞かせた。

「いいえ、帰りません。お願いがあります」

「妻にしてほしいとか、高価な髪（かみ）飾（かざ）りを買ってほしいとか、自分の親族を高官に取り立ててほしいとか、そういう頼みなら断る」

　目は書物に向けたまま、煌翔が言い放った。

（こういう場面になれている感じがするわ。皇太子だし取り入ろうとする人も多いんだろうな。彼の態度は自分に取り入ろうと近づく人への牽（けん）制（せい）かもしれないわ。だったら……）

「頼み事はありますが、高価なものが欲しいとか待（たい）遇（ぐう）をよくしてほしいとかではありません。そういうものにはまったく興味がないんです。わたしが興味があるのは、秘宝香、ただ一つ」

　話術でも賢さでもおそらく煌翔には勝てないだろう。だったら、この気持ちを素（す）直（なお）に告げるしか手はなかった。煌翔はやや頭を上げたものの、まだ目は書物に向いている。

「お願いです。わたしにも秘宝香を作る許可と、調（ちよう）香（こう）会に参加する許可をください」

　単刀直入に願いを口にすると、煌翔がようやく書物から目を離（はな）して、こちらを見つめた。

「ほう。秘宝香ね。そういえば、お前は木蓮が連れてきたんだったな。医（い）療（りよう）所で発（ほつ）作（さ）を起こした女を香で助けていただろう」

　煌翔が意地の悪い笑（え）みを浮（う）かべた。

「そういえばあのあと医療所の医師にお前の事を聞いたぞ。医師はお前の事を褒（ほ）めていたが、一つ疑問があると言っていた。〝凜莉の香はよく効くが、なぜかいつも同じ効力を持つ香しか作らない。いろんな効能がある新たな香を調合して売った方が儲（もう）かるのにどうしてだろう〟と」

　どきっとして冷や汗（あせ）が流れた。

「香士とは香を調合するのはもちろんだが、いろんな香料を組み合わせて様々な効能を持つ新たな香を生み出すのも仕事だ。しかしお前は新しい香には決して挑（ちよう）戦（せん）しない。腕（うで）は確かなのに、どうしてだろうと気になった。木蓮がお前を麗華宮に推（すい）薦（せん）したいというから尚（なお）更（さら）な」

　煌翔の意地の悪い笑みは更に深まった。

「俺が考えるに、どうやらお前は香士としては〝致（ち）命（めい）的（てき）な弱点〟があるようだな」

　冷や汗はどんどんひどくなる。焦（あせ）りすぎてうまく息が吸えない気がした。

「それは、あの……」

「木蓮がお前を推薦してきた時に、いろいろ問い質（ただ）した。木蓮は言葉を濁（にご）していたが、いまのお前にしたみたいにどんどん問い詰めていったら、だいたいの答えは予想できた。……お前は致命的な弱点を持つ半人前だろう。秘宝香の調合に参加したいなんて、百年早い」

（まずい……！　わたしのあの〝秘密〟に気付かれてる。あれを木蓮以外の他人に知られたら、わたしはもう絶対に香士にはなれないわ……！）

　真っ青になっていると煌翔が腕（うで）組（ぐ）みをした。

「お前は半人前だが、女で香を調合できる者は貴重でもあるし、麗華宮に入るのは許した。しかし調香会は国をあげての行事だ。半人前を参加させるわけにはいかない。お前では、貴重な蘭天木を無（む）駄（だ）にするだけだ。諦（あきら）めろ」

　片手でしっしっと追い払（はら）うような仕草をされた。このままではまずいと、拳（こぶし）を握（にぎ）り締（し）める。

　何とか煌翔に考えを変えてもらおうと、頭を巡（めぐ）らせた。

「確かに半人前ですが、香道省の香士よりも秘宝香を完成させるのに一番近い位置にいます」

　わざと力強い声を出した。煌翔が書物に目を向けたまま、肩（かた）を揺（ゆ）らす。

「はっ、一番近い位置にいるだと？」

「はい。わたしはいまは蓮凜莉と名乗っていますが、本当の名前は央凜莉です。父の央西堂は、もと香道省の長（おさ）で秘宝香の研究をしていました」

　これを打ち明けるのは賭（か）けだった。父は秘宝香の調合に失敗したと宮（きゆう）廷（てい）には思われている。

　央西堂の娘（むすめ）だと打ち明けて、煌翔にも失敗した香士の娘だと思われたら、調香会へ参加する許可をもらうのは難しくなるだろう。

　しかし、秘宝香を作る自信がある理由を彼には打ち明ける必要があると思った。

　ふいに煌翔が身体（からだ）の動きを止めた。

　しばらく呆（ぼう）然（ぜん）としたように正面を見つめていたが、やがてこちらをまじまじと見つめる。

「お前が……？　西堂の娘？」

　頷（うなず）くと、煌翔は目を見開いたまま立ち上がり、東（あずま）屋（や）を出てすぐ近くまで来た。

（あれ？　央西堂の娘だと言ったら、失敗した香士の娘だと嫌（けん）悪（お）感（かん）を示されるかもと思ったのに、ずいぶん驚（おどろ）いた顔をしているわね）

　意外な反応だった。万が一父が秘宝香を作り上げていたと煌翔が知っていたとしたら、驚きの中にも秘宝香の手がかりを持っているかもしれないと喜びの表情が入るはずだ。

　しかし目の前の彼は、ただ純（じゆん）粋（すい）に驚（きよう）愕（がく）していた。

「待て、お前は本当に西堂の娘なのか。西堂の娘は、彼が死んだあと母親と一（いつ）緒（しよ）に姿を消した。どれだけ捜（さが）しても見つからなかった」

　秘宝香の完成まであと一歩に迫（せま）っていたのが父だ。皇（こう）帝（てい）への御（お）披（ひ）露（ろ）目（め）で失敗したものの、やはり秘宝香を作れるとしたら父だけだという意見は多かったらしい。

　おそらく煌翔も秘宝香の秘密を追って自分達を捜していたのだろう。

「母と下町に身を隠（かく）していました。父が亡（な）くなったあと、兵士達が秘宝香の作り方がどこかに記されているのではないかと屋（や）敷（しき）に押しかけてきたそうです。父の死の悲しみも癒（い）えないうちから屋敷をめちゃめちゃに荒（あ）らされて、母はもう何もかも嫌（いや）になったと言っていました」

　煌翔の反応に戸（と）惑（まど）いつつも、この状（じよう）況（きよう）はいい方向に向かっているのではと気付いた。

　煌翔はさきほどまでまったく自分に興味を示していなかったが、いまはこちらに釘（くぎ）付（づ）けだ。

　まずは彼に自分の存在を印象づける事。そして、自分は秘宝香を作れると訴（うつた）える事が先決だ。

　こちらの意見を聞いてもらう為（ため）には、まずしておかなければならない事があると思った。

「申し訳ありません。麗華宮に入ったのは、調香会に参加する許可を直接煌翔様に頂きたかったからなんです。目的を偽（いつわ）って麗華宮に入った事はお詫（わ）びします」

　深々と頭を下げた。本心からの謝罪を煌翔にはしたいと思っていた。

　頭を上げて、祈（いの）るように両手を組んで煌翔を見つめる。

「ですが、罪をおかしてでもどうしても叶（かな）えたい夢があります。煌翔様。わたしにも秘宝香を作る許可と調香会に参加する許可をください。わたしの記（き）憶（おく）には父の調合の様子が刻まれています。蘭天木と時間を頂けたら必ず秘宝香を作ってみせます」

　何百年もの間、たくさんの香士が挑戦しても作れなかった秘宝香。本音を言うと、絶対に作れるなんて自信はない。父の調合の様子だってよく覚えていないし、作れない可能性の方が高いかもしれない。だが不安な様子をみせたら、煌翔は絶対に許可はくれないとわかっていた。

「お願いです。どうかわたしに香道省で秘宝香を作らせてください！」

　もう一度頭を下げると、煌翔がようやく我に返ったかのように目を瞬（またた）かせた。

「ああ、許可か……」

　煌翔にしてはなぜか歯切れが悪かった。まるで何か違（ちが）う事に気を取られているかのようだ。

（どうしたんだろう。わたしの顔を見ているから違う事を考えているわけでもなさそうなのに）

　不思議に思っていると、煌翔が口元に手をやって、一つ頷いた。

「そうか。お前が西堂の娘か。西堂の事はよく覚えている。木蓮に、後宮に男の香士がいてはもめるもとになるから、女で調合ができる者を入れてはどうかと進言されて、お前を迎（むか）える事を許したが……。まさか西堂の娘だったとは」

「父が秘宝香の調合に挑戦している時、わたしはそばにいました。わたしには絶対嗅（きゆう）覚（かく）という特技があります。ようするに、とても鼻が利（き）くんです。医療所で女性が倒（たお）れた時も彼女の汗の香りから発作が起こった事を知り、症（しよう）状（じよう）を改善する香を焚（た）きました」

　信じてはくれないと思ったが、煌翔は意外にも素直に頷いた。

「ああ、確かにお前は鼻がいい」

　馬（ば）鹿（か）にされると思っていたのに、拍（ひよう）子（し）抜（ぬ）けした。しかし信じてくれて助かったと言葉を紡（つむ）ぐ。

「父の顔は曖（あい）昧（まい）にしか覚えていませんが、父が調合していた香（かお）りは鼻が覚えています。材料と道具と時間があればこの鼻で香りを探（さぐ）って同じものを作ってみせます。どうかお願いです！」

　頭を下げると、しばらく間を置いて、煌翔が息をつく気配がした。

「西堂は確かに秘宝香の完成まであと一歩に近づいていた。……一年後に俺が皇位を継（つ）ぐ時には、秘宝香を完成させて瑞（ずい）獣（じゆう）の称（しよう）号（ごう）を持つ者を三人揃（そろ）えたい。それが皇帝である父と皇太子である俺の悲願だ。だから今回特別に香道省に民間の優（ゆう）秀（しゆう）な香士を集めさせた」

　宮廷に庶（しよ）民（みん）が入るなんて、いままでだったら絶対にあり得ない。

　そこまでしてでも秘宝香を完成させたいという煌翔の気持ちは本物のようだった。

「瑞獣の称号を持つ三人が揃うと、国が栄えて世界をも制する力を持つという。知っているか？　いまは平和そうに見える神瑞国だが……」

　煌翔の顔がわずかに曇（くも）った。その顔を見て、何を言いたいのか察した。

「隣（りん）国（ごく）の湖（こ）蘭（らん）国の事ですか？」

　素（す）早（ばや）く答えた事に驚いたのか、煌翔が目を見張った。

「……なるほど。少しは国政も理解しているようだな。そう、湖蘭国とは昔から諍（いさか）いが絶えなかった。国と国の狭（はざ）間（ま）に大きな鉱山がある。その利権を巡って、もう気が遠くなるほど昔から対立していた。ここ数年は落ち着いているが、いつ何時何が起こるかわからない」

　それは神瑞国の民（たみ）の誰（だれ）もが抱（かか）える不安の一つだ。いまは鉱山の利権は、神瑞国にある。

　しかし湖蘭国が、利権を狙（ねら）って戦（いくさ）を仕（し）掛（か）けてくるのではという噂（うわさ）が常に国内で流れていた。

「俺は瑞獣の称号を持つ者が三人揃うと、世界をも制する力を持つなんて迷（めい）信（しん）だと思っている。しかし瑞獣は国と民の誇（ほこ）りだ。瑞獣の称号を持つ者が三人揃えば、その称号のもと民も心を一つにできるだろう。そうすれば、必ず国力は上がる」

　煌翔の引き締まった表情にどきりとした。国の事を語る彼は、尊敬に値（あたい）する皇太子だった。

「そして秘宝香の効能は絶大だ。湖蘭国が虎（こ）視（し）眈（たん）々（たん）と我が国を狙っているいま、強い武器となる。俺は戦がしたいわけではない。戦になる前に、火種を潰（つぶ）したいんだ。秘宝香の効能を使えば、それができるだろう」

　強い武器と呼ばれる効能がどんなものなのか気になった。戦を火種のうちに消せるだけの力があるらしい。聞きたかったが、煌翔の迫（はく）力（りよく）に押されて口にはできなかった。

「隣国と長い間確（かく）執（しつ）があったが、父はこの国の歴史上ただ一人、戦をしなかった皇帝だ。父は俺に、戦をすれば辛（つら）い思いをするのは民だと教えてくれた。国を守る皇帝として、絶対に民を悲しませてはならないと俺に言い聞かせてくれた。────父は立派な皇帝だ」

　煌翔の言葉に胸をうたれた。確かにここ数十年、戦は起こっていない。

　そのおかげで、真光の下町では貧しいながらもみんな毎日を生き生きと暮らしている。

「父のあとを継いで、戦を起こさない国作りをしたい。父が守ったこの国を俺も守りたいんだ」

　煌翔の言葉からは、父である皇帝への尊敬の気持ちが伝わってきた。

　彼が望む平和な国は、自分も理想とするものだ。いままで傲（ごう）慢（まん）だと思っていた煌翔の顔が、皇太子としての責任と力強さに彩（いろど）られているのを見て、ふいに胸が高鳴った。

　どきどきしつつ見つめると、煌翔はこちらに真（しん）剣（けん）な眼（まな）差（ざ）しを向けた。

「絶対に俺の代で秘宝香を手に入れ、瑞獣の称号を持つ三人を揃えたい。皇帝となり龍（りゆう）の称号を譲（ゆず）り受ける俺。武に長（た）けた鳳（ほう）凰（おう）の称号を持つ大将軍の我嵐。そして……」

　言葉を受けて、彼に向かって膝（ひざ）を折り、礼を尽（つ）くした。

「秘宝香を完成させて、わたしが麒（き）麟（りん）の称号を戴（いただ）きます。そしてこの国を守りたいと言う煌翔様の気持ちに、仁の心を持って添（そ）ってみせます」

　言い切ると、煌翔が口元を笑（え）みの形に緩（ゆる）めた。

「お前は本当に面（おも）白（しろ）い女だ。女の身で、香（こう）士（し）でもないのにそんな事が本当にできるのか？」

「男だとか女だとかは関係ありません。わたしはわたし、央凜莉です。央西堂の娘で、秘宝香を作るのに一番近い位置にいる者。機会を与（あた）えて頂ければ、必ず成果を出します」

　必死の思いを言葉に乗せた。この気持ちが伝わってほしいと願いながら。

「そこまで言うならいいだろう」

「本当ですか!?」

　嬉（うれ）しくて顔を綻（ほころ）ばせたが、煌翔は厳しい顔つきのままだった。

「ああ、だがお前は香士ではない。宮（きゆう）廷（てい）にいる香士も、民間から来た香士も全員国試に受かっている。それが香道省で秘宝香作りに携（たずさ）わる第一条件だ。お前はそれを満たしていないから、香道省に入れるわけにはいかない」

　反論はできなかった。思わず俯（うつむ）くと、煌翔が腕（うで）組（ぐ）みした。

「だが西堂の娘（むすめ）であるお前には才能も感じる。だから特別に蘭天木を使って調合する事は許そう。ただし香道省には入れないから、お前の部屋でやれ」

　香道省には優秀な香士と木蓮がいる。彼らと協力した方が秘宝香を完成させられる可能性は高い。しかし、香士ではない自分が香道省に堂々と出入りすれば、新たなる問題が起こるのではという疑念もある。おそらく煌翔はそこまで考えているのではと思った。

「わかりました」

　だから頷（うなず）くしかできなかった。調合の許可をもらっただけでも、ものすごく幸運なのだ。

「秘宝香の調合に費（つい）やせる時間は限られている。約一月後に皇帝陛下の御（ご）前（ぜん）で秘宝香の御披露目をする調香会を催（もよお）す。お前にも参加する事を許すから、それまでに完成させろ」

「調香会にも出ていいんですか？　ありがとうございます……！」

　嬉しくて胸がいっぱいになっていると、煌翔が冷たい視線を向けてきた。

「喜んでばかりはいられないぞ。いいか、もし調香会までに秘宝香を作れなかったら、相応の罰（ばつ）を受けてもらう。お前は麗華宮に名前と目的を偽（いつわ）って入った。その罪はかなり重いぞ。処（しよ）刑（けい）されても文句は言えないはずだ。もちろんお前に仕える女官、身元引受人の木蓮にも同様の罰を受けてもらうからな」

　喉（のど）の奥でひっと悲鳴を上げた。自分だけなら覚（かく）悟（ご）はできているが、涼果や木蓮も処刑されるかもしれないと思うと、胸が苦しくて息ができなくなった。

「涼果と木蓮は関係ないんです。二人は何も知りません。わたしは二人にも偽りを……」

　言い募（つの）ろうとしたが、煌翔は大きく首を横に振（ふ）った。

「俺に嘘（うそ）は通用しないぞ。お前が調香会までに秘宝香を作り上げられれば、その功績を称（たた）えて誰も罪には問わないと約束しよう。しかし失敗した場合は覚悟しておけ」

　煌翔は訴（うつた）えを聞く気はないようだ。こうなったらみんなで生き延びる道は一つしかなかった。

「────わかりました。必ず秘宝香を作ってみせます。この命に賭（か）けて」

　声は震（ふる）えていたが、決意を込めた視線を向けると、煌翔が満足そうに頷いた。

「いい返事だ。……それにしても、さっき父の顔も曖昧にしか覚えていないと話していたな。どの程度覚えているんだ？」

　煌翔の口調がやや柔（やわ）らかくなったのに気付いて、ようやく胸の奥まで息を吸い込んだ。

「それが……どうしてだか父の事を思い出そうとすると、ひどい頭痛がするんです。そのせいで、顔もなかなか思い出せなくて」

　煌翔が何か考え込むような表情になった。

「……なるほど。そういう事か。秘宝香についてはどの程度覚えているんだ？　お前は秘宝香の効能を父から聞いたか？」

　どんな敵をも撃（げき）退（たい）できる強大な力を持つという秘宝香。

　その効能を知るのは、皇族と香道省の一部の香士のみだという。

「効能は知りません。父から聞いていないのか、記（き）憶（おく）にないだけなのかはわかりませんが」

　素直に答えると、煌翔がにやりとした。

「頼（たよ）りない答えだな。頭を下げて頼（たの）むなら、効能を教えてやらないでもないぞ」

　ふざけたような口調だが、目は笑っていないと直感した。

「いいえ。秘宝香の効能は国秘。わたしは教えて頂く立場にありません。父が作っていた秘宝香の材料を鼻で嗅（か）ぎ分けて選び、同じものを作ってみせます。そうすれば答えもわかります」

　本当は効能がどんなものか知りたかった。しかしいま、自分は試（ため）されていると感じていた。

　ここで煌翔に甘えてしまってはいけないと、本能が叫（さけ）ぶ。

「なるほど。いい答えだ」

　考えは正しかったのか、煌翔が満足げに頷いた。

「もし教えてくださいと頭を下げるような甘い考えなら、いますぐ捕（と）らえてやろうと思ったが、なかなか根（こん）性（じよう）があるじゃないか。それにしても、西堂が亡（な）くなったのは六年前だろう。たかだか六年前の事をどうしてそんなに覚えていないんだ？」

　投げかけられた疑問は、実は自分でもずっと不思議に思っていた事だった。

「おそらく父が亡くなった時の衝（しよう）撃（げき）で、記憶が混乱しているのではないかと思います」

　煌翔の視線が鋭（するど）くなった気がした。

「……そうか。では秘宝香を作りながら、よく記憶を探（さぐ）ってみろ。思いもよらない事がお前の記憶には眠（ねむ）っているかもしれないぞ」

　その言葉はなぜかとても頭に残った。煌翔が再び東（あずま）屋（や）に入って、腰（こし）掛（か）ける。

「ではもう行け。俺は本を読むのに忙（いそが）しい」

「はい。ありがとうございました」

（調合の許可は頂けたわ。でももし失敗したら、わたしだけでなく涼果も木蓮も処（しよ）罰（ばつ）されてしまう。絶対に調香会までに秘宝香を完成させないと！）

　東屋に背を向け、気持ちを奮い起こしつつ歩を進めて、涼果が待っている建物の陰（かげ）に急いだ。