ひと夏の妹

物語は始まる

　そのころの俺は、作家になれたらいいなとぼんやり考えている大学生で、古い小説を読みあさり、夢の切れ端みたいな言葉を集め、それに疲れるとコーヒーを飲んで、音楽を聴き、あとの時間をバイクに乗って過ごした。

　けっきょく、作家にはなれなかった。

　大学は法学部。最初は私立探偵になりたいと思った。

　高校三年の時の担任にそう相談したら、その若い数学教師は、ケプラー予想にでも取り組むような大まじめな顔で困り、「私立探偵なら法律を学ぶべきじゃないか」という、一生懸命ではあるものの、的外れな助言をくれた。

　俺は、その適当なアドバイスを真に受け、『海の街』の大学を受験し、なんとか引っかかった。

　入学してすぐ、何件かの探偵事務所に電話をかけた俺は、現実というものを教えられ、その夢をあっさり捨てた。そして、今度は小説家を目指すことにした。

　ひとりで生きていけそうな仕事なら、なんでもよかったのだ。

　ここまでで、俺という人間がだいたいわかってもらえるだろう。

　行動力のあるアホだ。思い込みも激しい。

　作家を夢見る若者にとって、意味と目的を失った法律の勉強は、ただ、退屈でつまらなかった。

　俺は最低限しか大学に行かず、単位だけはなんとか確保しながら、ひたすら古い小説を読み、『自分の場所』を探し求め、歌詞のない音楽を聴き、ポットに入れたコーヒーを飲み、あてどもなくバイクで彷徨いながら、ひとりの時間を過ごした。

　それはまあ、誰にわざわざ言われるまでもなく、お気楽で幸せな日々だったと思う。自覚はあった。孤独は俺にとって苦痛でも退屈でもなかった。

　インクのかすれた本を読み、

　しゃっきり熱いコーヒーを飲み、

　十月の海のような音楽を聴き、

　自分にだけ見えるものを探して歩きまわり、

　知らない道をわざわざバイクで走り、

　使いみちのない言葉を手の平に集め……

　大学を卒業したあと、片親だった母がガンで亡くなり、のんきな作家志望で居られなくなるまで、そんな日々は続いた。

　これは、そんな俺の、かけがえのない思い出。

　大切な女の子と過ごした、特別な夏の忘れもの。

　元作家志望らしく、ちょっと気取った物言いをしてみるなら……

『ひと夏の妹の物語』といったところだ。