俺の自転車は異世界にお嫁に行って幸せに暮らしているらしい

神島竜

第1話 瞬間、トラックに轢かれて

 ジリジリと、暑い熱がわたしの肌を焼きました。

 ミーンミーンとゼミの鳴き声がわたしの肌に反響する。

 ああ、ご主人様をお待ちしている間のこの責めぐっ……カイカン❤

 夏の暑い日、わたしは古書店の前でご主人様をお待ちしていたの。

「つまりなにかい? ここつぶれるってわけですかぃ?」

 店の奥から若い男の声が聞こえました。

 ご主人様の声だ。ご主人様はよくここの古書店で本を購入する。それは虫や動物の図鑑である時もあれば、聞き覚えのないタイトルの文庫本や新書。着衣の乱れた黄ばんだグラビア雑誌。それらを衝動的に大量に買い、いつもわたしのカゴに乗せていく。大量の分厚い本に、ズシンと重いご主人様の身体を支えながらふらふらと坂を登っていく。それを今から考えるだけで……ああ、ゾクゾクするわ❤︎

「ああ、そうなんだよ……」

 古書店の奥にはしわがれた老人の声が聞えた。

 彼の名はヒデノリおじいちゃん。ご主人様がよく利用している古書店の店主だ。

 いや、今は利用していたといったほうが正しくなるかもしれない。

 ご主人様は不機嫌そうな顔で、ドシンと大きなお尻をわたしのサドルのせたの。そしてブラ~ンブラ~ンとブランコに乗るかのようにわたしを揺らしながらつづけたわ。

「ヒんデェはなしだ」

 ゾウのように太い足で、わたしの片側のペダルをふみしめる。ミチリミチリと片足にGがかかる。体温なんかないのに、心が高揚し、ほてってしまいそうだわ。

 古書店のおじいちゃんはうなだれた表情で、

「しかたないさ……」とつぶやいた。

「しかたないってこたぁ、ないじゃないですか。聞いたところによりゃぁ、この古書店で万引きしたクソガキを、あなたは追いかけた。とうぜんのことでぇすよ。商品をぬすまれたわけなんだから。しかしなんだ、そのクソガキは逃げに逃げた。黒い自転車に乗って、この下り坂をくだってさ」

 そう言って、ご主人様は古書店の前に視線を移す。

 古書店からちょっと進んだ先には坂があった。木々が生い茂る緩やかな坂。緑道になっており、そこでは子供が虫取り網を持って歩き回っていた。きっとカブトムシを探しているのだろう。この木には虫が集まるらしいから。

ご主人様はこの古書店に行くために、この坂をわざわざのぼっていきます。わたくしからはおりずに、そのままこいでいくの。坂をのぼるには不向きな自転車の車輪がご主人様の足で無理やりまわされて、重い体を背に受けながら。少しずつ少しずつ上にのぼらされるときの高揚感。

 ああ、自転車に生まれてきて本当によかったと思えるわ。

 そう、わたしは自転車だ。ランドセルのように、あるいはポストのようにそこにいるだけで存在感を放つ真っ赤な色した自転車、それがわたしだ。

 小学生5年生のころから高校3年生まで8年間ずっと大事にされてきた自転車。ご主人様は幼いころからわたしを大事に扱ってくれている。でも身長は高校生になってもちっとも伸びなくて、なのに身体はどんどん横にひろがってて……

 しかも、そんな重い身体で小さなわたしにのしかかりながらも、カゴに次々と分厚い本を平気で積み上げて坂道をフゴフゴと荒い鼻息をあげながら乱暴にペダルをこぐの。

 ご主人様の重さを一身に受けて、ペダルも思いっきり踏みつけられて、生暖かい鼻息をハンドルにあてられて。わたしの想いは熱くなる。

 ああ、自転車に生まれてきて本当によかった。

「んでさ……」

 何十秒間も坂を見続けたご主人様はまた口をお開いたわ。

「そのクソガキ、前をちゃんと見なかったのかなんなのか。坂を下り切った十字路ででかいトラックに轢かれて、おっちんじまったんだろ。バカじゃねぇか。ただのバカじゃねぇか。だってのに、爺さんが店をやめちまうってのはどういう了見なんですかぁ」

 独り言に近い憤りに、古書店のおじいちゃんは寂しげな表情を見せたわ。

「シゲくんみたいに足しげく通ってくれる子もいるから、わしももうちょい続けたかったんだけどね……やっぱり近所の心象もよくないし。そのこには申し訳ないことをしたと思ってるんだよ」

「でも、事故じゃんか。わるいのはトラックだろ……運転手はどうしたんだよ」

「ひき逃げらしくってね。轢いたやつがだれなのかもいまだにわかんないんだ」

「クソ! ままならねぇ!」

 事実を確認すれば、こっからさきは押し問答だ。もう店をたたんでしまう。なんでだ。だからこうだって、それはこうだって、たらたらたら、ちゅうぶらりん。

 熱い日差しはまだまだ強く。怒りをふりしぼるご主人様の肌にはぶわぁっと汗が流れ、それが頭をふるたびにわたしにかかって。わたしのはやる想いはとどまることを知らなくて。ああ、早くこの坂を駆け下りたい。

 ご主人様の重さを感じながら、くだる坂は心地よいことだろう。どんなに止めたくても、まわってしまう車輪。上からはご主人様のGがっ!

 ああ、はやく坂を下りて。この坂の先へ先へ……あれ?

 坂の先をみると、そこには一人の男の子が虫取り網をもって坂を走って下っている。どうやらカブトムシを追いかけているらしい。その十字路の先にはトラックが猛スピードで近づいている。男の子はカブトムシに夢中で気づかないらしい。

 ダメ! このままじゃ男の子が轢かれちゃう。

 助けなきゃ! そう思っても、自転車は一人では動けない。

 ご主人様もおじいちゃんとの会話に夢中で、男の子の危機に気づいてないみたいだ。

 ああ! もう、わたしの身体が動いてくれたら! お願い神様、動いて! 動け! 動けぇぇ! わたしは自分に言い聞かせた。

 おいおい諦めんなよ! 諦めたらダメなんだよ! 動けよ! 動けぇぇぇぇぇ!

「ウェェェェェ!」

 わたしのサドルに体重を預けていたご主人様は後ろに転んで尻餅をついた。

 わたしはご主人様から離れ、緩やかな坂を猛スピードでくだっていった。

 よっしゃぁ、車輪がクルクルするんじゃぁぁ!

 気持ちが沸き立ち、熱い日差しで熱せられた身体が火照る体温に思えた。

 ゴカァンゴカァン、とでこぼこのアスファルトが揺らすわたしの身体。それは高鳴る鼓動のよう。走れ走れ、まわれまわれ。わたしの走りはこんなもんじゃない。

 回転に回転を重ねた車輪はわたしの身体を遠くまで運び、男の子を追い抜く。

 そして、まがれぇぇぇぇぇぇ!

 車輪が右に曲がり、自転車は男の子の前に立ちはだかる。

 えっ、と男の子は素っ頓狂な声をあげて十字路にはいるまえに立ち止まった。

 やった、と思った矢先。トラックはもう私の直前にまで近づいていた。

 車輪はもうまわらない。

「ヴァァァァァァ! 俺の自転車ァァァ!」

 うしろからご主人様の声が聞こえる。

 ごめんなさい、ご主人様、自転車は今、逝きます。

 口なんてないけれども、心中ではそう呟いて。

 わたしはトラックに轢かれた。

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