第35話

 風が前髪をかすめた。眼を開き、すっかり暗くなった空の果てを見据える。

 腰ポケットの携帯電話が振動したけれど、僕は熱が冷めてしまったようだ。涼しさにシャツの袖を下ろした。

 やがて聞こえた足音に、また、寝たふりをする。

「あ、居た。のんちゃん、寝てんの?」

 捜しに来てくれたことが素直に嬉しかった。けれども、海雪はすぐには起こしてくれないので、ゆるみかけたくちびるを、また、きゅっと閉じた。

「のんちゃん」

 起こすべきか悩んでいる声だ。

「起きろよ、風邪ひくから……」

 僕は、いつまでもそうすることが辛くなり、眉根を寄せながら片目を開くと、両手で顔をこすった。欠伸をしながらのそのそと半身を起こす。

「ごめん……寝ちゃってた。みんなはどうした?」

「何言ってんの。何時だと思ってんの。みんな、とっくに帰ったよ。後片付け、のんちゃんの分までやったんだよ」

「うそ、やっべえな……」

「サボリ」

 海雪は、僕の荷物を振り回すようにして肩から下ろした。

「うっかりしてたんだよ」

「打ち上げ、明日だって。どうせ華ちゃんから連絡があると思うけど……」

 乱暴に下ろした荷物と一緒に、海雪もすとんとベンチに座る。

「打ち上げか……海雪は? 行くの?」

「行かない」

「……だろうね。じゃあ、俺もヤメよ」

「何で? 俺に遠慮してる?」

「してない。別に、そんな気分じゃないだけ」

 バッグを肩に掛けて立ち上がり、ふわああ、と声を上げて伸びをしてみせた。

「……何? 何か、あったの?」

 海雪は心配そうに訊ねた。

「いいや、別に……帰ろう」

 けれども、もう、何もない。何もないのだ。終わってしまったのだから。

 僕は、裏門に向かって歩き出した。

「うん、そうだ……。昨日、海雪のお母さんに会ったんだった」

「そうなの? あの人、来てたの?」 

「知らなかったの?」

 老朽化して少し傾いた門が、ぎい、と声を上げる。

「だって、あの人、来るも来ないも言わないから……いつも」

 学校周辺に立ち並ぶ住宅の、非常灯ばかりが眼につく寂しい帰り道で、海雪の声だけがよく聞こえた。

「例えば授業参観とか……『行く』なんて言っておいて行けなかったら、俺が残念がると思っていたみたいなんだ。だから、事前に、行く、なんて言わなかった。それで気い抜いていたら、教室の後ろにいたりすんの」

「はは……びっくりするな、それ。そういうときに限って、ポカやったりすんだよな」

「そ、忘れ物したりね。……今まで、文化祭なんか見に来たことなかったのにな……保護者会どころか面談もパスなのに……そうか、来てたんだ……。あの人、何か言ってた?」

「……ありがとう、って言われた」

「そう……」

 そして、海雪は黙り込んだ。

 大通りに出た途端に包み込む街の灯りと喧騒が、一層、僕を独りにした。






 地面を打ち付ける雨に、責められているようだった。どれくらい、ここにこうしていればいいのかが判らなくて呆然としゃがみ込む。膝に抱えた白い箱に、ぽつぽつと染みが付いていく。

 雨が止んだら帰ろう。と、つるバラに隠れて稲光の行方を窺う。雨雲を転がす音がゴロゴロ鳴り響いたと同時に右手が震えた。僕は、水滴を弾く待ち受け画面に親指を置いた。

「……はい」

「今、何してんの?」

「サイクリング」

「雨の中で? 雷、鳴ってるよ」

「……途中で降りだしたんだ」

「……本当に行かなかったんだね、文化祭の打ち上げ」

「行きたくなかったから行かなかったんだよ。勘違いすんな」

 雷に掻き消されそうで、僕は尖った声で叫ぶ。

「……雨、かなり降ってきたよ」

「通り雨だ。すぐに止むよ」

 雨の音で聞こえなかったのだろうか。携帯電話の声が途切れる。

「もしもし、海雪? もしもし……」

「もしもし、のんちゃん……でも……雨宿りするには……狭いでしょ? 俺んちの庇じゃ……いつから、そこにいるの?」

 海雪の声がステレオで聞こえた。右の耳には携帯電話から、左の耳には半分開かれた窓から。

「入れば?」

 海雪は携帯電話を耳に当て、窓枠にもたれていた。庇の下で縮こまる僕に、いつから気づいていたのか。

 恰好がつかなくて顔を歪めて立ち上がると、海雪は、大きく窓を開けた。

 

  

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