第7話

 あれから僕は、あのコンビニに度々立ち寄った。

 感謝しているのは当然だけれど、母さんが、「気温も湿度も上昇してきたから、お弁当が傷むのを心配しているの」なんていうことを口実に、朝のひと仕事をなんとかサボりたいと思っているのを見透かしていたから。

 登校前に、海雪が好みそうな甘いパンを見つけて、「美味そうだな」と手に取ってみる。でも、あのとき感じた〝ドックン〟の正体が解らなくて、また棚に戻す。海雪は季節限定夕張メロンクリームパン以来、触手が動かないらしく、北口のコンビニに現れることはなかったし、混雑した電車に乗る気もないようだった。

 いつものようにひとりで登校すると、華絵がやってきて海雪の席に座る。雑談しているうちにチャイムが鳴り、そこでようやく海雪は教室に現れる。相変わらず息を切らしている。

「おっはよう」

 華絵は、〝来たぞ〟と言わんばかりに乱暴な様子でリュックサックを下ろす海雪をかわすように、するりと椅子から立つと微笑んで自分の席に戻る。ここ最近の一連の流れだった。

 一時間目、英語の授業が始まる。すぐに僕は指名された。予めわかっていたことだから、抜かりなく予習はしてある。

 椅子を立ち二、三歩足を出したところで何かが脛に当たった。いいや、絡まった。違う、ひょいと持ち上げられたようだ。このまま倒れたら机の角に頭をぶつけてしまいそうだと、咄嗟に体をひねる。机と机の間に沈みながら持っていたノートがぱさりと落ちると、教卓の前で見事なスライディングを披露した。痛えな、肘をぶつけた。

「おい、大丈夫か」

 だけど、誰も僕など見ていないのだ。ガタガタ音をたてた後、ぬっと机の上から顔を出すのを見て、皆はやっとクラスメイトのひとりが転んだことに気づく。「大丈夫です」と返事すると、何事もなかったかのように再び教科書へと眼を移す。

 恥ずかしい。顔が熱くなる。睨むように海雪の顔を見る。

 ご、め、ん───

 ノートを拾い上げた海雪のくちびるが動いていた。くっきりと海雪の革靴の痕がついた、僕の英語のノートだった。黙ってそれを受け取った僕は、黒板に向かった。

 先生が書いた英文の下に、昨夜調べた和訳を書く。黒板にチョークを投げるように書く。白い粉が飛び散って折れたチョークが床に転がる。

 転がったチョークを追うように振り返ると、璃央と眼が合う。璃央は肘を撫でながら、指先でぴらぴらと絆創膏をゆらしていた。

 席に戻りながら折れたチョークを知らぬ顔で踏みつけた。両手を合わせた海雪は、ぺこりと頭を下げた。



「ねえ、血がついているよ」

 海雪が僕のたくれたシャツの袖を摘まんで言うので、箸を持つ手を顔の位置まで上げて肘を覗いた。血が滲み半分めくれた絆創膏を剥がして、肩の近くまでくるくると袖をまくり上げた。

 海雪は購買部名物の特大シュークリームを丁寧に割っていた。ソフトボール大のシュークリームには、カスタードクリームと生クリームが二層になって詰まっている。

「お詫びです。さっきは、ごめん」

 眼を伏せた海雪はシュークリームの半分を差し出す。

「気にしなくてもいいのに」

 と言いながら、僕は弁当箱の蓋をほいと突き出した。蓋にのったシュークリームがずしりと重い。

 箸をしまい、まず蓋の裏に流れ出たクリームを指ですくい舐め、綿菓子を摘まむようにそっと持ち上げる。このシュークリームは食べるのが難しい。知らずにかぶりつくと中のクリームがはみ出して落ちてしまうので、真上を向いて食べるのが学校の常識だった。

 ぶにゅっとはみ出して、くちにたっぷりついたクリームが、屋上のコンクリート床に落ちないよう、僕も空を仰ぐ。太陽が眩しくて、きゅっと眼を閉じる。

 とろりと流れ落ちそうなクリームを舐めとるためにぺろりと舌を出すと、やわらかい、なのに弾力のある、よく判らないモノに触れた。眼を開けようとしたけれど、瞼を透かす赤い恒星が眼球を焼いてしまいそうなので、更に強く閉じる。

「ああっ」

 判らないモノが理解できたとき、ドックン、と脈が乱れた。

「何だよ、おまえ。今、俺のクリーム食っただろう」

「だって、クリーム落としそうだったじゃん」

「落とさない、絶対。そんな、もったいないことするか」

「くちの端から、すっげえ垂れてた。絶対、落とす」

「はあ? だからって、ひとのくちについたクリーム、舐めんな。お詫びなんだろ、お詫び」

 クリームを吸い取った海雪のくちびるが、紙パックのバナナ・オ・レにささったストローをちゅうちゅうと吸っていた。

 こんなことまでして食べたかったのか。

 堪え切れずに、僕は体をよじらせ、足をばたつかせ、その場に転がった。ひいひいと腹を抱えて笑う僕を見て、笑いたいのを我慢するように海雪の頬がふるえる。そんな海雪が可笑しくて、僕はまた笑う。

 響く鳥の声に起き上がると、二羽の四十雀がフェンスに留まっていた。

 ここは、甘い香りをした苦い風が吹く、開放的な密室だった。だから僕は、チューピチューピカチカチと鳴く小鳥さえ、監視カメラに思えたのだ。

 僕らは誰かに見張られてはいないだろうか。

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