4-1

 さて、結論を先に言うと、僕とクレンの間に特別なことは何一つ発生しなかった。



 ……これはこれで誤解を招く表現だろうか。

 つまり何もなかったのだ。おっかなびっくりで借りた部屋に入るや否や、クレンは大きくて丸いベッドにぶっ倒れ込んでしまって、

「吹葵ー」

「な、何」

「胸、きつい。ブラ外して」

「……自分でやれ!」

 というやりとりの後、何やら背中に手を回してゴソゴソやるのを最後に(具体的に何をやっていたかなんて言わせるんじゃない!)そのまま眠りこけてしまった。

 もちろん僕も、その姿を見て……つまり黒いタイツに包まれた脚の形とか、短くはないが長くもないスカートが描く山なりのラインとか、横向きになって重なり合う

悩ましい胸とか、そういうものを見て何も感じないほどに男として死んではいない。

 しかし、

「…………」

 それらの後に赤らんだ頬の安らかな寝顔を見てしまうと、なんだかそんな劣情を

抱きつつあった自分を後ろめたく感じてしまう。

「…………ふふ」

 それはそれとして、その寝顔は撮影させてもらった。


 戦果に満足した僕は、これまた大きな白いソファに身を横たえた。

 そうして思い出すのは、先週……学部長の白の獣に首を絞められ病院に入れられ、その病院から出た足で大学に行った日のことだ。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 あの後一応の診断を受け、病院と警察に行くよう医者に言われた僕は、もちろん

それには従わず、ある予感を胸に、その足で大学に向かった。

 その予感は的中した。学部長の部屋の周りに、剣呑な黄色と黒のテープが張られ、見知らぬ作業員が数名、部屋の中をごそごそと漁っていたのだ。

 そしてその中には、昨夜『豪槍』と呼ばれた男性もいた。きっちり作業着を着込み汗だくで働く彼は、僕が声をかけようとしているところを目ざとく見つけると、億劫そうな表情をしつつ、ちょっと待ってろ、と言ってくれた。



「お前が何を話しに来たか当ててやろうか」

 開口一番がそれだった。湯気が立ちそうなくらい汗をかいている『豪槍』こと

辻本さん(そういう名札をつけていた)は、階段に腰を降ろしてこう言った。

「『自分に何かできることはありませんか』だろ」

「っ……」

「そういう目だ。否定してもムダだぞ、色ボケ学生」


 否定するつもりはなかった。まさしくその通りだった。

 今まで僕にとって、赤の人といえばクレン個人だった。しかし今回の一件で、辻本さんという別の『赤の人』が出てきた。クレンの後援者に斉木さんという人もいる。話を聞く限り何らかのネットワークがあるようだったし、そして今日、辻本さんは

明確に、他の人を伴って組織だって動いている。

 ならばそこに、僕も入る余地があるのではないか。彼女に協力することができる

のではないか。そう思ったのだ。

 そして、彼らが組織立って動くなら、まず真っ先に調査の手が及ぶのは、学部長の家、もしくはこの学部長室だろうと当たりをつけたのだ。



「そう思ってすぐここに来た勘の良さは悪くねえが」

 辻本さんは金属の細い筒のようなものを口に咥えた――電子タバコだ。

「赤の人の一族は、その関係者の一人一人に至るまで優秀な奴しかいねえ。たとえば今休憩してるあいつら」

 同じ作業着を着ていた作業員を顎で指す。

「どいつもこいつも警察だったり正規警備員だったりの前歴持ちだ。ああ、一番右端のは違うが、奴はピストル射撃の元選手。電撃銃テーザーガンを持たせてる」

「……大丈夫なんですか、法的に」

「ったりめえだ。貴重な人員を守るための法律家だって上にゃいる。そしてそういう人選は、何も臆病心で決めてる訳じゃねえ。あらゆる仕事を絶対確実にやるために

そう決めてんだ」


 辻本さんはタバコを口から離すと目を細めた。

「俺たちに失敗は許されん。一つの失敗も許されねえんだ。現実に失敗はするが、

それは決して許容されちゃならねえものなんだよ」

「……はい」

「そのためにはすべて一流でなきゃならん。設備もそうだ。装備もそうだ。そして

人員もそうだ。可能性はいらん。今、最高である奴が欲しい。……で、てめえは

どうだ?」

 電子タバコを向けられ、僕は思わず身をすくめた。辻本さんの目は鋭く、冷たい。

「人に誇れる特技はあるか。誰にも負けないと言える個性はあるか」

「それは……」

「意志も弱い。特技も個性もないから拒まれそうだと思った瞬間、お前は『ダメ元で聞いただけだし』と自分へ言い訳したな。どうしようもない凡人以下だよ、お前」

 ぐうの音も出ない。何もかも見透かされているようだった。



「まあ、それを差し引いてでもだ」

 もう一度タバコを咥え、辻本さんはどこか遠くの方を見た。

「たとえお前に超すげえ特技があったり、超やべえ強さがあったりしても、俺は

認めたりしねえよ」

「なんでですか?」

「動機が色恋だからだ。何でよりにもよってクレンなんだ……おっと、理由を言え

たあ言わねえからな」

 僕はこの人がクレンを何と言っていたか思い出す。『あんな薄汚い人殺し女』。

「ありゃ長くはたねえよ」

「……どういう意味ですか」

「そのまんまの意味だ。あいつは人を殺しすぎた。何故赤の一族が一般人を殺しちゃならんという理念を持っていたか。簡単だ。人を殺すやつは、そうでないやつに

比べて、本当に『死にやすい』んだ」

 それを聞いた時、僕は呪いか怨恨かなにかかと思った。だが事実は違った。

「大体600年前から50年前までの戦闘記録を見ると、殺してる奴は、殺してない奴に比べて明らかに早死にしてる。しかも戦いの中でだ。たとえば、誰か無茶をしねえと活路が開けない状況。たとえば、死の危険がある殿しんがり役。殺している奴は、そんな

あつらえたような『死に場所』に自ら突っ込んで、死ぬ」

「ジンクスですか?」

「統計だよ。数字だ。数字は嘘をつかねえ。だから戦争が終わって以来、赤の一族は殺人を禁じている。たとえそれが、白の獣を狩るより数段効率の良い力の貯め方だとしてもだ。俺も『信奉者』以外を手に掛けた事はねえよ。それすらキツいってのに」


 胸ポケットに電子タバコを仕舞い、辻本さんは立ち上がった。

「警告はしたからな。もう二度と顔見せんな」

「ありがとうございます」

 僕は頭を下げ、それからふと思いつき、訊いた。

「……どうしてわざわざ、僕にそんなことを?」

「昔似たようなバカを抜かす奴がいてな。甘い顔してたら付け上がりやがって」

「その人は……」

「もう誰も覚えちゃいねえよ」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 何かの物音と、甘い香りで目を開く。

 目を、開いた。そう、いつの間にか目を閉じて……眠ってしまっていたらしい。

 部屋は相変わらず、明るくもなければ暗くもない暖色の証明で照らされている。

クレンはソファ近くのローテーブルに腰掛けていた。


「おはよう、吹葵」

「……おはよう」


 寝ぼけ眼で応じて、口元が緩むのを感じた。なんだかとても懐かしく温かい

やり取りだ。そう。かつて僕らは、毎日のようにこう言い合っていた。クレンも

同じことを思ってか、柔らかな笑みを浮かべている。


「何時?」

「五時半。外、きっとすごく寒いね」

「冬だからな……あつつ」

 体を伸ばしながら座り直すと、クレンも僕の隣に腰を下ろした。



「私が寝てる間、何もしなかった?」

 そしてこんなことを訊いてくる。僕はまだ少しぼんやりした頭で頷いた。

「そっか」

「紳士だからね」

「紳士! こんな所に連れ込んでおいて」

「他になかった」

 どうかなー、怪しいなー、とクレンは笑う。それを見て僕もちょっと笑いつつ、

クレンの言葉について頭の隅で考える。


 まあ、こんなホテルに女の子を連れ込んでおいて何もしないだなんて、他の人から見たら信じられないかもしれない。根性なしだの据え膳喰わぬ恥男だの言われても

不思議ではないだろう。遊び人の西森くんに話したら、きっと大層笑われ、そして

バカにされるに違いない。

 だから何だ、と思う。人にどう思われようと、そういうことはするべきか否かではなく、したいか否かだろう。そして僕のそういう気持ちは、クレンの寝顔を見た時にしゅんと引っ込んでしまったのだ。僕らの関係は、きっとそういうもので――


(僕らの関係……)

 僕らの関係とは、なんだろう。思えば奇妙な関係だ。僕は間違いなくクレンの

ことが好きだけど、彼女にとって、僕は――

(――そういえば、もう一度会ってから好きだって言われてないな)

 今更な事実に気付き、少し血の気が引いた。思えば、あれから四年が経っている。赤の人として一族に合流し、疎まれながらも日本中を股にかけて活動してきた彼女の眼鏡に叶うのだろうか、今の僕は。

『どうしようもない凡人以下だよ、お前』

 辻本さんの言葉が脳裏に残響する。



「……そういえば」

 クレンが急に声を出して、僕の思考は急速に引き戻された。

「ちょっと予定が変わって、ちょっと急いで東京駅に向かわなきゃなんだよね」

「あ、そうなんだ」

「うん。ごめんね、慌ただしくて」

「良いよ。でも一緒に朝ごはんくらい食べれれば……と思ったけど」

「今からコンビニ行って、どこかで適当に食べようか?」

「そうだね……いや」

 クレンの言葉を聞き、僕は一つ妙案を思いついた。

「ちょっと歩かない?」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 料金を支払ってチェックアウトすると、案の定外は寒く、暗かった。

「なんか、手慣れてなかった?」

「昨日の内に使い方を読んでおいたんだよ」

「やっぱり来たことあるんじゃない?」

「ないって」

「……まあ、仮に来るような相手がいたとしても、こうやって私と出てきたところを見られたら終わりだね。ごめんね?」

 そう言いながら、クレンは僕の腕にしがみついて歩く。

「別に構わないよ。誰に見られても困りやしないからね」

「…………本当?」

「本当」

 そう言うとクレンが離れようとしたので、僕はその手を掴んだ。

「っ!」

「良いだろ、これくらい」

「……良いけど、これくらい」



 僕らはしばらく、手を繋いで歩いた。思えば四年前、クレンに手を引かれて夜空を滑ったことは何度もあったが、こうやって地上を手を繋いで歩くことは、あまり

なかったような気がする。しかも僕が先行してというのは、まず間違いなく初めてのことだろう。

 今はあの夜のように、温かい飲み物もカイロも持っていない。冷え切った外気の

最中、繋いだ手だけが温かい。


 とはいえ、途中でコンビニに立ち寄った時にはさすがにその手を離した。何を

買うか二人であれこれと話したが、結局肉まんと温かいコーヒーを一つずつ買った。

 それから目的地に着くまで、僕らはぽつぽつと話をした。


「……お母さん、元気にしてる?」

「まあ、してるんじゃないかな」

 僕がそう言うと、クレンは少し心配そうな顔をした。

「連絡とかしてないの? お父さんがいないんなら、お母さん、一人で寂しくしてるんじゃない?」

「随分気にするな……父さんの単身赴任はもう終わったよ。母さんは仕事もやめて、専業主婦」

 もともと母さんが働くのは、僕が二十歳になるまでだと聞いていた。

「……そうなんだ。なら良いけど」

 そう言いつつも、クレンの心配の顔色はまだ拭われない。

「そんなに母さんと仲、良かったっけ?」

「仲良しっていうか、吹葵のお母さん、私によくしてくれたから……」

「気が向いたら会いに行きなよ。たぶん喜ぶ……ああ、こっちは右」



 僕らは少し狭い道へと足を踏み入れ、やがて公園に入った。

「来たかった所って、ここ?」

「もう少し先」

 この公園は東京に来たばかりの頃、小さな地方誌で紹介されているのを見つけた

場所だ。近くに大きめの川が流れているのだが、その周りはぐっと海抜が下がる。

そのため、この辺りから川の方に向けて急勾配になっているのだが、そこに作られた公園がこれである。

「階段だから。足元気をつけて」

「うん……わ」

 二つの小さな公園が階段によって接続されている場所なのだが、その階段が僕の

好きな格別のポイントなのだ。クレンも足を止めて、目を細めている。

「海……」

「空も明るいね。でも星も見える」

 絶景ポイントである。川に向けての急勾配と言ったが、そもそもこの辺りは海にも近い。川向うは少しばかり海抜が上がるけれども、この階段から海を見通すのに、

邪魔な建物はないのである。

 海、空、水平線。すべてを一望できる、秘密のスポットが、ここだ。



「ほら、おいで」

「ん」

 クレンは僕に誘われるまま、階段に座り込んだ。僕は一段上に座る。コンビニで

買った肉まんを開け、もくもくと食べる。

「美味し……」

「温かいからね」

「それに、吹葵と一緒だから」

「……それもある」

「景色も綺麗だし」

 夜の空は、水平線の下の朝日に照らされ白み始めている。しかしそんな中でも、

冬の星は確かに瞬いている。

 綺麗な空で、僕の好きな空だ。それをクレンに見せようと、思いついた。


 そして、

「四年前の話をするよ」

 今しかないと、僕は決めた。

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