第39話 

 電車を降り、急ぎ足で改札を抜けた。駐輪場まで走ると自転車に飛び乗る。夜風は思いの外冷たく、Tシャツの上に羽織っただけの薄手のパーカーが翻るので邪魔だった。農道を照らす街灯は心もとなく、自転車はふわふわと夜空を駆ける。

 闇の先で、黄色い火の玉がゆらゆらとゆれていた。眼をほそめて見つめると、思ったよりも速いスピードで、勢いよく迫って来る。火の玉にぶつからないよう、咄嗟にハンドルをきった。すれ違いざま、シャキン、と空気が切れる。

 金属の摩擦と車輪が砂を噛む音に振り返る。ざざざっ。砂の舞い上がる音がする。月明りはひとつも役に立たない。農道の端に自転車を停め、転倒した自転車と格闘する影に駆け寄った。

「大丈夫?」

 僕は自転車を引き起こしながら言う。

「……いってえ……」

「怪我してない?」

「……平気……」

 サドルに絡んだ足を解き、海雪は地べたに座り込んだまま脛をさする。

「何で……のんちゃん、何で、ここにいるの?」

「何でって……海雪こそ何してんだよ」

 海雪の傍にしゃがみ込んだ僕は、顔を覗き込んで尋ねた。

「……返信が来ないから……直接会いに行こうと思って……」

 逢いたい、とメッセージを寄こしたのは海雪だった。

「……俺も……」

 自転車の影が海雪の顔に青く刻まれていた。海雪は、「……うん」と言ったきり黙って、ぽっかり月だけが浮かぶ黒い空を眺めた。

 僕はべったりと胡坐をかき、海雪と同じ方向を見る。しばらくして、海雪は、並べた両手を高く突き出して言った。

「初めて俺んちに来たとき、のんちゃんは、ピアノを弾く俺の手ばかりを見ていたんだ。ずっと、ずっと、穴が開くんじゃないかって思うほど見つめるから、すごく恥ずかしかった。でも、俺……恥ずかしいのと同じくらい……快感だったんだ。まるで、指先の触覚を刺激されたように……うずうずして、こそばゆくて……」

 それから、くるりとてのひらをこちらに見せる。

「やめられなくて……のんちゃんに、ピアノを弾く俺の手を見せたくて……」

 海雪のてのひらは、羽を広げた雄の孔雀のようだった。十の指先が緑色の目玉模様をして迫って来る。

 あの日から僕は、迂闊にも、舐めるように見続けていた。そのうちに、海雪の敏感な触手は、僕を捕らえて放さなくなった。

 僕は、初めから、その手の虜だったのだ。

「女の子、抱いたことある?」

 そうして孔雀の羽は、僕のくちびるに触れた。

「……ない」

 精いっぱいの声がかすれた。

「例えばさ、こんなふうに……」

 くちびるをなぞっていた手が肩を抱き、僕は吸い付くようにすっぽりと腕の中に引き寄せられる。

「こんなふうに……女の子を抱くでしょ。彼女たちって、マシュマロで出来ているみたいに柔らかいんだ。それに、熱い。自分の熱で、どうして溶けてしまわないんだろう、っていうくらいね。だから、握りつぶして粉々の砂糖にしてしまわないように、そうっと扱わないといけないんだよ……でも……それって変だよね」

 シャツ越しに、海雪の温もりが伝わる。

「変……?」

「だってさ……こっちの腹の奥はマグマみたいにぐらぐら煮えているんだよ。それなのに、ワレモノ注意、の但し書きが貼ってあるようなものじゃない」

 僕には、辺りで喚き散らすコオロギの声しか聞こえてこなかった。その中の一匹が、耳から体内に侵入し、身を隠す。どうやら、僕は、正気ではないらしい。

「……だけど……のんちゃんは、ちょうどいいよね。体温も、厚みも、重みも……」

 首筋から漂う海雪の香りに酔ってしまったみたいだ。

「体臭は?」

 酔った勢いで、生物教師が生徒の気を惹くために言った話を思い出す。

「……嫌な臭いでも……好きな臭いには惹かれるって……好きな臭いの他人ひととは上手くいく、って先生が言ってた……」

「のんちゃんは、いい匂いがするよ……のんちゃんの匂いがする」

「人は……自分と似た臭いには惹かれないんだって……」

「そうなんだ……」

 誰だって、自分に無いものが欲しいから……。海雪には、それは重要なことではないのかもしれない。だけど、つるバラのようにきつく体に絡みつく腕は、僕の何倍も気が違っていることを隠し切れないでいる。

 潜むコオロギが浸食を始める。僕は海雪の首筋に歯を立てた。

 海雪は一度、僕を強く締め付けると腕をゆるめ、耳たぶを噛んだ。頬に吸い付いた。鼻をぺろりと舐めた。

 恋情というよりは、仔犬の兄弟がじゃれ合うように、僕らはくちびるを噛み合う。

 獣の会話を続けながら、僕はジグソーパズルのピースをまた拾い集めていた。

 明日の朝、僕は、どんな顔で君に会おうか。満員電車で触れた手は、どうすればいいの?


 

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