第26話

「ありがとうございます」

「助かりました」

 僕らより年下に見える小柄な少年に礼を言うと、彼はぐじゃぐじゃと髪をむしりながら、「どうも」と小さく頷いた。

「いくつなの? 大学生? 高校生?」

 金髪の女は、パイプ椅子を僕らに勧めながら言う。

「高三です」

「あらあ、この子と同じ歳じゃない。もしかして、受験生とかってやつ?」

 突然、闇夜に現れたときは、怪しげな小動物に見えたのに、今眼の前にいる女からは、どっしりとした母親の雰囲気が漂っている。

「偉いのね。この子は勉強が嫌いでね、高校にも進学しないで、じいさんの民宿を手伝ってんのよ。ま、アタシと亭主の子だから知れたもんだけどさ、アッハハハ……」

 彼女は胸の谷間に汗を光らせながら甲高い声で笑った。それがいつものことなのか、息子は母親に背を向けて事務机の前で淡々とフルートを磨いている。

 リュックサックを足下に置いた僕は、そわそわと壁の時計を見上げた。宿泊タイムまで、まだかなり時間がある。

 隣に座った海雪は、先ほどから部屋の中心を見据えていた。

「あんた、弾けんの?」

 女は隅の冷蔵庫から缶入りサイダーを取り出して言った。事務所のドアが開かれたとき、先ず海雪の眼を惹いたであろう、白いグランドピアノを横目で指し示す。

「少しだけ……ですけど」

 海雪はサイダーを受け取り、ぺこりと頭を下げた。

「あんたも?」

「あ、はい……少し」

「じゃあ、聴いてよ、アタシらの演奏」

 女は、とっととピアノの前に座って言った。

「いくわよ」

 それを合図に、彼女の息子は、歯を見せて苦笑いしながら立ち上がり、フルートを構える。女が静脈の透けた白い腕をゆらして鍵盤に指を置く。

 僕は、軽く鍵盤を叩く丸々した女の手と、ぐじゃぐじゃの前髪のせいで、眼が開いているのかも判らない少年の顔を交互に見ていた。間違いなく、アレンジされたショパンの「ノクターン第二番」は、軽快なボサ・ノヴァのリズムに乗って心地好い。

 けれども、ここは、山奥だった。熊には遭遇しなかったけれど、猪や猿になら襲われていたかもしれない。

 暗い山道を歩きながら、森の囁きが聞こえる度に、僕は、小さい頃に観た動物パニック映画を思い出していたのだ。確か、あれはグリズリーが人を襲う話だった。

「どう?」

 もしかしたら、ここは狐か狸のねぐらで、僕らは化かされているのじゃないか、と少し呆けていた僕に、演奏を終えた女は言った。「よかったです」と、ありきたりだけれど正直な感想を述べると、彼女は満足そうに頷いた。

「じゃ、次はあんたたちの番よ」

 驚いて、首を傾げて少し笑うと、彼女は「ほら、ほら」と椅子を立つ。

「弾けるって言ったじゃない。客室は防音ばっちりなんだから、下手でも聴こえやしないわ。ほら……」

 ああ……。気圧されて、僕は視線をピアノに飛ばす。

 ところが海雪は、僕の有無など最初からどうでもいいように、革の剥げた、横長の白いピアノ椅子の端に、さっさと、ちょこんと、座った。当たり前のように、海雪は連弾の準備に入ったのだ。僕は、海雪の隣に座るしかなかった。

 ディズニーの映画音楽の冒頭をポロンと確かめる。白いピアノの白い鍵盤は、その色のせいなのか、不思議と浅く感じる。

 ひとつ頷いてカウントする。軽い鍵盤に、うっかり指を滑らせてしまわないよう、リズムが走りがちになるのを抑える。

 海雪が合わせてきた。ちょっと遊んでやる。面白いほど、ついて来る。

 頭だけがふわふわと旅するように、ただ、楽しかった。

「へえ、上手いのね、びっくりだわ」

 へらへら笑う僕らを覗き込んだ女は、「ちょっと待って」と、壁際のクローゼットを開けた。

「今までのお客さんの中でも、上位クラスよ」

 かさかさと探し物をしながら言う。

「いつも、こんなことやってんのかな」

 小声で海雪に話しかけると、

「電車、しょっちゅう止まるんで、帰りそこないのハイカー見つけては……暇なんで……」

 うつむいた息子が言った。

「ウチさあ、お客さんにサービスでストッキングあげているんだけど……あんたたちには、こっちをあげるわ」

 女はビニール袋に入った新品のTシャツを見せながら、

「で、こっちはピアノのお礼よ。延長はサービスしとくわ、朝もゆっくり休んでいいわよ」

 と、バンガローの鍵をゆらした。手渡された鍵には、部屋番号ではなく、漢字が一文字書かれたプレートがぶらさがっていた。



 車庫の奥で、ランタン風の電燈が、涼風にゆれていた。照らされた扉には〝星〟と書かれたウエルカムボードが取り付けられている。隣のバンガローには〝風〟と、その隣には〝月〟で、その隣は〝雨〟だった。一番端のバンガローには車が停まっていたので、部屋の名前は分からなかった。

「あそこ」

 海雪が向かいのバンガローを指差した。〝雪〟と書かれたウエルカムボードを見つけた。

 鍵を鎖し、扉を開いた途端、心を被ったのは疲労感ではなかった。軽い調子で階段を上り、ソファにリュックを投げ捨てて、ベッドに身を放る。

 はああ、と蒲団に顔を埋めながら、さり気なく、真ん中でくっ付いたふたつの枕を両端へと離す。ぽうんっと横に飛び込んできた海雪が、同じように安堵の息を漏らした。

「ジャンケン、勝った方が先にシャワーな」

 洗浄を繰り返しても、情を交わしたニオイの染み付いたシーツから、僕は起き上がった。汗と雨と石灰水を浴びた体を洗い流し、糊の効いたバスローブを素肌に羽織る。

 脱衣カゴの携帯電話に手を伸ばすと、寝室から海雪の声が聞こえた。僕も、母さんの携帯電話に連絡を入れた。「バッカだねえ」と言う姉さんの声が、電話の向こうから聞こえた。腹も立たないほど全身の力が抜ける。

 暑さに耐え切れず、もうもうと湯気の充満した脱衣所のドアを開けた。冷気が入り込み、曇った洗面台の鏡が澄んでいく。

 ドライヤーの熱風に当たりながら、寝室の壁が夕焼け色に染まっているのを鏡越しに見る。天井のミラーボールが雪のように白い影を降らせている。夕焼け色の部屋は空色に変わり、次に桜色となり、やがて深海の色になる。

「マリンスノーって、こんな風に見えるのかな」

 と僕は言う。仔犬のようにベッドに座り込んでいた海雪は、壁に映る雪を眺めたまま言った。

「いい匂いがする」

「間違えて、女性用を使っちまった」

 けれど、海雪は、僕がきついボディソープの香りを纏ってベッドの端に居たからではなく、深海のプランクトンに想いを馳せていたことを見透かされたのが嫌だったから、深く、鼻で息をして、眼を開いて、そう言ったのだ……そうだったら、いい。

 仰向けに寝転がり、ううんん……と伸びをした。微かに流れるヒーリングミュージックが眠りを誘う。

 大きなベッドの真ん中でうとうとしていると、浴室から出てきた海雪が、ごろんと倒れ込んでくる。

「心臓の音がする」

「あたりまえじゃん、生きてんだから」

 僕の胸に耳を当てた海雪は、はは……と空っぽな笑い声を漏らす。

「もし……ねえ、のんちゃん……もしも今、山崩れとかに遭ったら、どうする?」

 イメージが及ばない質問に、僕は強張った笑みを浮かべる。

「困るな、それ。こんな山ん中じゃあ、直ぐ救助にも来てくれないだろうな」

「瓦礫の下敷きになって、ふたりで発見されんだよ……俺は平気だけど。死んでしまえば何も感じないし……」

「何だよ、死ぬのが前提なわけ?」

 海雪は少しの間を置いて静かに言った。

「親父の……死んだ人を思い出すときって、どんな顔をしていると思う? 俺が一番に思い出す親父の顔って、どんな顔だかわかる?」

 咄嗟に僕は、海雪の家に飾られた、幾つかの家族写真を思い浮かべた。どれも幸せな表情をしていた。

「死に顔だよ。お棺の蓋を閉じる直前の……花に囲まれたね。いい思い出はたくさんあるのに、最後に見た顔しか思い出せないんだ」

 ふふ……と哀しげに笑う声が、繋がった血脈のように心臓から響いた。

「もし天災に遭って孤立したとしても、俺は絶対に生きて帰る。足の一本や腕の一本くらいなくなっても、絶対に諦めない」

 僕はきっぱりと答えた。

「足がなくなると、マラソン大会でトップになれないじゃん」

「片足けんけんでも、俺はトップになるつもりだけど」

「でも、片腕だと、ピアノは、もう弾けないね」

「海雪の手を一本借りればいい……だから、そのときは、絶対に海雪も連れて帰ってやるよ」

 海雪は暫く黙り込み、そして、笑った。

「は……そりゃあ、いいや……」

 部屋中で、真夏の雪が、音もなく降り続いていた。

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