Track #10 The Thin Line Between Love & Hate

Cote de Sommernacht-Fee


 私は資料の山を漁りながらナミアに話しかけた。


「何か、適当なことを話してくれませんか?」

「何故?」

「私は知識が豊富にあるわけではない。何かを引っ張り出すための『とっかかり』を持っているだけなんです。というより、それを『持っている』わけではない。それがどこかにあるのに気づきやすいだけなんです。だから、あなたの話に丁度いいものを見つけることが出来かもしれないんです。どうかお願いします」

「うん……」


 そして、彼女は語る。


「彼は技に関しての感覚が鋭い。そして力を振るう事へのためらいも感じられた。だから、戦いの際には最小の力で敵を倒すことに努めていたように思う。だから浅い攻撃からの反撃で打ち倒されたり、窮地に陥ることも多い。徐々にその隙も埋まってきた。


 だが……だが、ごく稀に……とてつもないほどの力を振るうときがある。もはや、敵が原型をとどめないほどの状態になっても攻撃を止めない。敵の血が染み込んだ地面にまで攻撃を加えるような時も……ただ、そうやっているのが楽しいような……だが、その後の事も考えると……そうやっているのが唯一の安息の時でもあったのか……あれは、ちょっと……つらいな」


 私はその言葉から感じるものを視界に投影させるように努めた。先程の "Dr Nothing Luv" という人物の書いたものなら私に読めるということだろう。だから目に付くものを選んでいけばいい。取り出したのは、断片だ。


―――

 暴力によって支配を勝ち取った者は時間が経つにつれて気付くことだろう。いずれ自分も同じ目に合うと。腕力の場合はどうしても時間と共に衰える。次世代の者達は徐々に力を増していく。恐れが時間と共に増すことだろう。


 では、その状態を支配している者達はどう考えるだろう?


 考えられるのは、力を抑え込むこと。そして、力を振るうにしても自分達には向けないように仕向けることだ。


 おそらく、このようにして時代は動いてきたのだろう。当然一部だろうが。


 だが、抱え込んだ不満の扱いはとても難しい。抑え込もうとしても何処かから漏れてしまうものなのだ。さらに厄介なことに、何らかの事態として現れた『人の弱さ』を騒ぎ立てる者達がいる。それを見た人々は『こう扱われたくない』という想いになっていくだろう。


 これも一つの想像だが、


 暴力による統制を行った者達が次世代の暴力を押さえようとする。


 すると、次世代に起こる不満の扱いは暴力でない形で現れる。


 単純に表せば『言葉』によるもの。そして『言葉』を伴わない行動だ。


 一部にその流れが集結してしまう事もあるだろう。


 その集結点に存在する誰かは、『暴力』も『暴言』も『愚痴』も『ちょっとした怠け』も許されない。


 その者が何らかのきっかけで手が出てしまう事が起きたとする。すると、猛烈な攻撃衝動が湧き出るだろう。(※当然予想だ)


 力を振るう事、扱う事に慣れていないので押さえ方がわからない。ある程度の腕力があり、周りに攻撃に使えるものがあればそれを振るう。壊れるまで―――


「ここまで、ですね」

「……うん」

「どう感じます?」

「そうだな……彼はこれを解っていたように思う。落ち込みながら私に話してくれたこともあった。やっぱり何かの作品からのイメージだったのかも」

「どんな話でした?」

「えーと……


―――

 ロレンス少佐は殺戮行為をした後、自分が『楽しいと感じた』と認めた。だから、砂漠の精霊達が応えたんじゃないかな? これはストーリーの独善的な解釈ではあるが……ロレンスをどうにか砂漠から押し出した。あの世界のロレンスはイギリスに帰ることが出来て幸せだったのかもって―――


 こんなのだった」

「ふむふむ」


 再び資料へ向かう。引っ張り出したものは―――


 メイジャー・メイジャー・メイジャーなどと言う名前を付けられたら、さすがに私も恨むだろう。だが、それも含めての教訓であったのか。


 相手は嫌がっていることを明確に表さない。


 自分達はついうっかりそれをやってしまう、と見せる。


 相手が嫌がっているのを知りながら、繰り返す。


 相手が不満を表せないように、言動で徐々に侵食していく。


 何か文句を言いだしたら、その点を大げさに表し大声で、そして目立つようにばら撒く。


 収まったら侵食を再開する。


 これが『いじめ』の構図だ。本人に声を上げさせない環境を作っていくのだ。


 子供の世界で行われるのが注目されることが多い。


 ところで、子供達はどこでこの手の知識を学ぶのだろうか?


 当然、大人からだ。それも最も身近な者達から。つまり、親だ。


 大人達はやってはいけない行為を言葉で伝える。テレビを見てそれに話しかけるようにつぶやくこともある。隣近所の醜聞を話しながら言う事もある。そこでの言葉は正しいのだろう。


 ちなみに間違っていることがあっても生まれた時から傍にいる子供にとっては、それが正しい事になる。


 子供はそれを学ぶとともに、親の行動からも学ぶ。


 親が『正しい事』を語りながら、『そうでない行為』をするのを見て学ぶ。


 もしくは、何も言わずに『そうでない行為』をするのを見て学ぶ。


 そうなると子供の認識はこうだ。


 言葉の上では筋が通らない。だが、こういうことはやってもいい。


 そして、言葉に出さずに、誰にも見えないようにやれば、やってもいい。


 こんなところだろう。当然一例だ。


 ところで、これは私が生まれ育った時代でのみ起こったことだろうか?


 そして、他の国では起こっていないことだろうか?


 我々が住む街や自治体、国はそのような行為をしていないだろうか?―――


「なるほど……そう言われれば……たしかに」

「こういうことを淡々と述べるのは、読んでいて辛いですね。さて……ここまでのようですが……何か浮かびますか?」

「えーと……


―――

 昔は……きっと昔だろうな。不幸な事態からのし上がった人の話を聞いて自分もそうなりたいって思ったもんだ。だが、今考えてみれば、俺の昔も……多分そうだと思うけど……結構大変だったんだよ。何であの時、自分がその話の主人公より幸福だと思ったんだろう? もしかして、これも人間の機能の一つなのかも―――


 かな?」

「ふむふむ」

 私は資料の山へ向かい、引っ張り出した。

―――

 ……という議論が起こったようだが、私はその辺りをよく知らない。だが、これは試金石だったのではないか? と推測した。


 私は物語を書きたいと願っている。だが、その際に湧き上がる欲望は、今まで誰も現わしたことのない人間や世界の真実を、歴史に埋もれた闇を、この先ずっと残るであろう一大叙事詩を記したい、というものだ。それはずっとある。


 だが、ここに来て気付いたことがある。歴史に名を残す作家、見逃されている偉大な作家達は、あえてその手法をとらなかったのではないか、ということだ。人の人生は長い。それぞれを事細かに表せば本が何冊あっても足りないだろう。だからこそ、読者が入り込める余地を残し、尚且つわかりやすくするための手法を模索していったように思うのだ。だとすると、人の真実を克明に描くことはまずいのではないか、と思ってしまう。ここは難しいところだ。


 ちょっと話が逸れた。つまり、あの二宮金次郎像がやっている行為を実際にやった者達も居たのではないか、という話だ。


 やった者達の一部は気付いただろう。これは非効率だと。


 時間は限られていても、何らかの行為は一つに集中するのが最も効果的だ。(※覆されることもあるはずだ)あの姿も一つの象徴であったとしても、仕事中は仕事だけやって、家に帰ってから勉強に取り組んだ方が頭に入りやすい。少なくとも、私はそうだ。


 つまり、そこまで自分で動き考えることを、あの像が促しているとも考えられる。だが、真実はわからない。私の推測が正しいとすると、尚の事解らない方が良い―――


 その日はそんなことを繰り返しながら、二人とも本や書類に埋もれて眠ってしまった。

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