別れの話(後)

 坂道を登っていく僕の肩や服の裾を掴んで、引き留めようとする人がいる。父さんと母さんだ。それ以上行ってはいけない、戻りなさいと、悲しげな顔で言う。

 でも、それは幻だ。ここに居ない人の姿や語る言葉は、僕が頭の中で作り出したものだ。

 だから聞く必要もない。振り払えば、それは薄く雪をかぶった木の枝だった。


 事実、僕はひどい親不孝者かもしれない。

 必ず帰ると約束したのに。

 僕がこのまま二度と戻らなくても、両親はそれを知ることすらできない。僕が帰って来ないだけで二人とも泣くかもしれないとわかっている。


 胸は痛むけれど、足は止まらなかった。

 命は大切にしなければならないとか、親が悲しむとか、そんな普通の理屈は、今となってはどうでもいい。

 僕が僕の命をどう扱うかは、最後には僕自身が決める事だ。決める自由がある。



 雪が積もって、並べた石も見えなくなっている。それでも、その場所を見失うはずも、間違えるはずもなかった。

 地面に指先を差し込み、土を掴んで背後へ放り捨てる。指先が冷えてびりびりした痛みが走るのも構わずに、何度も、何度も。

 冷たく固いはずの地面がこんなにも簡単に掘り返せてしまうのは、ここが昨日、僕が掘った場所だから。

 だから、最後には現れてしまう。その青白く、穏やかに目を閉じて眠る顔が、土の中から現れる。


 無心に土を掻き、背後へ投げ捨てる。埋めた身体がすっかり現れるまで、土を除け続ける。

 肩で息をしながら、横になって先生の胸に頬を寄せると、そこは冷たく硬かった。

 鼓動は聴こえない。当たり前のことだ。この体はやがて腐り果て、虫に食われて、土に還っていくだけだ。


 魔女の眼を開いて見てみると、先生の遺体にはもう半分程しかマナが残っていない。呪いに食い尽くされて、いずれすっかり消えて無くなるのだろう。

 そうしたら、先生はもうどこにも居ない。


「先生。ここに居たら、怒りますか」


 その呟きに返事はない。


「このまま一緒に居たら、駄目ですか……」


 最期の瞬間に、先生は僕の耳元で言った。


『ずっと、一緒だ』


 何故先生が最期にそんな事を言ったのか、僕には分からなかった。一緒に居られるわけがない。一緒に居ようと思ったら、こうするしかない。だから僕は間違っていないはずだ。


 体の震えが止まらなくなってきた。指先から足先までがひっきりなしに、小刻みに動いて、なんとか体を温めようとしている。歯の根はがちがち鳴りっぱなしだ。

 凍え死ぬというのは、もっと静かで穏やかなものだと思っていた。眠るように楽に終わるのかと思っていた。


(そんな甘いものじゃない、か)


 この体は、どうしてそんなにも生きたがるのか。僕の心はすっかり諦めているのに。

 何の為に。何の為に。何の為に……


 何度も自分で問いかけているうちに、意識がぷつぷつと途切れ始める。

 もう少しだ。もう少しで全部終わる。こんな苦しみは、もうたくさんだ。

 ただ生きていくということが、どうしてこんなにも辛くなければならないのか。どうしてこんな苦しみに耐えなくてはならないのか。どうして僕は頑張らなくてはいけないのか。


(そんな理由は……無いはずだ)



 光が、僕の指先を照らしていた。

 何の光だろうと、朦朧としたまま思わずその先を目で追う。

 白く雪の舞う空、ぶ厚い雲にたった一筋切れ目が走り、そこから光が射し込んでいた。


 どこか見覚えのある光だった。温かく、柔らかく、ひたすらに優しい。まるで、凍える僕の指を暖めようとするような光。

 僕はそれをどこで見たのか。


「……ああ」


 思い出した。それは、僕が初めて作った杖を手にして、先生が使った魔法。どんな言葉だったか。そう、あれは。



 堰を切ったように、次々と記憶が溢れ出した。一年足らずのわずかな期間。その間にあった出来事が、色鮮やかに蘇って僕の中を駆け抜けた。

 

 獣のような唸り声が聞こえ、遅れて、それが自分の喉から漏れている事に気がつく。

 頬が焼けるように熱かった。

 赤く腫れあがった指先で何度拭っても、それは後から後から溢れてきて止まらなかった。先生の胸の上で僕は声を上げて泣いた。


 生きる理由が、見つかってしまった。

 先生を二度も死なせる事なんてできるはずもなかった。


 きっと僕は、これから何度も思い出す。

 春の柔らかな木の芽、夏の日の木洩れ陽、イチイの赤い実、暖炉の炎を目にするたびに。小鳥の歌声、川のせせらぎ、吹き込む隙間風の音を耳にするたびに。よく晴れた日にも、強い雨の日にも思い出す。

 魔法の杖を作る度に思い出す。


 先生はそこに居る。そこにだけ生きていて、笑っている。僕が思い出しさえすれば、いつまでも、ずっと一緒に居られるのだった。


 目の前の先生の身体は何も語りはしない。ただ静かに目を閉じている。その睫毛や頬の上に落ちた雪の粒が、光を浴びてきらきらと輝いた。

 何度もしゃくり上げながら、僕はようやく言えなかった言葉を口にする覚悟ができた。

 また会える。いつでも会える。けれど、区切りをつける。


「……さようなら」


 これが、先生と僕の別れの話だ。先生は死んで、僕は生きることを選んだ。


 そして、季節は巡る。

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