18.

 レクリエーションの時間、美穂は明るい笑顔を振りまいていた。戸惑っている新入りの患者さんに、声を掛けるという気遣いを見せている。

 作業療法士の運動を真似ながら、十代から六十代までの患者さんが、体操をしていた。動きの硬い者、やけに手を振り回す者、見ている見本は同じでも、個性があって賑やかだ。小学生が集団で、整然とラジオ体操をしているのとは違う。色々な人間が存在しているという事実を、端的に示している光景ではあるまいか。

「雄ちゃん先生、体、硬いねー」

美穂に笑われる。無邪気な様子に、僕も自然と笑みが零れた。

 母親との面談から一週間以上経ち、美穂は来週にも退院することになった。それが嬉しくてはしゃいでいるのだろう。午後のカウンセリングでも、浮かれて話し続けるかもしれない。



 予想通り、カウンセリングルームで向かい合った美穂は、目が合っただけで笑顔を返して来る。珍しく、椅子に足を上げずに、内股気味に床に付けていた。その様子は、楽しい話がしたい、退院の話がしたい、そんな風に見えた。

「退院が決まったね。どうかな?」

「すごく嬉しいよー。買ってない新曲をチェックしたり、好きな物を食べられる。一人でゆっくり眠れるし、買い物にも行けるよねー。欲しい服があるんだよ。雑誌に載ってたやつ。ママが買ってくれるって言ってた。ちょっと高いんだけど、退院のお祝いだって! あと、宅配ピザも頼んでもらって、ケーキも食べたいし。やりたいこといっぱいあるなー」

「楽しみだね。不安は?」

放っておくと、いつまでも話し続けそうだ。普段なら聞いてあげるのも悪くないが、退院を控えているので、確認しておくべきことがある。


「不安はねー、なくもない。知らない人と話したりするのは怖いかな。近所の知り合いとかに会って、挨拶するの面倒。あとは、やっぱ、夜に切りたくなったらどうしようって思ったりする。我慢出来なかったらどうしよーって。辛くなるのも嫌だし」

「そうだね、不安だね。一つずつ一緒に考えてみようか」

「そうするー」

不安について語っても、それ程表情が曇ることはなかった。退院の喜びの方が勝っているのだろう。


「まず、知らない人と話すのが怖い?」

「そう。だってさ、嫌なこと言われるかもしれないし、また陰口たたかれるようになるかも」

「そういう時はどうしようって、前にも話したね」

「うーん、そうだったかも。そうだそうだ、あたしのこと悪く思う人もいるんだから気にしないって考えられるようにするんだった。そう思えば、挨拶とかも出来るかなー。出来そうな気もするんだよなー」

「すぐに出来なくてもいいんだよ。ちょっとずつね」

「だよね」

「うん」

 頷いて見せると、笑顔を返して来る。「出来そうな気がする」という美穂の言葉から、希望が感じられる。


「切りたくなったらどうしようっていうのは?」

「やっぱさ、我慢できるか不安。でも、これも話したよね。夜眠れるように、規則正しくして、どうしても眠れないときはお薬を飲む。切りたくなったら、ママに話してみる。一人でいないようにするって決めた。ママにはもう、隠す必要ないしね。切りたくないし、やってみようと思う」

「しっかり覚えているんだね」

「そう。頭いいでしょー」

「そうだね」

 退院のせいで気持ちが明るくなっているせいもあるだろうが、美穂自身が改善しようと意欲を見せているので安心する。僕に良く思われる為とか、退院が流れないようにとか、そう考えて演技しているようにも思えなかった。


「退院しても、雄ちゃん先生とのカウンセリングはあるからさ、辛くなったら話せばいいんだよね」

「そうだね。話したいことが出来たら、メモしておくのもいいかもね」

「あっ、それ良い。辛いことあったら書いといて、後で雄ちゃん先生に相談すればいいんだ。ムカついたこととかも書こうかな。雄ちゃん先生でストレス発散しよー。覚悟しといてよー」

「うん、覚悟しておくよ」

「退院の楽しみが増えたなー」

美穂の言う通りになったなら、それは僕も嬉しい。


 僕でストレスを発散しつつ、徐々に自分の生活が楽しくなる。少しずつ社会にも溶け込み、カウンセリングに通うのが面倒になる。友達といる方が楽しくなり、カウンセリングの予定を忘れて、すっぽかしたりするかもしれない。そして僕は、必要無くなるのだ。

 そうなれば最高だろう。その時僕は、ちょっと寂しく感じたりするのだろうか。


 ピンクのスウェットを着た美穂は、退院すればおしゃれをして尋ねて来ることだろう。その時は、この部屋が明るく感じられるかもしれない。

「退院した最初のカウンセリングは、おニューの服で来るからねー。やっぱ、スカートがいいかな? 色は何がいいかなー。雄ちゃん先生はどう思う?」

「どうだろう。気分が明るくなるような色は素敵だよね」

「あー、解る。あたしも明るい色好きだし」

僕にまで、わくわくした気持ちが伝染して来る。


 一緒になって浮かれてはいられないのだ。今ならば、父親のことについて聞いても平気かもしれない。

「家に戻って、ご両親と過ごすことに不安は?」

「うーん、ママはちょっと鬱陶しくなるかもねー。パパは……あんまりあたしに興味無いみたいだし。でも、予備校に行ったら、褒めてくれるかもね。本当は優しい人だしさ、小学校四年の時とか、いっぱい遊んでもらえたし」

美穂が右足を椅子の上へ引き上げる。


 ここで止めて置いた方がいいか。退院してもカウンセリングは継続されるのだし、家族関係に何かあるのならば、少しずつ話題に上るようになるだろう。少なくとも、虐待を受けているような様子は見られないようなので、緊急性は無いか。

 父親の様子は、ネグレクト(育児放棄)にも思えなくはないが、美穂はもう子供を卒業する年だ。過去の話は、ゆっくり進めたほうが良いだろう。



 カウンセリングが終了し、医局で西村先生を待つことにした。美穂と父親のことについて、話しておいた方が良いだろう。

 家族との関係というものは、臨床家にとって注目するべき事柄だ。しかし同時に、扱いが難しいものでもある。掘り返すということが、新しい傷を作りかねないからだ。


 僕が大学院生だった頃、カウンセリングの実践の授業があった。大学生から被験者を募り、僕達がカウンセリングをするという訳だ。授業とは言え、大学に併設されたカウンセリングセンターの部屋を用いた本格的なものだ。勿論、センターには一般のお客様も通っていて、難しいケースは教授が受け持ち、充分対応できると判断された院の二年生もカウンセリングに当たっていた。


 今の僕の彼女、院生時代は友達だった由香も、センターで大学生相手にカウンセリングの実践を行ったのだ。その時、彼女は苦い経験をした。

 由香が担当した大学生は、特に主訴も無く、ただカウンセラーに興味があるからと被験者を申し出たらしい。主訴とは、カウンセリングを受けたい大きな理由、悩みのことである。それが無いということは、ただただ世間話をするしか無くなる。

『カウンセリングにならないんだけど……大学院に合格するにはどうしたらいいかとか、そんなことばっかり質問された』

初回を終えた由香が、僕にそんな風に愚痴を言ったことを覚えている。


 しかし、二回目のセッションを終えると、様子が違っていた。

『家族関係に問題があるかも。おばあちゃんが厳しくて、怖いんだって。小さい頃、ぶたれたこともあるって』

隠れた問題を発見した由香は、俄然やる気を取り戻したように見えた。僕も気楽に応援したのだが、これはまずいことだったのだ。

 由香は、次のセッションで祖母の話を詳しく聞きだした。その経験が、今の生活に影を落としてはいまいかと探ったのである。由香としては、これからカウンセリングらしくなると意欲に燃えていた所だが、その次のセッションに、大学生は姿を見せなかった。キャンセルの連絡も無かったものだから、由香は大学生に電話した。カウンセリングをサボったことを謝った大学生が述べた理由は、

『祖母が病気で亡くなりまして。今、実家なんです』

だったのだ。電話の後に僕の所へやって来た由香の顔は、血の気が引いて強張っていて、今でも忘れられない。


 何がまずかったか……大学生は、祖母を怖がってはいたのだろうが、特に今の生活で問題は感じていなかったのだ。悩みも無く、楽しい大学生活を送れていた。しかし由香が、祖母のことを話すように働きかけた。大学生は聞かれるがままに話しただろう。そんな時に、祖母が亡くなってしまった。大学生にしてみれば、自分が陰で他人に祖母の悪口を言っている最中に、本人が亡くなってしまったように感じられたかもしれない。

 そう思い至った由香は、青くなったのだ。現に、大学生の意向でカウンセリングは終了となった。

 あの時は、由香は勿論、話を聞いていた僕も動揺して反省もした。


 例えば、本人が過去の祖母との関係のせいで、現在もお年寄りが怖くて社会生活が成り立たないと申し出ているならともかく、何の不都合も感じていないのならば外から掘り出す必要は無いのだ。現在の悩みの原因が過去の家族関係に存在する場合もあるが、大学生は特に悩みなど無かったのである。掘らなくても良いものを勝手に問題視して、相手の心に傷を残してしまった。

 未熟な僕達にとって、由香の失敗から学んだものは大きかった。


「神田先生、お疲れさま」

西村先生の声が聞こえる。

「あ、お疲れさまです」

「何です? 何か考え込んでいるみたいですね」

西村先生に言われて、自分の眉間に皺が寄っていることに気が付いた。こうやって苦い失敗を思い出す程、眉間に皺が刻まれて行くのだろうか。

 西村先生に由香の話をして聞かせる。自分の失敗談を、師に聞かせるのも潔いような気がしたのだ。

「あらまあ、未熟」

「ですよね」

まぁ、そんな反応が帰って来るような気はしていたが。


「そんなことを思い出したのは、美穂さんのお父様のせいですか?」

西村先生は、流石に全てお見通しなのだろう。患者さんの家族の問題に触れるとき、いつも僕はこの話を思い出す。

「そうです。美穂さんの今に影響が少ないならば、急いで昔のことを掘り返す必要は無いのかな、と」

僕の言葉を聞いて、西村先生は黙って天井を仰ぎ見た。考えているようなので、二人分のコーヒーを入れようと立ち上がる。

 スプーンの音が聞こえ始めると、西村先生は自分の席に腰掛けた。

「そうですね。概ね同意見ですが……美穂さんのお父様のこと、どう思いました?」

コーヒーを運びながら、母親との面談を思い出してみる。

「ちょっと……奇妙に思いました」

「奇妙?」

西村先生にコーヒーを渡し、自分のものを一口啜ってから口を開く。


「あの話からすると、父親は美穂さんが小さい頃は溺愛していたわけでしょ? それが、小学校四年生以降は構わなくなった。仕事が忙しくなったと言うけれど、それもしっくり来ない。いくら忙しくても、ぱったりと接触しなくなるなんてあり得ない気がして」

「そうですね。現在の娘への態度も、溺愛という感じはしませんしね」

「はい。母親の話からは、家族に興味を持っていないような印象を受けました」

 家族の在り方はそれぞれだろうし、長く連れ添った夫婦なら、そんなものなのかもしれない。母親が友人に愚痴を言う感覚で、誇張して旦那を悪く言っている可能性だってあるだろう。

「まぁ、お父さんが、成長した娘とどう接していいのか解らなくなったとも考えられますけどね」

西村先生の言葉に頷きながら、幼児退行して、父親からのご褒美をねだるような美穂の姿を思い出す。あれは、父親の愛情を求めていたのだろう。小学校四年生まで豊富に与えられていたものが、突然得られなくなった。それは子供にとって、大きな傷となったに違いない。勿論、人格形成にも大きな影響を与えているだろう。


「自傷行為も、父親の気を引きたいと言う側面もあるのかもしれませんね」

僕の言葉を聞いて、西村先生は額に拳を当てた。トントンと調子を取って叩いて、思案している様子だ。

「そう。それは私も考えました。しかし、お父様の気は引けなかったようですし。お父様が我々と接触することを避けている以上、美穂さんに対する態度が改善されることは期待出来そうもない。それならば、美穂さんの自立を促した方が良いでしょうね」

「そうなりますね」


 子供が親から当然与えられるべき物や行動。大抵は愛情を前提としたものだろう。しかし、欲しい物が全て得られるわけでは無い。どんな人でも、多かれ少なかれ、小さい頃に親にこうして欲しかったという思いはあるだろう。ちゃんと褒めてもらいたかったとか、おやつを用意しておいて欲しかったとか、もっと遊びに連れていって欲しかったとか……。大人になってから親に愚痴をこぼすことは出来ても、時間を戻して与えてもらうことは出来ない。 

 子供を一番に考えて、惜しみない愛情を注がなければならない。ちゃんとしつけをしなければならない。理想も正論もいくらでもあるだろう。しかし、全ての親が実行出来るわけでは無い。

 『子供が可哀想』、僕もそう思わずにはいられないが、それは親を責める為の武器にはなっても、事態を改善する為の呪文にはならないのだ。


 美穂は、小学校四年生に戻って、父親に構ってもらうことは出来ない。それでは、現在の父親に愛情を注いでもらえるようになるかと言えば、それも難しいだろう。今の状態を受け入れて、折り合いを付けてもらうしか無い。


「それにしても、父親の変わりようは気になりますね」

西村先生が、ため息交じりに漏らす。

「そうですね……調べたら自分の娘じゃないことが判明したとか?」

「コラ! 想像しすぎです!」

怒られてしまった。黙って額を差し出すと、ペシリと叩かれる。

 臨床家は分析するのであって、小説の探偵のように推理するわけでは無い。叩かれて当然だ。


「神田先生は最近、私に怒られ慣れて来ましたね」

「いえ、大丈夫です。ちゃんと怖いです」

「どういう意味です!」

「深い意味はありません。すいません」

ちゃんと怖いことはある。西村先生に弟子失格だと放り出されたら、どれ程絶望することだろう。

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