母親殺しの悪夢

 与沢の真意はいづれわかるだろう。今はとにかく猛烈に眠い。普段なら熟睡している時間だ。


 宜昌までの乗車時間は八時間。先は長い。


 俺は持参したアイマスクをして眠りについた。


 俺は久しぶりにあの夢を見た。母親を殺してしまう夢だ。


 その夢はいつも同じだ。俺が包丁で肉を切っている。すると背後から母親が近づいて来る。白い服、長い黒髪、他人を見るような目。


 俺はもう母親を殺すことになるとわかっている。


 母親はさらに近づいて来る。俺はなぜか包丁を持った手で蚊を追い払うような動作をする。それをしてはいけないとわかっているのに。


 包丁は母親の首を切り裂き、ざっくりと開いた傷口から鮮血が噴き出す。金縛りにあったように固まった俺の目の前で、母親は丸太のように倒れて動かなくなる。


 俺は母親を殺してしまったことを何とも思わぬまま、死体を隠さなければいけないと焦る。


 どうやって隠そうか……それを考えているうちに目が覚めた。


 嫌な汗をかいていた。いつもと同じだ。この夢を見るといつもこうなる。


 俺は心のどこかで母親への殺意を抱いているのかもしれない。自分では全く自覚はないが、何度も同じ夢を見るのは尋常ではない。


 俺の母親は色白の美人だった。それは子供のころの俺の自慢だった。日本人と全く変わらない日本語を話す韓国人。


 純粋な日本人で韓国と全く縁のない父親とどういういきさつで知り合ったかは知らない。もしかしたら鍼灸院の客だったのかもしれないが、詳しいことは聞いたことがない。母親の話は俺と父親のあいだのタブーだからだ。


 母親は俺が中学二年のときに失踪した。


 当時、韓国に住んでいる母親の実家に不幸があり、一時的に帰国したと聞かされた。しかしそれは嘘だった。


 親戚連中の噂を総合すれば、母親は韓国人の実業家と不倫関係にあり、その実業家が韓国本土で起業したのをきっかけにして、二人そろって韓国に移住したというのだ。要するに俺も父親も捨てられたわけだ。


 だからと言って俺は母親を恨んだことはない。中学二年の頃の俺は、母親などいなくなればよいと思っていた。俺の母親はヒステリックな教育ママというやつだった。


 学校の勉強以外にもハングルの読み書きを叩き込まれた。言葉は人間のアイデンティティーだといつも言っていた。それが俺には煩わしかった。


 俺にとっては、俺のルーツなんてどうでもよかった。俺は俺だ。当時の俺は、韓国人としてのアイデンティティーにこだわる母親を半ば憎んでいたと言ってよいだろう。


 うるさい親が消えたことについては、恨みも憎しみもなかった。俺は今でもそう思っている。


 しかし母親が失踪してから俺は母親を殺す夢を見るようになった。これが深層心理というやつなのだろう。夢の中とはいえ、母親を殺したあとに後悔の念が浮かばないのは、やはり俺が母親を恨んでいるからだと考えざるをえない。


 後悔の念がないからと言って、母親を殺す夢が怖くないわけではない。


 殺すこと自体が怖いのではない。殺してしまう俺自身が怖い。その恐怖感は胸の奥深くに積もって俺を縛っている。


 俺が本気で女を愛せないのはそのせいだろう。本気で愛した女が俺を裏切ったとき、俺は女を殺してしまうかもしれない。殺してはいけないとわかっているのに殺してしまう恐怖。その恐怖が俺を臆病にしている。


 アイマスクをずらして様子をうかがうと、与沢も藤堂も寝息を立てて寝ていた。


 エイミーだけが起きていた。


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