20.

 美穂の死に動揺しながら、何とか午後の仕事を終えた。西村先生は、学会の集まりがあるらしく、急いで帰宅してしまったのだった。

 いつも通り、駅までの道を一人で歩きながら、酷く空虚な気持ちになる。恐ろしい事件が起きて、僕は犯人とも被害者とも関わったことがある人間だ。美穂の方には何度もカウンセリングを行ったし、良く知っている人間と言ってもいいだろう。信頼もされていたと思う。

 しかし、僕は完全に部外者だ。事件に関わったわけでは無いので当然なのだが、詳しい事情を知らされることすら無い立場なのだということが、今更ながら虚しく思えた。僕は、家族や親戚では無い。いくら美穂のことを知っていようとも、僕はどこまでも部外者なのだ。


 勿論、臨床心理士と患者さんにとって、その関係性は正しいのだろう。今回の事で、余計にそう思った節もある。なぜなら、僕は部外者であるが故に、責任を負わずにいられるからだ。人生は何が起こるか解らない。患者さんと関わることで、その人生にまですっかり責任を負うのだとしたら、そんな仕事は人の手に余るものだ。

 例えば患者さんに、『全力であなたの力になります』と言ったとしても、それは部外者としての言葉なのだ。患者さんから電話があれば二十四時間はせ参じるわけでは無いし、一緒に暮らして養ってくれと言われても、そんなことは出来ない。部外者として、出来る限りの事をする。それが僕の仕事だ。


 だから、美穂が死んでも詳しいことが知らされない。その死が自殺だったならば、色々と尋ねられるだろうし、親に責められもするだろう。だがその時にだって、部外者として事情を説明すれば済むのだろう。


 目を上げると、ひと際明るい建物が見えて来る。電車の音も聞こえる。少し歩くことに疲れた気分なので、早く電車に乗ってしまいたかった。足早に改札に向かうと、途中で誰かに肩を掴まれた。

「雄一、俺だ。会えて良かった。待ってて正解だったわ」

すぐ近くに、弘樹の顔があった。

「メール、気付かなかったのか? ちょっと話があってさ……」

そう言って、ちょっと困ったような顔をして見せる。そこでようやく、ああ、弘樹が会いに来たのだと理解した。

「あぁ、メール……見てなかった」

「マジかよ。まぁ、いいけどさ。それで、ちょっと真面目な……いや、お前、何かあったのか?」

気軽な調子で喋っていた弘樹が、僕の顔を見て真顔になった。自分がどんな顔をしているのかは解らないが、普通の顔ではないのだろう。

「いや、あの……担当してた患者さんが亡くなったっていうか……」

嘘を吐くのは面倒だったので、素直に答える。

「……場所変えるか。電車でどっか移動して、店にでも入ろうぜ」

弘樹も臨床心理士だ。それなりに察して、気を利かせてくれたのだろう。


 虚ろな僕を上手く先導して、一時間もしないうちに、静かな店の個室に落ち着いていた。テーブルの上には、グラスに入ったウーロン茶まで置いてある。

「お前、大丈夫……なわけないよな。詳しく聞いてもいいか?」

弘樹にしては、優し気な声だ。こんな声は、前にも聞いたことがある。院に入りたての頃、僕が彼女と別れて落ち込んでいた時だったか。

「担当してた患者さんが、亡くなったんだ」

「あぁ」

これはさっき言った。それでも、弘樹はそんなことには突っ込まず、頷きながら耳を傾けてくれている。

「まだ十八歳の女の子で、ボーダーだったんだ。でも、鬱が良くなって、退院したばかりで、母親に殺されてしまった」

「は? 自殺じゃないのか? 母親にってどういうことだよ」

弘樹が混乱するもの無理はない。恐らく、詳しく話しても納得出来る内容ではないのだから。

 しかし僕は、同じ臨床心理士の友人に話を聞いてもらいたいという思いで、今朝の事をすっかり説明した。


「ちょっと、信じられねーような話だな……小説かよ」

僕と同じような反応が返って来る。やはり、そう思うだろう。

「だよね。こんなことって、信じられないよね」

患者さんが亡くなったと聞けば、まず最初に自殺を疑ってしまう。そもそも、殺人なんて、身近なところで頻繁に起こるものではないだろう。

「確かに、驚いたな……しかし、年老いた親が精神病の子供との将来を悲観して、手に掛けたって話は聞いたことがある。俺が勤めているクリニックの先生も、そんなことがあったって言ってたぞ」

そうなのか……。


 家族の負担、辛い気持ちについて、僕は理解が足りなかったのかもしれない。美穂の母親だって、どんな気持ちを抱えていたのか解らない。

「その母親にだって、病院としてやるべきことはやってたんだろ?」

「うん。西村先生も、病院のソーシャルワーカーも、しっかり説明は行っていたんだ。カウンセリングも勧めたけれど、母親はそういうのはやらないって言ったらしい。それに、退院したら娘は予備校に通わせるの一点張りでさ」

「あぁ、そういう家族もいるよな」

僕と弘樹は、目線を合わせて何度か頷きあった。


 全ての家族が、僕達に介入を許すわけではない。専門家として頼ってもらえると助かるのだが、それを嫌がる人もいるのだ。入院している間は面倒を見てもらいたいが、家族の中のことにまでは口を出されたくないし、知られたくない。そんな風に考えているのだと思う。

「しかし、母親が殺したならば、雄一に落ち度はねーだろ……って、そういう単純なことじゃねーか。そりゃ、色々悩むわな。俺だってさ、鬱っぽい人が相談に来ると、それ程酷くない人にも病院勧めたりしちまうし。やっぱ、自分だけで受け持って自殺されたらどうしようって、びびってるんだよな。自分のせいじゃないとしても、一回でもカウンセラーとして関わった人が、死んじまったらショックだろうからさ」

弘樹の言葉は、少し意外だった。自信があって、あまり物事に動じない人間だと思っていたが、気弱な面を押し殺して振る舞っているようなところがあったのかもしれない。

 僕がショックを受けているから、自分の弱い所を正直に打ち明けてくれたのだろう。良い友人を持ったと思う。


「僕に何か、出来たことってあったと思う?」

僕の質問に、弘樹は口に拳を当てて考え込んだ。しばらくすると、顔を上げて少し笑って見せる。

「取りあえず何か食いながら、一緒に考えてみようぜ」

メニューを取って僕へ寄越す。開くと、蕎麦の写真が並んでいた。値段が高めの、蕎麦の専門店だったらしい。

「弘樹は決まっているのか?」

「あぁ、俺は天ぷらにする。後、ビールも一杯だけ飲む」

「じゃあ僕は、山菜にしようかな……」

「高菜ご飯も食えよ、食わなきゃ頭も回んねぇからな」

「そうだな」

男友達との気軽なやり取りは、少し心を軽くしてくれた。一人で居たら、飯も食わずに考え込んでいたと思う。偶然、弘樹が会いに来てくれたことに感謝する。そういえば、弘樹が来たのは偶然だったか? 何か、話があると言っていたような。

「弘樹、何か僕に話があるんだっけ?」

「いや、今日はいいや」

「そう?」

「あぁ」

いいというものを、無理に聞き出す必要も無いだろう。


 ウーロン茶に手を伸ばすと、弘樹はポケットからタバコを出した。箱から一本取り出し、口にくわえる。火を付けている間に、テーブルの隅から灰皿を押してやった。

「おぉ、サンキュー」

弘樹はタバコを吸うのだが、由香が嫌がるので、三人でいる時には手を出さなかった。三人で飲みに行った時などは、随分我慢していたのだろうと思う。僕は気にならないので、二人の時には気にせず吸うように言っていた。

「お前の今回のことはなぁ……父親に会えていたら、何か変わったかな? しかし、どんなにこっちが提案しても、相手が拒否するんじゃ、どうしようもないよなぁ。父親連れて来い、両親共にカウンセリングを受けろって脅すわけにもいかないからな」

そう言うと、再びタバコを口にくわえる。

「そうだね。それでも、提案を受け入れてもらえるような説得の仕方は無いのかな」

「そりゃ、そういうことが出来る人もいるんだろうけど……お前んとこの西村先生なら出来るだろうな。まぁ、無理に説得するほどの緊急性は無いって判断して、ごり押しはしなかったんだろうな」

それはその通りだ。通院もカウンセリングも継続されるし、あれこれ一気に口を出すよりは、まずは本人達で安定した退院後の生活サイクルを築いて欲しかった。


 母親と父親がカウンセリングを受けることを承諾しなければ、娘さんは退院させません、なんて脅迫じみたことは出来ない。仮に出来たとしても、父親に反発されてろくなことにならないだろう。浮気がばれなかったとしても、娘のことが煩わしくなって離婚を切り出していた可能性だってある。


「頑なな家族を説得するのって難しそうだよね」

「そうだなー。娘さんの為です、力になりたいんです、そんな言葉が通じない相手もいるからな。何というか、善意や熱意を前面に押し出されると、引いちゃう人っているだろ。俺もそうなんだけど、自分の事良いヤツだって思ってんだろうなーって考えちまって、反発を覚えるっていうか」

「うーん。確かに、押しつけがましいのは嫌かもね。見下されてる感じがするのかな。家族のことを自分の方が理解してるってことを前面に出して、だからこうしてあげて下さいなんて言われたら嫌な気持ちになるかもね」

「そう、そんな感じ。俺は捻くれてるから、嫌な気持ちになるわ。あくまで、淡々と説明して提案して欲しい」

確かに、弘樹のような人もいるのだろう。しかし、善意や熱意を素直に受け取ってくれる人だっている。まぁ、そういう人であれば、説得に苦労することも無いのだが。


「やっぱり、説得の仕方も相手に合せなくちゃならないのかな。人間同士の相性ってものもあるから、どんなに合わせているつもりでも無理な時はあるんだろうけど」

「そうだな……俺は、雄一にだったら説得されるだろうけど、由香が相手だったら無理だな。暑苦しいし、押しつけがましいところがある」

ここで由香が出て来るとは……弘樹は由香に対して厳しい所がある。僕としては、彼女の悪口を言っているようで気が引けるのだが。

「あぁ……お前は由香と付き合い始めたんだったよな。すまんな、聞き流してくれ」

僕の気持ちを察したのか、素直に頭を下げられてしまった。

「いや、別に気を使わないでくれ」

由香と弘樹も友達なのだ。弘樹に悪く言われても、由香はそれ程気にしないだろう。喧嘩するほど仲が良いというやつだ。


 それから僕達は、自分達が出来ることについて真剣に語り合った。結論らしいものは出なかったけれど、貴重な時間を過ごせたように思う。少なくとも、僕にとっては意義のあるものだった。一人で考え込むより、ずっと。

 ただ、弘樹に自分の苦しい気持ちを打ち明けられたかというと、そうでは無かった。涙が流れなかったことに動揺したとか、最初に己の責任の所在を気に掛けたとか、そういうことは恥ずかしくて言えなかったのだ。



 弘樹と過ごして、美穂の死への混乱は薄れたように感じられた。しかし、帰宅してベッドに横になると、病院で西村先生に言ったようなことが頭を占めるようになる。

 寝返りばかり打ちながらも、僕は夢を見た。


 いつものカウンセリングルーム。しかし、やけに白さが眩しくて、物の輪郭が曖昧に見えた。向かいに座っているのは、美穂の母親だった。光の中で、白い顔が歪んで見える。池に移った顔が水紋に乱されるように、ゆらゆらと揺れている。

『佐藤さん、あなたの旦那さんは浮気している。でも、大丈夫です。離婚しても大丈夫ですよ』

僕は夢中で叫んだが、声にならなかった。それでも僕は、しゃべり続ける。

『美穂さんは退院させません。旦那さんとよく話し合って下さい』

やはり声にならない。届かない、聞こえていない。

 揺れる顔からは表情など解らない。何を考えているのだろう、聞く気があるのだろうか?それでも目の前にいるのだから、どうにかして伝えようと立ち上がる。

 とたんに、薄暗いところへ移動してしまった。

 目の前にベッドがあった。誰か寝ている……枕に載っている顔は、見慣れた美穂のものだった。

 

ギギッ


 後ろから聞こえたのは、床が軋む音だろうか。振り返ると、美穂の母親が立っていた。暗い世界に浮かび上がる白い顔。先程のように、ゆらゆらと揺れている。

 手に何か持っている。垂れ下がったそれは、長い延長コードだ……。

 絞めるのか? それで美穂の首を?

『やめろ、やめてくれ!』

『美穂さん、起きて! 逃げて!』

『近づくな!』

声が出ない。叫んでいるのに!

 

 くぐもった自分の声が聞こえて、目が覚めた。夢の中の無音の叫びは、現実の世界でも呟き程度のものだったようだ。布団の中が熱を持ち、汗でシャツが湿っているのが解る。

 不安、焦り、恐怖……兎に角、嫌な気分だ。

 夢の中の僕は、何と無能だったことだろう。自分が口走った陳腐なセリフに、叩きのめされた気分だった。

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